金史卷七十二 列傳第十 古雲

闕陝の攻防と世宗擁立

  • 尼楚赫の子。若くして太祖に見出され父から甲を授かり伐遼の先鋒を務めた。西京攻略、太原・河東諸州・汴京攻略、大名府・東平攻略で常に功第一等を争い、康王・孟后の追撃、常武・沁州の攻略、西北諸部の平定(三千五百騎で九部を制圧)、和尚原・大散関・仙人関の戦(宗弼の策を助言)などで武名を挙げた。斉国廃止時、宋の李世輔が薩里罕を襲った際にはこれを救出し、太原尹として四境を治めた。陝西では吳玠の大軍に対し薩里罕・巴爾斯とともに三方から挟撃する策を献じ渭州で大勝、蜀方面を制圧した。刑部尚書・元帥左都監・右監軍を経て、契丹薩巴の反乱時は中都留守兼西北面都統として歸化州に駐屯していたが、世宗即位後、姪の阿爾法の説得を受け士卒の意向もあって左副元帥として帰順、大定元年、同知留守璋の謀略を疑い巧みに脱して世宗に合流した。二年、平章政事、東京留守・濟南尹を歴任したが在任中の黷貨(不正な蓄財)や近臣を拒絶する態度を世宗に厳しく戒められ、平陽尹致仕、のち西京・東京・上京留守を歴任し宗室の風紀粛正にあたった。十五年(1175年)致仕、十九年(1179年)享年七十四で薨じた。生涯十一度の論功行賞で金二百五十両、銀六千五百両、絹八百匹、綿二千両、馬三百十四頭、牛羊六千五百頭、奴婢百三十人を賜ったという。

瑪竒とその子烏色

  • 尼楚赫の母弟。十五歳から従軍し高麗兵・寧江州・黄龍府攻略に力戦、咸信・瀋州・東京諸城の攻略や高州境での敵撃破に功を重ねたが、髙州境の戦いで矢を目に受け戦死した。皇統中、銀青光禄大夫を追贈、毅敏と諡された。子は烏色。
  • 烏色は十七歳で従軍、父の死後その職を継ぎ、宗望の伐宋、康王・淮南への追撃、陝西攻略の右翼都統として功を挙げ穆昆に正授された。華州防禦使として関中の飢饉に伴う盗賊を討平し、徳哷勒・塔喇部族節度使、都水使者、同知燕京留守事、西北路招討使を歴任。西北路招討使薩巴が任期を過ぎても俸禄を貪り解官しないことを摘発したが、まもなくその薩巴の反乱に巻き込まれ殺害された。