金史卷八 本紀第八 世宗下

世宗の治世後期(大定21年〜29年、1181–1189年)を収める。倹約と民生重視の政治を貫き、皇太孫の冊立を経て大定29年正月に崩じた。「小堯舜」と称された治世の総仕上げの時期にあたる。

年表(6件)

大定二十一年(1181年)

  • 正月戊申朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。壬子、夏国の請いで綏徳軍の榷塲を復すことを詔しなお館に就いて市易することを許した。上は山東・大名等路の明安穆昆の民が驕縦奢侈で耕稼を事とせぬことを聞き、使者を遣わし口を閲実させ地を授けさせ必ず自耕させ地に余りがあって力の及ばない者はようやく人を招いて租佃することを許し、なお農時の飲酒を禁じることを詔した。丙辰、廃帝の海陵煬王亮を庶人に追貶することを中外に詔した。甲子、春水に行った。丙子、永清県に次った。契丹人の伊喇額哩頁という者があり虞王明安に隷し一妻一妾があった。妻の子六人、妾の子四人、妻が死ぬとその六子は墓下に廬してさらに宿守した。妾の子はみな「これは嫡母だ、我らだけがどうして墳墓を守らずにいられようか」と言い、また更に宿守した。三歳になっても一日のようであったので、上は猟に過ぎった折にこれを聞き銭五百貫を賜り県官に市で銭を積ませてから孝子の勧めとしてこれを与えさせた。2月戊戌、太白が昼見した。庚子、還都した。壬寅、河南尹の張景仁を御史大夫とした。乙巳、元妃李氏の喪をもって興徳宮を致祭したが市肆を過ぎるとき楽声を聞かないので上は宰臣に「妃の故をもってこれを禁じているのか、細民は日々作業して食を得ているのだからこれを禁じれば生計を廃することになる、禁じるな」と言った。上が前に興徳宮に詣でようとした時、有司は薊門を由ることを請ったが、朕は市民の生業を妨げることを恐れ特に他道より行った、街衢の門肆を顧見するとあるいは撤毀して簾箔で障る者があった、必ずしもそうする必要はない、今より復び撤毀することなかれ」と言った。3月丁未朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。上は初め薊・平・灤等州の民が食に乏しいと聞き有司に粟を発して糶らせ、貧しく糴えない者には貸させることを命じたが、有司は貧民に貸せば恐らくは償えないだろうとしてただ戸籍のある者に貸すのみとした。上は長春宮に至ってこれを聞き更に人を遣わして実を閲し賑貸させ、監察御史の舒穆嚕元礼・鄭大卿が糾挙しなかったことに笞四十とし前に遣わした官はみな論罪した。甲子、太白が昼見した。乙丑、山後で官地十頃以上を冒占した者はみなこれを籍し官に入れて貧民に均給することを詔した。遼州の民の宋忠らが乱言し誅に伏した。上は宰臣に「近ごろ聞くに宗州節度使の阿索美は行事が多く不法である、通州刺史の完顔守能はすでに招討職事に与っているのになお廉逹の官を守らず、貴要は多く非理を行っているのに監察は未だ舉劾しない。阿都斉羣牧副使の布薩納延が部人から二毬を取ったのは至って細事であるがすぐに劾奏している、これを称職と言えるか、今、監察職事が修舉されている者には遷擢を与え、不称の者には大なら降罰、小なら決責を与え、なお去官を許さない」と言った。閏月己夘、恩州の民の鄒明らが乱言し誅に伏した。辛卯、漁陽令の瓜爾佳伊里哈・司候判官の劉居漸は賑貸を命じられながら富戸にのみ給したことに三官を削られた。通州刺史の郭邦傑はこの事を総べたことに俸を奪われた。三月乙未、上は宰臣に「朕が観るに古より人君は多く讒謟を進用し、その間の蒙蔽の害は細ではない。漢の明帝のような者でさえなおこの輩に惑わされた、朕は古の明君に及ばないといえど、近習の讒言はいまだ耳に入れたことはない、宰輔の臣に至ってもいまだ一人を偏用したり私議したことはない」と言った。癸夘、尚書左丞相の完顔守道を太尉尚書令とし、尚書左丞の富察通を平章政事とし、右丞の襄を左丞とし、参知政事の張汝弼を右丞とし、彰徳軍節度使の梁肅を参知政事とした。4月戊申、右丞相の図克坦克寧を左丞相とし、平章政事の唐古安礼を右丞相とし、泰州・臨潢府等路の辺堡屋宇を増築した。庚戌、昭祖以下三祖三宗の御容を衍慶宮に奉安し親祀の礼を行った。上は宰臣に「朕の言行はどうして過ちが無かろうか、常に人に直諫を欲するが肯って言う者はいない、その言が果たして善ければ朕は従ってこれを行う、何の難があろうか」と諭した。戊申、滕王府長史の巴達爾呼を横賜夏国使とした。壬申、寿安宮に幸した。5月戊子、西北路招討使の完顔守能は贓に坐して杖百とし除名した。7月丙戌、還都した。丁酉、樞密使の趙王永中が罷された。己亥、左丞相の図克坦克寧を樞密使とした。辛丑、太尉尚書令の完顔守道を復び左丞相とし太尉は故のごとくとした。8月乙丑、右副都点検の和索哩らを賀宋生日使、吏部即中の奚呼実罕を夏国生日使とした。

大定二十二年(1182年)

