天子車輅の制
- 車輿の制は各々名物と表識を持ち、祀・封・田・戎に応じて上下を分かつのが古の意である。金は初め遼の儀物を得、続いて宋を克して車輅の制を有し、熙宗が燕京に幸した際に初めて法駕を用い、世宗の代に制度が定まった。
- 大定十一年(1171年)、南郊祭祀にあたり太常寺が宋の南郊礼鹵簿を検し、玉輅・金輅・象輅・革輅・木輅・耕根車・明遠車・指南車・記里鼓車・崇徳車・皮軒車・進賢車・黄鉞車・白鷺車・鸞旗車・豹尾車・軺車・羊車各一、革車五、属車十二を用いるべきとしたが、既にあった車輅以外の象輅・木輅・革輅・耕根車・明遠車・皮軒車・進賢車・白鷺車・羊車・大輦各一と革車三・属車四が欠けていた。宋の五礼新儀では玉輅は青、金輅は緋、象輅は銀褐、革輅は黄、木輅は皁を基調とし、装飾の色にも細かな規定があった。象輅・革輅・木輅・耕根車・皮軒車・進賢車・明遠車・白鷺車・羊車・革車・大輦の仕様(材質・色・彫刻・装飾)が定められ、大輦は宋の陶穀が創意して作った故事があるが重すぎたため後に減量された例に倣い、金でも意匠を凝らして製作した。
- 皇后の車は六種あり、重翟車(青質、金塗銅の花葉飾り、明金の立鳳、紫羅の帷など)・厭翟車(赤質)・翟車(黄質)・安車(赤質)・四望車(朱質)・金根車(朱質)が、それぞれ細部の色や飾りを違えて作られた。六車完成後、さらに円輅・重簷方輅・五花亭頭・平頭など六等の制も加えられ、九竜車一・五鳳車四・円輅車一・方輅車一・重簷車一を増製し、いずれも馬四頭で牽き、駕士各五十人を配した。平頭輦・五花輦・亭頭輦各一も舁士各九十六人で二番に分けて担われ、扇障の制(偏扇・仙人羽扇・行障六扇・坐障二扇・錦六柱八扇)も細かく定められた。妃嬪の車輦は明昌元年(1190年)三月、鍍金鳳頭黄結(妃)・間金鳳頭梅紅結子(御妻・世婦)と定められた。
- 皇太子の車制は大定六年(1166年)十二月、金輅の名件・色数を天子の金輅に準じつつ九分の一を減じ、軾前の金龍を伏鹿に、旂十二旒を九旒に、駕す赤騮六を四に、簾褥の黄羅を梅紅に改めるなど細部を勅で定め、天子の輅(頂から地まで一丈七尺)に対し四分の一を減じ一丈三尺二寸とした。
- 王公以下の車制は、一品は轅に銀の螭頭・涼棚杆子・月板を用い、三品以上は螭頭に銀を用いず涼棚杆子・月板のみ銀装飾を許され、五品以上は轅に獅頭、六品以上は雲頭を用い、庶人の坐車は平頭で黒油一色とした。親王の鞍は塗金銀裹に開花の障泥を紫羅・錦飾とし、轡は塗金銀装飾に糸結びとした。皇家小功以上・太皇太后皇太后大功以上・皇后期親以上及び一品官で官職ともに三品以上の者は障泥に金を用いることを許された。承安二年(1197年)、護衛の銅装鞍轡は他人に貸すことを禁じ、庶人の鞍馬は黒漆に骨角鉄の飾りのみ許し玉・金銀・犀象での装飾を禁じた。
天子・皇后・皇太子の冠服
- 聖人が玄黄黼黻の服を制して天地の徳を象り貴賤の儀を明らかにしたのに始まり、夏商を経て周に大備した。金制は皇帝が通天冠・絳紗・衮冕・偪舄を服するのを前代の遺制とし、臣下には貂蟬の法服(いわゆる朝服)があり、章宗の時、礼官は漢唐を参酌し祭服を新たに製し貂蟬・豎筆を去って朝服と区別すべきと請うた。
