金史卷三十三 志十四 禮六 原廟儀・朝拝儀・朝謁儀・別廟

原廟

  • 太宗天会二年(1124年)、西京に大聖皇帝廟を立てた。熙宗天眷二年(1139年)九月には上京の慶元宮を太祖皇帝の原廟とし、皇統七年(1147年)、慶元宮の門の旧名「景暉殿」「辰居殿」が廟の名としてふさわしくないとして殿名を「世德」に改めた。この年、東京の御容殿も完成した。
  • 世宗大定二年(1162年)十二月、会寧府は国家興隆の地であるとして、慶元宮の跡に正殿九間を建て旧号を継いで時享させるよう詔した。海陵天德四年(1152年)、有司は燕京に太廟を建てるにあたり原廟も併せ立てるべきかを議し、三代以前には原廟の制はなく漢の恵帝に始まった故事を引きつつ、両都で告享するのは煩雑であるとし、燕京に建てる原廟でのみ行事することとして、その宮を「衍慶」殿を「聖武」門を「崇聖」と名づけた。
  • 大定二年(1162年)、睿宗の御容を衍慶宮に奉遷。五年(1165年)、会寧府の太祖廟が完成し、有司は御容の安置を奏した。それまで衍慶宮に蔵していた太祖御容は法服一・立容一・戎衣一・佩弓矢一・坐容二・巾服一(旧は会寧府安置)・半身容二・春衣容一・巾に紅衣の像二(旧は中都御容殿安置)の計十二あり、便服容一を選んで遣官・奉安することとした。護送には龍車一(青布の亭子状で牛に牽かせ、駞五頭も用いる)・旗鼓五十・香輿一・導従六十人・執扇八人・兵士百人・護衛二十人(宗室明安穆昆の子孫)を配し、道中の州県官が出迎え、会寧府では官員が香輿を備えて出迎え、廟門で御容を太祝四員が奉じて中門外の東壁の幄次に安置し、後日改めて奉安の礼を行った。
  • 二十一年(1181年)閏三月、旨により昭祖・景祖を燕昌閤上に、粛宗・穆宗・康宗を閤下に、明粛皇帝を崇聖閤下に奉安することとなり、各位に黄羅幕・黄羅明金柱衣二・紫羅地褥一・龍牀一・踏牀二などを備え、四月一日に奉安、五日に親祀した。同年五月、聖安寺の睿宗皇帝御容を衍慶宮に遷し、皇太子・親王・宰執が奉迎して安置した。
  • 御容の奉安の礼では、殿庭に親王・宰執以下百官の拝位、東階下に盥洗位、神位前には北向きの拝褥位・香案・香炉・匙合香・酒果器皿を、聖武殿上にも香案などを設け、殿下には腰輿一(舁士十六人)・傘子各二人・執扇各十二人・導従弩手各三十人を配した。前日、親王は本府で、百官はその邸で清斎し、当日、礼官が太廟署官らと崇聖閤で世祖御容を奉じ聖武殿の神座に安置、親王・宰執・百官が礼直官の先導で上香・再拝を行い、御容を腰輿に移して広徳殿へ導き、そこで正面に安置して再び上香・奠酒・再拝の礼を行った。続いて太宗御容を丕承殿に、睿宗御容を天慶殿に、同様に安置した。

朝謁儀

  • 大定十六年(1176年)四月十九日、世祖御容の奉安に際して朝謁の礼を行った。前日、皇帝は内殿で、皇太子は東宮で、親王は本府で、百官はその邸で斎戒し、太廟令が衍慶宮の内外を掃除し、親王・百官の拝位、皇太子の拝褥、宣徽院による聖武門外の西向き御幄・霊星門東の皇太子幄次を設けた。当日、儀仗を応天門に列ね、皇帝は靴袍で輦に乗り応天門を出て衍慶宮門外で降り、御幄に入り、親王・宰執・四品以上の執事官が殿庭で東西に分かれて立ち、皇太子は褥位の西に立つ。宣徽使の先導で皇帝は殿上の褥位に至り、皇太子以下群官とともに再拝を重ね、神御前で上香・奠酒の礼を行い、最後に宣徽使が礼畢を奏して皇帝は御幄に戻り、還宮した。十九年(1179年)の奉安でも同じ礼を行った。