  • 3月辛未朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丁丑、尚書省に西北路招討司に明安穆昆官を勒め部人に武備を習わせるよう申勅することを命じた。甲申、戸部に今年の行幸山後の所需はすべて民間より取ってはならず、たとえ人夫を用いてもみな官銭で和雇し違う者は杖八十罷職とすることを諭した。癸巳、重修制条を頒つことを詔し吏部尚書の張汝霖を御史大夫とした。4月乙卯、監臨院務官の食直法を行い明肅の尊号を削ることを中外に詔した。皇太子の請いによるものである。甲子、上は金蓮川に行った。5月甲申、太白が昼見した。6月庚子朔、放良制の限を立て限内に良人を娶り生んだ男女はすぐ良とすることを制した。丁巳、致仕した右丞相石琚が薨じた。7月辛巳、宰臣が事を奏すると上はしきりに違豫であったため宰臣は退くことを請うたが、上は「どうして朕の微爽をもって和して臨朝の大政に倦むことがあろうか」と言い、その奏を終えさせた。甲午、秋猟した。8月戊辰、太白が経天した。9月戊寅、金蓮川より至った。左衛将軍の徹辰らを賀宋生日使、上輦局使の布薩哈斯罕を夏国生日使とした。尼丑、同知東京留守司事の裔が任に在って専恣で上下の分を失ったことに謫して復州刺史に降した。乙未、寿州刺史の額哩頁・同知扎拉軍事判官の孫紹先・榷塲副使の韓仲英らが商賂を受け禁物の出界を縦にしたことにみな処死とした。10月辛丑、河間宗室を平州に徙した。庚戌、太廟で祫享した。11月丙子、吏部尚書の富珠哩阿老罕らを賀宋正旦使とした。東京留守の図克坦貞が海陵の逆謀に与ったことに誅に伏し、妻の永平県主の子・愼思もまた死を賜った。甲申、宿直将軍の布薩忠佐を高麗生日使とした。玉田県令の伊喇査が贓に坐して誅に伏した。戊子、冬猟した。12月庚子、還都した。癸丑、近郊で猟をした。辛酉、強取諸部羊馬法を立てた。

大定二十三年(1183年)

  • 正月丁夘朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。庚午、有司に強盗はすでに迹状が明らかであれば直ちに賞を給い更に待たせないよう詔した。丁丑、参知政事の梁肅が致仕した。辛巳、広楽園の灯山が火事となった。壬午、春水に行き、夾道三十里内の被役の民には今年の租税を免じなお傭直を給うことを詔した。甲午、大邦基が誅に伏した。2月乙巳、還都した。戊申、尚書右丞の張汝弼に太尉を摂して至聖文宣王廟を致祭させた。庚戌、戸部尚書の張仲愈を参知政事とした。御史台が察した所の州県官の罪を進めると上はこれを覧て「卿らが廉する所はみな細碎の事だ、またその悪のみを録して善を挙げないのはこのようであれば官吏となる者はまた難しいだろう、みなその善悪を併せて察して聞かせよ」と言った。3月丙寅朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丙子、初めて宣命の宝を金玉各一つ製した。尚書右丞相の烏庫哩元忠が罷された。潞州渉県の人の陳圓が乱言し誅に伏した。乙酉、雨土があった。丙戌、中外の百官を戒諭した。辛丑、奉使三国人従差遣格を更定した。祁州刺史の大磐が無罪で染工を掠死したことに坐し、良人二十五口を妄に奴と認めたことに官四階を削られ罷された。癸丑、地に白毛が生じた。大理正の赫舎哩珠爾蘇を横賜高麗使とした。壬戌、寿安宮に幸した。有司に民のため雨を禱ることを勅すると、この夕に雨があった。5月庚午、県令の達春額哲ら十人が不任職により罷されて還り、六十以上の者は官二階を進め六十以下は官一階を進めそれぞれ半俸を給した。甲戌、部除官で嘗て罪により罷されて再び叙せられた者は使者を遣わしその治迹を按じ善状があれば方に県令を授け治状がない者は任数の多少によらず並びに授けないことを命じた。丁亥、雷雨雹があり地に白毛が生じた。6月壬子、有司が右司郎中の段珪が卒したと奏すると、上は「この人は甚だ明正で用いられるべき者であった。知登聞検院の巨構のように毎事にただ委順するばかりの者もいる。燕人は古より忠直な者は少なく、遼の兵が至れば遼に従い宋の兵が至れば宋に従い本朝が至れば本朝に従う、その俗の詭随はよるところがある、しばしば遷変を経てもかつて残破しなかったのはこれによる。南人は勁挺で敢言直諫が多い、以前一人が殺されると後に復び一人が諫めた、甚だ尚ぶべきである」と言い、また「昨夕は苦暑で朕は通宵眠れず、小民が屋を比べ卑隘であってどう安処しているか思っていた」と言った。7月乙酉、平章政事の伊喇道・参知政事の張仲愈がみな罷され、御史大夫の張汝霖が糾舉を失ったことに坐して棣州防禦使に降授された。8月乙未、東郊で稼を観て女直字孝経千部を点検司に付し護衛親軍に分賜した。癸卯、還都した。乙巳、大名府の明安人の馬和尚が謀叛し誅に伏した。明安穆昆の戸口・田土・牛具を括定し戸部尚書の程輝を参知政事とした。9月己巳、同僉大宗正事の方らを賀宋生日使、宿直将軍の完顔錫里庫を夏国生日使とした。訳経所は訳した所の易書・論語・孟子・老子・楊子・文中子・劉子及び新唐書を進め、上は宰臣に「朕が五経を訳させたのはまさに女直人に仁義道徳の所在を知らせようとしたのみだ」と言い頒行を命じた。辛未、秋猟した。10月癸巳、還都した。庚戌、東宮に幸し皇孫烏達布に洗兒礼を賜った。己未、慶雲が見えた。辛酉、太白が昼見した。11月壬戌朔、日食があった。丙寅、平章政事の富察通が罷された。丁夘、歳星が昼見した。壬申、樞密副使の崇尹を平章政事とした。閏月甲午、上は宰臣に「帝王の政はもとより寛慈をもって徳とするが、梁の武帝のように専ら寛慈を務めて綱紀を大いに壊すこともある、朕はかつてこれを思うに、賞罰が濫らでなければこれすなわち寛政である、それ以上何を為すべきか」と言い、尚書左丞の襄を平章政事とし、右丞の張汝弼を左丞とし、参知政事の鈕祜祿噶逹爾を右丞とし、礼部尚書の張汝霖を参知政事とし、西京留守の博勒和らを賀宋正旦使とし、外任官でかつて宰執であった者は凡そ吏牘の上省部については親王の例に依り書名を免じることを制した。戊午、歳星が昼見した。上は宰臣に「女直の進士は漢児進士に依って省令史に補すべきだ、それ儒者は操行が清潔で礼でなければ行わない、吏を出身とする者は幼くより吏となりその貪墨に習い官となるに至ってはその性を遷改できない、政道の興廃は実にこれによる」と言った。庚申、尚書省左司員外郎の徐偉が事を奏すると上は宰臣に「この人は純にして幹あり、右司郎中の郭邦傑は直だが頗る躁だ」と言った。12月癸酉、上は宰臣に「海陵は不道であることを自ら知り恐らくは上京宗室が起こってこれを図るだろうとしてこれを疎近によらずみなことごとく南に徙した、これは漢の光武・宋の康王のように疎庶が大統を継いだことによって心が生じたのではないか、過慮すればこのように誤ることがあろうとは」と言った。乙酉、高麗が母喪を来告した。丁亥、真定尹の烏庫哩元忠を復び尚書右丞相とした。