- 天眷三年(1140年)、燕京行幸に用いる通天冠絳紗の各名件(裳・方心曲領・中単・蔽膝・革帯・大帯・玉具剣・綬・佩・舄・韈)を成造した。乗輿の服は大綬六采(黒黄赤白縹緑)に小綬三色を配し、大綬に三玉環を施し大綬五百首・小綬はその半分とし、白玉双佩・革帯玉鈎䚢を用いた。冕は天板長一尺六寸・広八寸、前高八寸五分・後高九寸五分などの寸法が細かく定められ、青羅表・紅羅裏、金稜で飾り、四柱に真珠網結の飾り、前後の珠旒各二十四旒(長さ一尺二寸)、天河帯・組帯・黈纊二・真珠・玉簪などで構成された。衮は青羅の夾製に五彩間金で日・月・昇龍・山・華虫・火・虎蜼などの文様を正面・背面に配し、中単・裳・蔽膝・綬・佩・革帯・韈・舄なども寸法・材質・文様が細かく規定された。大祭祀・尊号奉上・受冊宝の際は衮冕を、行幸斎戒や正殿御出の際は通天冠絳紗袍を服した。
- 鎮圭・大圭は皇統九年(1149年)十月、太常書の圭の様式を三礼図に基づき定め、大定十一年(1171年)にも大圭・鎮圭の寸法差(大圭は三尺、鎮圭は西魏隋唐以来一尺二寸)について議論があり、御府に蔵する故宋の玉圭を用いることとなった。
- 視朝の服は太宗即位の当初から赭黄を服し、章宗即位時、世宗の喪により純吉の服を辞退し淡黄袍烏犀帯を服し、常朝には小帽紅襴偏帯または束帯を服した。
- 皇后冠服は花珠冠(九龍四鳳・鸂鶒孔雀雲鶴王母隊仙人などの飾り)・褘衣(深青羅に翬翟の文様、十二等)・中単・裳(翟文六等)・蔽膝・大綬・大帯・佩・革帯・抹帯・舄・韈・犀冠などが細かく規定された。
- 皇太子冠服は冕(白珠九旒)・衮青衣朱裳(五章・四章)・白紗中単・玉帯・蔽膝・瑜玉双佩・大綬・白韈朱舄で謁廟の際に服し、逺遊冠(十八梁)・朱明服紅裳などは冊宝の際に服した。桓圭(長さ九寸、広さ三寸)は入朝起居・宴の際に用い、視事・見客には小帽皁衫玉束帯を服した。
- 宗室及び外戚・一品命婦の衣服は明金の使用が許され、五品以上の官の母妻には霞帔が許され、首飾りは霞帔の領・袖・腰帯に明金・籠金・間金を用いることができたが、衣服自体は明銀・象金・金条壓繍にとどめられた。私家での純黄の帳幕使用や賜り物の意匠を留めることは禁じられた。
- 臣下の朝服は導駕・大礼に文武百官が服するもので、正一品は貂蟬籠巾七梁額花冠・貂鼠立筆・銀立筆犀簪導・佩剣・緋羅の大袖・裙・蔽膝・大帯・玉環綬などを、正二品は七梁冠、正四品は五梁冠(御史中丞は獬豸冠)、正五品は四梁冠、正六品至七品は三梁冠と、品級に応じ梁数・綬の色・佩の材質が異なった。
- 祭服については、皇統七年(1147年)太廟成後の升祔・祫享に際し、執事助祭陪位官の服制(衮冕九章か七章か、龍を画くべきか)を巡り漢魏以来の議論が参照され、結局後魏の故事に倣い燕京の大冊礼で用いた朝服のまま祭ることとなった。大定三年(1163年)に皇統の制に戻し、攝官は朝服、散官は公服とし皇太子を亜献として衮冕十四旒を服させ、十四年(1174年)には唐制に倣い雨雪の際は常服(公服)を用いることとした。泰和元年(1201年)、礼官は祭服が事神、朝服が事君のためのものであり両者は区別すべきとし、漢唐の故事に倣い祭服には冕旒に章を画くことを提案したが、龍の意匠が僭越にあたる懸念から、冠は朝冠から貂蟬・豎筆を除いたものとし、服は青衣朱裳・白韈朱履とし、攝事者は朝服を用いることとなった。
