金史卷六十六 列傳第四 宗賢

清廉で名高い節度使

  • 宗賢は本名を阿嚕といい、太祖の遼討伐に寧江州・臨潢府攻めで従い、太宗が監国の際その側近に選ばれ厚く信任された。臨潢が再び叛くと宗望に従いこれを復し、内庫都提点、歸徳軍節度使に遷り寛簡な政を行い治は大いに整った。任期満了時、士民数百千人が朝廷に留任を求め、武定軍への転任時には百姓が老幼を連れて数十里も見送り悲しんだ。永定軍への転任時には廉訪する官吏に士民が盆水と鏡を持ち「使君の廉明清直がこの通りである」と称え、宗賢は「郡僚の廉能は皆このようなものか」と問うと「公の勤清儉が皆の模範となっている」と答えられた。両階を超遷され天徳初め世襲穆昆を授かり、召還の際は雄州の父老が公署に青縄を張り明鏡を懸けて老幼が門を埋め三日出立できなかった。定国公に封じられ忠順軍節度使として玉帯を賜り、捕盗司が捕らえた者を「案は既に具わったか」と問い、その明察により冤罪を防いだ逸話がある。海蘭路兵馬都総管、広寧尹を経て広平郡王に封じられ、崇義軍節度使兼北京宗室事を領したが、正隆の例で王爵を奪われ金紫光禄大夫、臨海軍に改められた。大定初め召しに応じて諸宗室を率いて遼陽で見え、同簽大宗正事、景国公に封じられて致仕、後に博索路兵馬都総管として起用され再び致仕して卒した。