大定二十四年(1184年)

  • 正月辛卯朔、宋・夏が使者を遣わし賀した。徐州が芝草十八茎を進め真定が嘉禾二本六茎異畝同穎を進めた。戊戌、長春宮の春水に行った。2月壬申、還都した。癸酉、上は「朕はまさに上京に往こうと思う、本朝の風俗は端午節を重んじる、端午に及んで上京に到れば郷閭・宗室・父老を燕労しよう」と言った。甲戌、一品職事官の庶孽子で廕を承ける者は更に引見しないことを制した。丙戌、東上閤門使の完顔済勒らを高麗勅祭使、西上閤門使の大仲尹を慰問使、虞王府長史の永明を起復使とし、器物局使の稟を横賜夏国使とした。3月庚寅朔、万春節に宋・夏が使者を遣わし賀した。甲午、上が上京に往こうとするをもって尚書省が皇太子の守国の諸儀を奏定した。丙申、尚書省が皇太子守国の宝を進めると上は皇太子を召してこれを授け「上京は祖宗興王の地だ、諸王とともに一度往きたい、あるいは三二年留まり汝に守国させよう。これを農家の種田・商人の営財に例えれば、ただ父業を墜さなければ克家の子と言えよう、況んや社稷は任が重い、ことに畏慎すべきだ、常時汝を観るに甚だ謹み今日よく朕の憂いを紓せる、まさに心中の孝を見せることになる」と諭した。皇太子は再三辞退し政務に暗いことをもって扈従に備わることを乞うたが上は「政事にはさほど難しいことはない、ただ用心を公正にし讒邪を納れないことだ、久しくすれば自ら熟すだろう」と言うと皇太子は流涕し左右もみな感動した。皇太子はそこで宝を受けた。丁酉、山陵に行き己亥、還都した。壬寅、上京に行き皇太子の允恭が守国した。癸卯、宰執以下は通州で辞を奉じると上は宰執に「卿らはみな故老だ、皇太子が守国する間、心を尽くしてこれを輔けて朕の意に副われよ」と言い、また樞密使の図克坦克寧に「朕の巡省の後、事があれば卿は必ず親らこれに当たれ、細微を忽かせにするな、大難となれば図りにくい」と言った。また六部の官を顧みて「朕は聞くに省部の文字は多く小さな不合をもって駁されているという、苟しくも自便を求めて累歳にも結絶できないことになる、朕は甚だこれを悪む、今より行うべきは行い罷めるべきは罷め、下位で滞留の歎を持たせるな」と言い、この時、諸王はみな従い趙王永中は留まって太子を輔けた。4月己未朔、太白が昼見した。咸平尹の伊喇道が薨じた。庚申、広寧府に次った。丙寅、東京に次った。丁夘、孝寧宮に朝謁し東京百里内の夏秋税租を一年免じ在城随関の年七十の者は一官を補い、百里内の徒二年以下の罪を曲赦した。乙酉、混同江で魚を観た。5月己丑、上京に至り光興宮に居した。庚寅、慶元宮に朝謁した。戊戌、皇武殿で宴し、上は宗戚に「朕は故郷を思うこと積年、今すでにここに至った、大いに歓飲すべきだ、君臣これを同じくせよ」と言い、諸王・妃主・宰執・百官・命婦にそれぞれに差をつけて賜り、宗戚はみな沾醉して起舞して竟日ようやく罷んだ。6月辛酉、按春水・臨漪亭に幸した。壬戌、緑野淀で馬を閲した。7月己亥、上は宰臣に「天子が巡狩するにはまさに善を挙げ悪を罰すべきだ、士民の孝弟婣睦の者は挙げてこれを用い、その廉恥無行の人を顧みない者はこれを教戒し、悛らない者には懲罰を加えよ」と言った。丙午、巴延淀で猟をした。乙卯、上は宰臣に「今の人は罪があっても問わなければすぐ知らないと謂い、すでに過ぎた後に責めればすぐ毎事尋罪と謂う、風俗の薄いことこのようで、文徳をもって感じさせなければどうして古に復ることができようか、卿らは徳をもって輔佐しよろしく古風に還復させるべきだ」と言った。8月癸亥、太府監の張大節らを賀宋生日使、侍御史の約囉特默格を夏国生日使とした。乙亥、上京の今年の市税を免じた。9月甲辰、歳星が昼見した。10月丁夘、近郊で猟をした。11月辛卯、還宮した。甲午、上京の天寒地遠をもって宋の正旦・生日、高麗・夏国の生日はすべて使者を遣わす必要がなく有司に報諭させることを詔した。丙午、尚書省が率賓・呼爾哈三明安二十四穆昆を徙して上京を実らせることを奏した。12月丙辰、近郊で猟をし己夘、還宮した。

大定二十五年(1185年)