- 公服は大定官制で五品以上が紫を服し、三師三公親王宰相は大独科花羅(径五寸以内)、執政官は小独科花羅(径三寸以内)、二三品は散搭花羅(径寸半以内)、四五品は小雑花羅(径一寸以内)、六七品は緋の芝蔴羅、八九品は緑の無紋羅を服した。武官はみな紫を服し、各局承応人は無紋素羅を服した。十五年(1175年)、袍に襴を加えることを定め、皇太子は玉帯佩玉双魚袋、親王は玉帯佩玉魚、一品は玉帯佩金魚、二品は笏頭毬文金帯佩金魚、三四品は荔枝または御仙花金帯佩金魚、五品以下も服色に応じ紅鞓烏犀帯・皁鞓烏犀帯を佩金魚または佩銀魚とするなど細かく定められた。大定二年(1162年)、百官の趨朝には裹帯を必須とし、五品以上は朝服、赴省時は展皁とし、雨雪の際は便宜に従うこととした。
衣服の通制
- 君子の服は徳に相応するもので、風俗の奢倹・法令の斉一を映すものである。明昌年間、章宗は「今の風俗は奢靡である。制度で律して貴賤に等差をつけるべきだ」と宰臣に諭し、礼部に典故を具さしめた。参知政事張万公・左丞守貞との対話では「商賈に不満が出るだけで、三年の猶予を与えれば制に従うだろう」との見通しが述べられ、上は礼部の擬案を尚書省の案で行うこととした。
- 金人の常服は四帯巾・盤領衣・烏皮靴で、束帯は「陶罕」と呼ばれた。巾の制は皁羅または紗で作り上を結んで方頂を後ろに垂らし、頂下の両角に方羅を綴じその下に帯を垂らすもので、貴顕の者は方頂に十字縫を巡らせ珠を鏤め、大きな珠を「頂珠」と呼び帯の傍らには珠を絡めた綬を垂らした。衣の色は多く白、三品以上は皁で、窄袖盤領で腋下を襞積とし袴を欠くことがなく、胸・肩・袖には金繍を施すこともあり、春水の服には鶻が鵝を捕える文様、秋山の服には熊鹿山林の文様を用いるなど、狩猟の季節に因む意匠が特徴であった。陶罕(帯)は玉を上とし金・犀象骨角が次ぎ、銙は前に小さく後ろに大きく双䤩尾を納め、刻琢には春水秋山の飾りが多く、左に牌、右に刀を佩び、刀は鑌鉄柄を貴び鶏舌木の黄黒相半ばする双距のものを上とした。初め、女直人が漢姓に改めたり南人の装束を学んだりすることは禁じられ、違反者は杖八十とされた。婦人の服は襜裙が多く黒紫を基調とし全身に繍花を巡らせ、団衫は黒紫皁紺の直領左衽で前後に襞積を持ち、老年者は皁紗で髻を籠め玉鈿を散らし「玉逍遥」と呼んだが、これらはみな遼の服を金が襲ったものである。許嫁の女は「綽子」と呼ばれる婦人服に似た衣を着けた。
- 明昌六年(1195年)、文武官で俸禄六貫石以上の承応人及び蔭を受けた者は牙領・紫円板・皁絛羅帯・皁靴を許され、儒生は白衫領繋背帯・紫円絛羅帯・皁靴のみとし、その他は紫領のみで縁取り・雑色の使用を禁じた。泰和四年(1204年)、親王・品官の領縁とともに皁靴の禁が煩雑すぎるとして親王には銀褐領紫縁を、品官には紫領白縁を許し、他は明昌の制に従った。
- 大定十六年(1166年)、世宗は吏員と士民の服に区別がなく賄賂の授受を検察しにくいことから「書袋」の制を定め、省・枢密院の令訳史は紫紵絲、台・六部・宗正・統軍司・検察司は黒斜皮、寺監・随朝諸局・州県は黄皮でそれぞれ長さ七寸・幅二寸・厚さ半寸の書袋を作り束帯に懸けさせた。大定十三年(1173年)、士人・僧尼道女冠で師号を持つ者、良民官八品以上は花紗綾羅絲紬を許され、婦人は珠を首飾りに用いることを許され、庶人は絁紬絹布毛褐花紗無紋素羅絲綿にとどめ、金玉犀象・瑪瑙玻璃での器皿・装飾を禁じ、婦人の首飾りも珠翠鈿子等を禁じ、兵卒・奴婢・倡優にもそれぞれ服の等差が定められた。