朝拝儀

  • 太祖の忌辰には、皇帝は褥位で再拝し、東寄りで香案前に進んでまた再拝・上香し、位に戻ってまた再拝、進食・奠茶・辞神でそれぞれ再拝して退く、という作法であった。二十一年(1181年)五月十二日、睿宗の忌辰に有司が儀を改め定めた。前日、宣徽院が天興殿門外に御幄を設け、当日、皇太子・親王・百官は衍慶宮門外で公服にて出迎え、皇帝は馬で門外に至り殿門から歩いて入り輦に乗り換えて天興殿門外で降り御幄に入る。皇太子・親王・宰執以下は殿庭に分かれて立ち、宣徽使の先導で皇帝が殿上の褥位に至り、再拝・上香・奠酒の礼を行い、皇太子が二拝・奠酒・二拝、終献官として趙王が続き、皇帝が最後に再拝して礼を終える。
  • 大定五年(1165年)、太祖の忌辰には衍慶宮の薦享は素食のみとし、諸京の御容所在地でも同様とすること、朔望にも朝拝の礼を行うことを定めた。六年(1166年)、有司は皇帝親奠の際は百官も陪拝するが、車駕巡幸中は宰臣を班首として百官が衍慶宮に詣でて行礼することとした。十六年(1176年)、世祖・太宗の忌辰も同様に奉奠することとし、十八年(1178年)八月の太祖忌辰には世祖・太宗が同じ場所で祭られるようになり、有司は歴代に一聖の忌辰に列聖を並せ祭る典故がないとしつつも、太子一位を遣わして行礼し併せて功臣も祭ることとした。二十六年(1186年)、内外の祖廟の異同を勘案し、太廟の毎歳五享・山陵・朔望・忌辰・節辰の祭奠は前代の典故どおり、衍慶宮の車駕巡幸中の祖宗忌辰の百官行礼や諸京祖廟の節辰・忌辰・朔望の拝奠も典故はないが従来どおり続けることとした。