  • 正月乙酉朔、丁亥、妃嬪・親王・公主・文武従官を光徳殿で宴し、宗室宗婦及び五品以上の命婦で坐に与った者は千七百余人でそれぞれに賞賚があった。2月癸酉、東平尹の烏庫哩色埒が怨望のため殺された。丁丑、春水に行った。4月己未、春水より至った。癸亥、皇武殿に幸し撃毬をして士民に縦観を許した。甲子、率賓・呼爾哈両路明安の下から三十穆昆を選んで三明安とし刷逹巴罕の地に移置して上京を実らせることを詔した。壬申、会寧府を曲赦しなお今年の租税を放免し百姓で年七十以上の者は一官を補うことを詔した。甲戌、会寧府官一人を大宗正丞に兼ねさせ宗室の政を治めさせた。上は群臣に「上京の風物は朕自ら楽しんでいる、毎に還都を奏すたびに感愴を用いる、祖宗の旧邦を捨てるに忍びない、万歳の後には朕を太祖の側に置くべきだ、卿らは朕の言を忘れるな」と言った。丁丑、宗室宗婦を皇武殿で宴し、大功の親には官三階、小功には二階、緦麻には一階を賜り、年高で属の近い者には宣武将軍を加え宗女を封じ銀絹をそれぞれに賜り、「朕は尋常酒を飲まない、今日は甚だ沈酔したい、この楽しみもまた得難い」と言った。宗室の婦女及び群臣・故老が次いで起舞し酒を進めると、上は「吾がここに来て数月、いまだ一人も本曲を歌う者がない、吾は汝らのために歌おう」と言い宗室の子弟に殿下に叙坐する者はみな殿上に坐して聴かせた。上は自らその詞を歌い王業の艱難と継述の易くないことを道い祖宗を慨想するに至って宛然としてこれを目にするようで慷慨悲咽し声を成せなくなり歌い終えて泣いた。右丞相の元忠は群臣・宗戚を率いて觴を捧げ上寿し、みな万歳を称した。そこで諸夫人は更に本曲を歌い私家の会のようであった。醉うとまた続けて調べ一鼓に至ってようやく罷んだ。己夘、上京より発した。庚辰、宗室・戚属が辞を奉じると上は「朕は久しく故郷を思っており甚だ一二歳留まりたいと思う、京師は天下の根本でここに久しくいることはできない、太平の歳が久しく国に征徭がないので汝らはみな奢縦し往々にして貧乏になっている、朕は甚だこれを憐れむ、まさに儉約に務め祖先の艱難を忘れないようにせよ」と言い、そのため泣いて数行涙が下がると宗室・戚属もみな感泣して退いた。5月庚寅、平章政事の襄は御平山らが孕を懐いた兎を射たことに怒って平山を杖三十とし、襄を召して戒飭し詔して射兎を禁じた。壬寅、天平山・好水川に次った。癸夘、使者を遣わし臨潢・泰州で農を勧めさせた。丙午、尚書省の奏事の衣は窄紫とすることを命じた。6月甲寅、近山で猟をし田壠が治まっていないのを見て田を耕す者を笞するよう命じた。庚申、皇太子の允恭が薨じた。丙寅、尚書右丞相の烏庫哩元忠が罷された。庚午、左宣徽使の唐古鼎を京師に遣わし皇太子を致祭した。戊寅、皇太子妃及び諸皇孫に喪を執らせるにはすべて漢儀を用いることを命じた。7月戊申、好水川より発した。9月辛巳朔、実沙河に次り百歳の老嫗に帛を賜った。甲申、遼水に次り百二十歳の女直の老人で太祖開創の事を語れる者を召見し上は嘉歎して食を賜り併せて帛を賜った。己酉、上京より至った。この日、宣孝皇太子を熙春園で臨奠した。10月丙辰、尚書省が親軍の数が多いことをもってやや減損すべきと奏すると、額を三千と定めることを詔し、宰臣が退くと上は左右に「宰相は年老いて久しく立つのが難しい、廊下に小榻を置いて少し休息させよ」と言った。甲子、上京等路の大雪及び含胎の時の採捕を禁じた。上は宰臣に「護衛が年老いて出職して臨民の手字を授けてもなお書くことができない、どうして民を治められようか、その胸中の明暗は外より知ることができない、精神が昬耄していることはすでに外に見えている、これはその出来ないことを強いているのだ、天子は兆民をもって子とするが家家に撫することはできず用人によるのみだ、その不能を知りながら強いてこれに授ければ百姓は我をどう言うだろうか」と言った。丁丑、学士院・諫院・秘書監・司天台・著作局・閤門・通進・拱衛直・武器署等の官が宮中で直するのは午前で退くことを許すよう命じた。11月庚辰朔、詔して「豺がいまだ獣を祭らぬうちは採捕を許さず、冬月に雪が一尺以上あれば網及び蘇克蘇呼を用いてはならない、獣類を尽くすことを恐れるためだ」とした。歳星が昼見した。壬午、太白が昼見した。甲午、臨潢尹の布薩守中らを賀宋正旦使とした。丙申、夏国は使者を遣わし起居を問うた。戊戌、曹王永功を御史大夫とした。壬寅、礼部員外郎の伊喇履を高麗生日使とした。12月戊午、皇孫の金源郡王瑪達格に大興尹を判じさせ原王に進封した。甲子、太白が経天した。丙寅、左丞相完顔守道・左丞張汝弼・右丞鈕祜祿噶達爾・参知政事張汝霖が擅に東宮諸皇孫の食料を増したことに坐しそれぞれ一階を削られた。甲戌、留守・統軍・総管・招討・都転運府尹・転運節度使の月俸を増すことを制した。上は宰臣に「太尉守道は事を論じるのにひたすら寛に従うことを務め、罷職された者を復用したがっているようだ、もしその首悪を懲らしめなければ後に来る者は畏罪を知って復用されようか、これで戒を示すことになろうか」と言った。この日、銅を範して禮信之寳を鋳造することを命じ凡そ外方に礼物を賜り信袋を給うときこれを用いた。丙子、上は宰臣に「原王大興の行事はどうか」と問うと右丞噶達爾は「都人はみな彼を称すると聞いています」と答えた。上は「朕は民間に察させたが、みな『事を見ることが甚だ明らかで予奪はみな失当がない』と言っている、曹・豳の二王も及ばない」と言い、また女直人が事を訴えるのに女直語で問うことがあると聞いてこれを問い、漢人が事を訴えるには漢語で問うのだと知ると、汝弼は「本朝の語に習うのは善いことです、習わなければ淳風が棄てられます」と答え、噶達爾は「西夏の小邦でさえ旧俗を崇尚してなお国を数百年保っています」と言った。上は「事はまさに実に任すべきで一事に偽があれば百の真を喪う、故に凡そ事は真実に如くものはない」と言った。

