金史卷七十 列傳第八 宗賢
政争に巻き込まれた宰相
- 希卜蘇の孫。都統杲に従い中原を取り、遼帝を鴛鴦濼に襲う諸戦に功があり、累官して左副点検に至った。天眷二年、宗雋捕縛の際に宴会に同席していたことで一時官爵を奪われたが復した。皇統四年(1144年)世襲穆昆を授かり、都点検・豳國公・平章政事・右丞相兼中書令・太保左丞相監修國史・左副元帥・南京留守・西京留守・左丞相兼都元帥などを歴任した。護衞から二十年足らずで将相を兼ね、悼后一派に阿らず、皇太子濟安・魏王道濟の死後、熙宗に後宮より継嗣を広めるよう勧めて悼后の怨みを買った。海陵も表向き敬いつつ内心これを忌み、悼后とともに排斥した。胙王常勝の死後、熙宗が常勝の妻を宮中に納めたが、これを皇后に立てようとしていると誤って伝わり、海陵が熙宗弑逆後に諸王大臣を召した際、宗賢は「常勝の妻を后に立てようとしているに違いない、力を尽くして争おう」と信じて参内し捕らえられた。最期まで「主上が常勝の妻を立てようとしているなら殺してでも止めねば」と思い込んだまま殺害された。