別廟

  • 大定二年(1162年)、有司は閔宗に嗣がないため別に廟を立てるべきとし、時祭では「宗」を称さず「武靈」を廟号とすることを奏した。また唐の別廟が必ずしも太廟垣内にある必要はない例を引き、武靈皇帝は「宗」を称さず祫享にも与らないため、太廟東側の垣外の空地に建立することとし、許された。十四年(1174年)廟が完成し、後に諡「孝成」を追加したことから「孝成廟」とも呼ばれた。十五年(1175年)三月戊申、武靈皇帝と悼皇后を安置し、前期一日、太廟十一室と昭德皇后廟に奏告した。四月十七日、太廟の夏享と同時に行礼し、判宗正英王爽が攝太尉として初献官、兵部尚書譲が攝司徒、大理卿天錫が攝太常卿として亜献、大興少尹高居中が攝光禄卿として終献をつとめ、以後毎歳五享を常とした。十七年(1177年)十月の祫享では、唐礼の孝敬皇帝廟・譲皇帝廟の先例を検討し、武靈皇帝廟の敷地は太廟と規模が異なり宮縣楽舞・楽器を備えるのが難しいとして、唐の譲皇帝祫享の故事に倣い楽は登歌のみとし、牲牢・樽俎は太廟一室と同様とすることとし、祫享で親祠の際は毎室一犢だが有司攝官の場合は三犢を共用する例に合わせ、太廟・別廟あわせて三犢、武靈皇帝廟の楽は登歌とすることが勅で定められた。大定十九年(1179年)四月、太廟に升祔されるとこの旧廟は毀された。
  • 昭德皇后廟。大定二年(1162年)、有司は唐典を援用して昭德皇后に別廟を立てるべきとし、太廟内垣の東北に建立することとなった。三年(1163年)十月七日、太廟の祫享に合わせ睿宗皇帝と昭德皇后の神主を同時に製造・題写し、殿庭に詣でて謁したのち祖姑欽仁皇后の左に祔し、享祀を終えて本廟に戻した。十二月二十一日の臘享で礼官は、唐礼では別廟の薦享も太廟一室の儀に準ずるが、太廟の享祀を終える頃には質明を過ぎているため別に官を差して攝祭させるべきと奏し、許された。後に殿の規模が小さいことから太廟の東に別に一位を建立し、十二年(1172年)八月に完成した廟は正殿三間で東西各半間を空け、両間を室とし西の一間の西壁上に祏室を安置、便門で太廟と通じ、旧殿を冊宝殿とし祏室は廃した。十三年(1173年)六月二十一日、太廟に奏告し別廟にも祭告、二十三日に奉安し、先の祫享過廟の儀に従った。鹵簿は廟が近いことから清道二人・団扇二人・職掌二人・衙官二十六人(十三重、供奉官が充てる)・腰輿(輿士十六人)・傘子二人・団扇十四(七重)・方扇四・排列職掌六人・燭籠十対などとし、皇太子が百官を率いて行礼した。前日、行事執事官は祠所で清斎・習儀し、太廟令が廟内外を掃除、礼直官が皇太子・執事官・親王百官の位次や神位・祝案・尊彜の位、盥洗爵洗位を設け、太廟令が室内の神位を旧廟と同様に整えた。奉安の日、皇太子は公服で騎馬にて廟門外に至り歩いて入り、親王百官は常服で殿階に西上重行に並び、皇太子が絶席位に立ち、再拝ののち宮闈令が昭德皇后神主を座に捧げ置き、再び再拝、内常侍が跪奏して神主を新廟へ奉安することを請い、几・神主を輿に載せて紅羅の帕で覆い、皇太子が徒歩で従い、親王・百官が続き、別廟殿下に至って升殿・安座、皇太子が盥手・洗爵・執爵・三祭酒・奠爵の礼を行い、太祝が祝を読み、再拝を重ねて礼を終え、神主を室に納め、祝を坎に瘞めて終わる。十一年(1171年)の郊祀前日には太廟の朝享と同日に登歌の楽で三献の礼を有司が攝行した。二十六年(1186年)、太廟内に昭德皇后の影廟を別に建てるよう勅があり、殿三間・霊星門・神厨・西房各三間を新設し、正南に「坤儀」と名づけた正門を新たに創建、旧来の便門は禘祫祔享の際に用い、毎歳五享と影廟行礼は正南門を用い、廟外に斎廊房二十三間を建てた。
  • 宣孝太子廟。大定二十五年(1185年)七月、有司は唐の典故に倣い太子にも廟を置き官属を設けて奉祀すべきとし、法物庫の東に殿三間・南垣及び外垣に各一屋三門・東西垣に各一屋一門を設け門に九戟を立てる案を奏した。また旨により太子廟に神主を安置したのち別に影殿を建てることとなり、殿のやや西に磚墉で区切った影殿三間を築き、東西門外垣の正南に三門と左右の翼廊二十間、神厨・斎室各二屋三間を設けた。この年十月に廟が完成、十一日に神主を奉安、十四日に奉遷した。画像・神主は栗材を用い唐制の諸侯の例に倣い一尺、諡を背に刻した。省部が官を遣わして廟の西南隅に北向きの幄次を設け製造を監視、前日に製造を終え、当日夕方に神主を箱に収め帕で覆って幄中に運び、翌日丑の刻前、題神主官が典儀・礼官とともに幄次に至り、盥手ののち神主を香湯で沐し羅巾で拭き、褥位で背に「宣孝太子神主」と墨書し光漆で仕上げ、箱に収めて梅紅羅の帕で覆い座に安置した。祭儀では有司の言により祖廟の四時祭享に準じ、初献は皇孫または皇族、亜献は皇族または五品以下がつとめ、楽は登歌を用い人数を二十五人に減じ、接神には無射宮、升降・徹豆には夾鐘の楽を用い、牲は羊豕各一、籩豆各八、簠簋各二、登鉶各一とし、他の祭食も相応に減じた。二十六年(1186年)十一月一日、神主廟の牲牢・楽県を官給とし、影廟は皇孫が奉祀することとした。