大定二十六年(1186年)

  • 正月庚辰朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。甲辰、長春宮の春水に行った。2月癸酉、還都した。乙亥、詔して「毎季、仕を求める人に疑難を問い剖決させよ、その才識に取るべきものがあれば政迹を訪察し、もし言行が相い副わば陞用を加えよ」とした。3月己夘朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丁亥、大理卿が闕けているので上が誰が良いかと問うと右丞鈕祜祿噶達爾は前吏部尚書の唐古貢が良いと言い、そこでこの職を授けた。己丑、尚書省が擬奏の除授を奏すると上は「卿らは省にいてかつて士を薦めたことがない、ただ資級を限るだけでどうして人を得られようか、古には布衣より入相する者もあった、聞くに宋もまた多く山東河南の流寓・疎遠の人を用い、みな貴近によらないという。本朝の境土の大きさをもってどうして人がいないことがあろうか、朕は徧く知り得ないが卿らもまた挙げない、古より終身宰相であった者などいようか、外官三品以上には必ず用いるべき人がいるはずだ、ただ故無くして進む者がいないだけだ」と言った。左丞張汝弼は「下位に才能があっても必ずこれを試してこそ見えるものです」と言い、参政程輝は「外官はたとえ声があっても一旦入朝すれば任に称わないことがあります、これもまた淘汰次第です」と言った。癸巳、香山寺が成り幸してその寺に大永安の名を賜り田二千畝・栗七千株・銭二万貫を給した。丁酉、親軍の完顔斉諾が明安穆昆はみなまず女直字の経史を読んでから襲承すべきだと言い、上は「ただ稍く古今に通じさせればあえて非をなさないはずだ、一親軍の粗人ですらこれを言える、その益あるを審らかにするなら何を憚って従わないことがあろうか」と言った。4月壬子、尚書省が院務監官の虧兌陪納法及び横班格を奏定すると、そのため「朕は常日の御膳もまた減省に従っている、かつて公主が至った際、竟に余膳が無く当直官はみな目睹したことがある、もし豊腆を欲するなら日に五十羊を用いても難しくないが、これはみな民の脂膏で忍びない。監臨官はただ利己を知ってその利がどこから来るか知らない、朕はかつて外任を歴たので民間の事をよく知っている、前代の君は富貴を享受しても稼穡の艱難を知らない者が甚だ多く、その天下を失うのはみなこれによる。遼主は民間が食に乏しいと聞き『なぜ乾腊を食べないのか』と言ったというが、これは幼くして師保の訓を失いその即位に及んでも民間の疾苦を知らなかったためだ。隋の煬帝の時、楊素が専権をなしたのは委任の過ちである。正人と同処すれば知る所は必ず正道、聞く所は必ず正言となる、慎まざるべからず。今、原王府の官属は当に純謹秉性正直の者を選んで充てよ、権術のある人を用いるな」と言った。戊午、尚書左丞の張汝弼が罷された。己未、永安宮に幸した。壬戌、太尉左丞相の完顔守道が致仕した。客省使の李磐を横賜高麗使とした。尚書省が北京転運使が贓により除名されたと奏すると、尚書省が事を奏すにあたり上は「近ごろ上書して職官が除名を犯せば復用できないと言う者があった、朕はこの言は極めて当を得たと思う、たとえば軍期が急速であれば権りにこの輩を使うことがあってもよいが、今、天下は無事だ、復びこの輩を用いてどうして将来を戒められよう」と言い、また「年前、諸路の水旱をもって軍民の地土二十一万余頃の内で免税を擬したのは四十九万余石です」と奏するとこれに従った。詔して「今の税考は古を行っているだけだが、災傷に遇えばいつも蠲免している」とした。5月甲申、司徒樞密使の図克坦克寧を太尉尚書左丞相判大宗正事とし、趙王永中を復び樞密使とし、大興尹の原王瑪達格を尚書右丞相とし璟の名を賜り、参知政事の程輝が致仕した。戊子、盧溝は上陽村で決し湍流が河をなしたためこれによった。庚寅、御史大夫の曹王永功が罷され豳王永成を御史大夫とした。戊戌、尚書右丞の鈕祜祿噶達爾を左丞とし、参知政事の張汝霖を右丞とした。6月癸亥、尚書省が率賓・呼爾哈の世襲穆昆の事を奏すると上は「その人はみな勇悍だ、昔、世祖はこれと隣し苦戦すること累年、ようやく克復できたが、その後は乍ち服し乍ち叛いた、穆康の時ようやく声教に服したが近世もかつて分徙されている、朕はやや民を上京に遷し国家長久の計としたい」と言った。己巳、上は宰執に「斉桓は中庸の主だが管仲を一人得て遂に覇業を成した、朕は早夜これを思い惟だ人を失うことを恐れる、朕はすでに知らず卿らもまた薦めない、必ず全才を俟ってから挙げようとするのはまた難しかろう、もし誰某が某事に長じていると挙げれば朕もまた材を量って用いよう、朕は卿らと共に老いた、天下はこれほど広いのにどうして人がいないことがあろうか、薦挙人材は当今の急務だ」と言い、また「人の幹能あるものは固より得難いが、徳行の士に及ばないもの、これが最も優れている」と言った。上は右丞相原王に「爾はかつて太祖実録を読んだか、太祖が瑪察を征しこれを襲ったとき泥淖に至り馬が進めなくなると太祖は馬を捨てて歩き、罕都が瑪察を射てついにこれを擒えた。創業の難はこのようであった、思わずにいられようか」と言った。甲戌、詔して「凡そ陳言の文字は登聞検院に詣で学士院に送って聞奏せよ、省廷を経る必要はない」とした。7月壬午、内外職事官の兼職俸銭を給うことを詔した。丙申、御史中丞の馬恵迪を参知政事とした。庚子、上は同知中都路都転運使事の趙曦瑞がその職にあって銭穀利害の文字を多く題署しないでただ身の安を思っていると聞き積石州刺史に降授した。閏月己未、還都した。8月丁丑、上は宰臣に「親軍は字を識らずといえど例に依って出職させれば、もし贓賄に涉れば必ずこれを痛繩せよ」と言うと、太尉左丞相の克寧は「法に依るのが可です」と言い、上は「朕は女直人に優恤しなかったことはない、しかし贓罪に涉れば朕の子弟であっても恕せない、太尉の意は女直人を姑息しようとしているだけだ」と言った。