近侍の悲劇
- 海陵の母弟で輔國上将軍として卒し、天德二年衞王を追封(大定二十二年銀青光禄大夫に降格追贈)。子の和尚(樂善と命名され応國公に封ぜられた)は左宣徽使許霖の子知彰との争いに端を発し、和尚の母妃松科が家奴を使って霖を辱める事件を起こし世宗の裁定で処罰された。大定間、家奴小僧が「和尚が熟睡中に異兆があった」と妄言を流し、松科がこれを信じて日者李端・司天張友直に占わせ「必ず天子になる」との言を得たことが家奴李添寿の密告で発覚、和尚・松科は鞫問の末伏誅した。世宗は「海陵が宗族を粛清したことを常に痛んでいたのに、和尚のこの所業は、妖妄が愚民を惑わせるのを放置すればまことになりかねない、やむを得ぬ処置であった」と長く傷み悼んだ。
衮(本名富勒堅)――穆隆阿事件による処刑
- 性格は桀驁強悍で海陵は元来その人柄を好まなかった。輔國上将軍から特進・王封・吏部尚書・判大宗正事を歴任したが、宮中での言動が発覚し杖罰を受け、以後海陵の忌避が深まった。西京留守在任中、西京兵馬完顏穆隆阿と旧交を通じ玉帯を贈り「穆隆阿の驍勇は尉遅敬徳に劣らない」と評したこと、編修官元福努の妻の姻戚関係を通じた交流などが密告され、日者への運勢占いの疑いも加わり謀反の嫌疑をかけられた。御史大夫髙楨らの鞫問で証拠は得られなかったが、海陵は怒り中都で衮・穆隆阿・元福努と日者を処刑した。
史論(杲・宗幹以下について)
- 賛にいう。金が礼制度を議し爵禄を班し刑法を正し暦を治めて天子の事業を行い一代の典を成したのは、杲・宗幹の創始の功が多い。杲の子宗義は海陵に殺され、宗幹の後には海陵自身が生まれてしまった、だからその子孫の繁栄は乏しくまた僇辱を免れなかった。秦漢以降、国と休戚を共にする宗臣世家がいかに稀であるかを、ここに世の変転として見て取ることができよう。