戊寅、尚書省が河が衛州で決し壊れたと奏すると戸部侍郎の王寂・都水少監の王汝嘉に衛州胙城県に徙らせることを命じた。丁亥、尚書省が吏部侍郎の李晏ら二十六人を路を分けて遣わし諸路の物力を推排させることを奏したがこれに従った。己丑、宿直将軍の李達可を夏国生日使、辛卯、益都尹の崇浩らを賀宋生日使とした。甲午、秋猟した。庚子、薊州に次った。辛丑、仙洞寺に幸した。壬寅、香林・浄名の二寺に幸した。9月甲辰朔、盤山上方寺に幸しあまねく中盤・天香・感化の諸寺を歴した。庚申、還都した。丙寅、上は宰臣に「烏達噶が叛亡してすでに人を遣わし討たせている、甲士を益しその船栰を毀すべきだ」と言うと、参知政事の馬恵迪は「その人を得ても用いられず、その地を得ても居られません、聖慮を労するに足りないかと思います」と言い、上は「朕もこの類が無用であることを知っている、故にその船栰を毀すのだ、復び辺境を窺わせないためだ」と言った。10月戊寅、職官の贓を犯した場合の同職相糾察法を定めた。庚寅、上は宰臣に「西南西北両路招討司の地は狭く明安の人戸には囲猟する場所が無く騎射に嫻習できない、各明安穆昆官に時をもって教練させこれを委ね、その惰慢で過期し親監しない者は並びに決罰させよ」と言った。甲午、河防軍の数を増すことを詔した。戊戌、寧昌軍節度使の崇肅・行軍都統の忠道は烏逹噶を討伐して敵に克たずに還ったことに、崇肅は杖七十官一階を削られ、忠道は杖八十官三階を削られた。11月甲辰朔、閔宗の陵廟の薦享礼を定めた。上は宰臣に「女直人の中で才傑の士を朕は少なくしか識らない、蓋しこれもまた得難いのだ、新進士の図克坦鎰・瓜爾佳阿里布・尼瑪哈鑑らの輩はみな用いるべき材だ、刀筆から起身する者は力は用いられるといえどその廉介の節は結局進士に及ばない。今五品以上の闕員は甚だ多いが必ず資級が相当してから至って老いても得られない者もいるのに、いわんや卿相に至ろうとすることをや。古来宰相は率ね三五年で退くだけで三二十年に及ぶことは稀だ、卿らはただ人を挙げない、はなはだ朕の意でない」と言い、修起居注の崇璧を顧みて「この人は孱弱で事を付しても未だ成し遂げられないだろうが、その謹厚長者であることをもって左右に置き、諸官にその人となりに効わせようとしているのだ」と言った。辛亥、刑部尚書の伊喇子元らを賀宋正旦使とした。戊午、左警巡副使の和碩通敏が善断であることをもって殿中侍御史兼右三部司正に擢した。庚申、右丞相原王璟を皇太孫に立てた。甲子、上は宰臣に「朕は聞くに宋軍は自来教習を輟めていないという、今わが軍は専ら遊惰を務めている、卿らは天下がすでに安んじたとして予防の心を無くすな、一旦警あれば軍が用いられなければどうして事を敗らないと言えよう、時をもって訓練させよ」と言った。丙寅、上は侍臣に「唐の太子承乾の行いは多く度でなかったが太宗が縦して検しなかったためついに廃に至った、もし早くこれを禁止していたらこのようにはならなかっただろう、朕は聖経を深解できないが史伝に至っては巻を開けば益するところがあり、毎に善人を見て忠孝を忘れず身を検して廉潔なのはみな天性より出ている、常人に至っては多く非をなすことを喜ぶが、天下を有する者がもしこれを懲らさなければどうして治を致すことができようか、孔子は政をなして七日で少正卯を誅した、聖人でさえこのようであるのに他の人はいうまでもない」と言った。戊辰、上は宰臣に「朕は年老いても善を聞いて厭わない、孔子は『善を見れば及ばぬかのようにし、不善を見れば湯を探るがようにせよ』と言った、大いなる哉この言葉」と言うと右丞張汝弼は「これを知るのは難しくないが、これを行うことこそ難しいものです」と答えた。拱衛直副都指揮使の韓景懋を高麗生日使とし、近侍局直長の尼瑪哈鑑が純直通敏をもって皇太孫侍丞に擢された。己巳、近郊で猟をした。庚午、上は宰臣に「朕はまさに古の明君に及ばぬまでも、近臣の讒言を納れず戚里の私謁を受けないことにおいては愧じることがない。朕はかつて自ら思うにどうして過ちが無かろうか、患いは過ちがあっても改めないことだ、過ちがあっても改められればほとんど咎はない、朕の過ちを省みてはなはだ土木の工を興すことを喜んだ、今より復び作らない」と言った。12月甲申、上は退朝して香閤に御し、左諫議大夫の黄久約は荔支を遞送するのは便でないと言うと上は「朕はこれを知らなかった、今罷めさせよう」と諭した。丙戌、上は宰臣に「有司が上に奉ずるのはただ事を辦じる名を沽うためであり利害がどうかを問わない、朕はかつて新荔支を得たいと思ったが兵部はすぐに道路に特に舖遞を設けた、近ごろ諫官の黄久約の言によって朕は初めてこれを知った、それ人が無識では一旦事に臨めばすぐ顛沛に至る、宮中の事は大小によらず朕がかつて親覧するのは人を得ないためだ、もし人を得ればさらに他の憂いがあろうか」と言った。丁亥、上は宰臣に「朕は年来ただ省約を務めとし常膳はただ四五味だけでもすでに厭飫している、初め即位した頃に比べれば十のうち七八を減じている」と言うと、宰臣は「天子には自ら制がありますが余人とは異なります」と言い、上は「天子もまた人だ、枉費して何を用いよう」と言った。丙申、上は宰臣に「近ごろ河水が泛溢して民がその害に罹り貲産がみな空になったと聞くが、今復び官を彼に遣わして推排するのはなぜか」と言うと右丞張汝霖は「今の推排はみな被災の処ではありません」と答え、上は「必ず隣道であろう、すでに水に隣んで居しているならどうして驚擾遷避することがなかろうか、その貲産を計ればどうして余りがあろうか、それをどうして推排するのか」と言い、また「平時、人を用いるにはよろしく平直を尚ぶべきだが、軍職に当たっては権謀を用いて人に測られにくくさせ事を集めやすくすべきだ、唐の太宗は若い頃より用兵に長け、その後帝位に居ってもなお改められなかった、瘡を吮い鬚を剪るのもみな権謀である」と言った。

大定二十七年(1187年)

  • 正月癸卯朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。己酉、襄城令の趙渢を応奉翰林文字とし、渢が入って謝すと上は宰臣に「これは党懐英が薦めた者か」と問うと「諫議の黄久約もかつてこれを薦めています」と答え、上は「学士院は旧に比べこと殊に人材が無い、なぜか」と言うと右丞張汝霖は「人材は作養によります、もし久任させて練習させれば自ずと人を得られます」と言った。庚戌、長春宮の春水に行った。2月乙亥、還都した。己夘、閔宗の廟号を熙宗と改めた。癸未、曲陽県に銭監を置くことを命じ利通と名づけた。乙酉、上は宰執に「朕は即位以来、事を言う者はたとえ狂妄であってもいまだかつて罪したことはない、卿らはいまだかつて肯って言を尽くしたことがない、なぜか。当に言うべきなのに言わないのはこれ相い疑っているのだ、君臣に疑いが無いことをこれ嘉会と言う、事に利害があればこれを竭誠して言うがよい、朕は緘黙して言わない人を見たくない」と言った。丁亥、沿河の京府州県の長貳官に並びに管勾河防事を帯びさせることを命じた。己丑、宰執に「近侍局の官は忠直練逹の人を選んで用いるべきだ、朕は讒言を聴かないといえど、もし佞人が側にあれば恐らくは漸漬してこれに従うことになる」と諭した。上は宰執に「朕は聞くに寶坻尉の蒙古特黙は清廉だという、その為政ぶりはどうか」と言うと左丞噶達爾は「その部民もまたこれを称誉していますが、何をもって称すのか分かりません」と答え、上は「凡そ官となる者はただ清廉であればよいのだ、どうして全才を得ないことがあろうか、進官一階を永く令とせよ」と言い、また「朕は時に体中がすぐれなくてもいまだ視朝を輟めたことがない、諸王百官はただ微疾があればすぐに事を治めない、今よりよろしくこれを戒めよ」と言った。丙申、罪人が禁にあり疾がある場合は親属の入視を聴すことを命じた。3月癸卯朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。辛亥、皇太孫が冊を受け大赦した。乙夘、尚書省が孟家山の金口閘が都城を百四十余尺見下ろしていて暴水の害を恐れると言うとこれを閉じることに従った。上は大臣に「十室の邑に必ず忠信がいる、今、天下の広さ人民の衆さでどうして人がいないことがあろうか、唐の顔真卿・段秀実はみな節義の臣であったのに終には升用されなかった、これもまた当時の大臣が固蔽して挙げなかったからだ、卿らは私親故に狥わず特に忠正の人を挙げよ、朕はまさにこれを用いよう」と言い、また「国初の風俗は淳倹で家居はただ布衣、大会賓客でなければかつて輒く羊豕を烹ることはなかった、朕はかつて当時の節倹の風を念い妄費を欲しない、凡そ宮中の官及び賜う食にはみな常数がある」と言った。4月丙戌、刑部尚書の崇浩を参知政事とした。丙申、上は金蓮川に行った。辛丑、京師で地震があった。5月壬子、詔して海蘭路が進めた海葱及び太府監が日進する時果を罷め「葱・果を用いれば幾ばくもないのにただ人を労するだけだ、ただ上林の諸果を三日に一度進めよ」と言った。庚午、進める御膳の味が調わないことに旨があって問うと、尚食局直長は「臣は聞くに老母が病劇でその心が乱れこれによって嘗視の失があったのです、臣の罪は万死です」と言い、上はその孝を嘉して家に帰り疾を侍らせ癒えてから来させた。6月戊寅、中都・河北等路のかつて河決で水害を被った軍民の租税を免じた。庚辰、太白が昼見した。7月丙午、太白が昼見・経天した。壬子、秋猟した。8月丙戌、雙山子に次った。9月己亥朔、還都した。己酉、上は宰臣に「朕は今年の春水で経る所の州県で小官の多くが幹事だと感じた、蓋し朕が前に嘗賞擢用を行ったので皆勉力したためだ、これで専任・責罰は用賞の激勧に如かないと分かる」と言い、河中尹の田彦臯らを賀宋生日使、武器署令の錫黙安図を夏国生日使とした。10月乙亥、宋の前主・構が殂した。庚辰、太廟で祫享した。庚寅、上は宰臣に「朕は唐史を観るにただ魏徴だけがよく諫め言う所はみな国家の大事であり甚だ諫臣の体を得ていた、近時の台諫はただ一二の細碎な事だけを指摘しばらく塞責するばかりで未だ国家の大利害に及ぶことはない、どうして知って言わないのか、あるいは知らないのだろう」と言い、宰臣は答える所がなかった。11月庚戌、左副都点検の崇安を賀宋正旦使とした。甲寅、河水泛溢で農夫が被災した者は差税を一年免じることを詔した。衛・懐・孟・鄭四州が塞河の労役をもって並びに今年の差税を免じた。庚甲、平章政事の崇尹が致仕した。甲子、上は宰臣に「卿らは老いた、殊に自代する者がいないのか、必ず朕が知るのを待ってから進めるのか」と言い、右丞張汝霖を顧みて「右丞のような者もまた右丞相の言うところだ」と言うと、平章政事の襄及び汝霖は「臣らはもし知る所があればどうして敢えて言わないでしょうか、ただ人がいないだけです」と言い、上は「春秋の諸国は分裂して土地は褊小だったが皆賢がいたと称された、卿らが挙げないだけであろう、今朕は自ら勉め治を致すことを庶幾する、他日子孫は誰と共に治めるのか」と言うと宰臣はみな慚色を持った。12月庚午、翰林待制の趙可を高麗生日使とし丁丑、近郊で猟をし壬午、宋は使者を遣わし告哀した。甲申、上は宰臣に「人はみな道を奉じ仏を崇めて斎を設け経を読むことで福とするが、朕は百姓に冤なく天下を安楽にすることの方が彼に勝るのではないかと思う、爾らは輔相の任にあり、もし誠に国家を匡益し百姓に利を蒙らせられれば身がその報いを享くるのみならず子孫にも及ぼされよう」と言うと左丞噶達爾は「臣らは敢えて心を尽くさずにいられましょうか、ただ才が及ばず職に称いません」と言い、上は「人はどうして毎事尽善であろうか、ただ勉励を加えればよい」と言った。戊子、女直人が漢姓に改称し南人の衣装を学ぶことを禁じ犯す者は罪に抵した。

大定二十八年(1188年)

  • 正月丁酉朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。癸卯、宣徽使の富察克忠を宋弔祭使に遣わした。甲辰、春水に行った。2月乙亥、還都した。己丑、宋は使者を遣わし先帝の遺留物を献じた。癸巳、宋の使者は朝辞に献じた物の中の玉器五・玻璃器二十及び弓劒の類をもって使者に還してこれを宋に遺わし「これらはみな爾の国の前主の珍玩の物であり大切に藏すべきだが忘れがたく追慕するのでこれを受けることは義において忍びない、爾の主に告げ朕の意を知らせよ」と言った。3月丁酉朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。慶和殿に御し群臣の朝を受け復び神龍殿で宴した。諸王・公主が次いで觴を捧げて寿とすると上は歓ぶこと甚だしく本国の音をもって曲を自度し臨御が久しく春秋が高くなり国家基緒の重さと万世無窮の託を渺然と思うことを言い、これをもって皇太孫を戒め身を修め徳を養い善く持守すべきことを、及び太尉左丞相の克寧に忠を尽くしてこれを輔導する意を命じ、そこで上が自らこれを歌い皇太孫及び克寧がこれに和し極めて歓んで罷んだ。戊申、隨朝六品・外路五品で職事官の挙で進士がすでに仕にあって翰苑に居るべき才がある者に制詔等の文字三道を試させ文理優贍な者を学士院の職任に補充させることを命じ、赴部求仕の人で老病昬昧の者は致仕を強い半俸のみを給い更に遷官させないこととした。甲寅、寿安宮に幸した。4月癸酉、外任小官及び繁難局分の承応人の俸を増すことを命じた。丁丑、陝西路統軍使の富珠哩阿老罕を参知政事とした。癸未、女直大学を建てることを命じた。5月丙午、諸教授は必ず宿儒高才の者を充て俸は丞簿と同等とすることを制した。戊申、宋の使者は弔祭を謝しに来た。7月辛亥、尚書左丞の鈕祜祿噶達爾が罷された。8月甲子朔、日食があった。辛未、還都した。庚辰、上は宰臣に「近ごろ聞くに烏達噶は不順服の意があるという、もし使者を遣わして責問すれば彼はあるいは抵捍不遜になり辺境に事を生じかねない、朕はかつてこれを思うに遠人を招徠することは国家に殊に益するところがない、彼が来ればこれを聴すが来なくても強いない、これが前世の羈縻の長策である」と言った。参知政事の富珠哩阿老罕が罷された。壬午、山東路統使の完顔博勒和を参知政事とした。甲申、上は宰臣に「人を用いる道は当にその壮年で心力が精強な時に用いるべきだ、もし資格をもって拘われば往々にして耄老に至ってしまう、これは思わなさすぎるものだ、阿老罕はもし早く用いていたら朝廷は必ずその補助の力を得られたであろう、すでに衰老したことを惜しむ、凡そ用いるべき材があれば汝らはよろしく早くこれを思うべきだ」と言った。9月甲午朔、鷹房使の崇夔を夏国生日使、安武軍節度使の王克温らを賀宋生日使とした。己亥、秋猟し乙卯、還都した。10月乙丑、京府及び節度州に流泉務を二十八所増置し糠禅・瓢禅を禁じ停止する家は罪に抵した。乙酉、尚書省が擬した除授が資格に拘われるのを見て上は「日月資考は庸常な人を待つためのものだ、もし才行が人に過ぎればどうして常例に拘われようか、国家の事務はみな人を得ることが必要だ、汝らが随才委使できないのはこれ事の多くが治まらぬ理由だ、朕はもとより用人の術を知らないが、汝らはただ資を循り格を守ることばかりに務め才能を進めて用いることを思わない、才能をもって用いられれば己の禄位を奪われると思うのか、そうでなければこれ知人の明が無いのだ」と言うと群臣はみな「臣らはどうして敢えて賢を蔽いましょうか、才識が及ばないだけです」と言い、上は右丞張汝霖を顧みて「前世の忠言の臣がなぜあれほど多かったのに今日はなぜこれほど少ないのか」と言うと汝霖は「世が乱れれば忠言は進み、承平であれば忠言は施す所がありません」と答え、上は「いつの代にも言うべき事はないことがあろうか、ただ古人は知って言わないことがなかったが今人は肯って言わないだけだ」と言うと汝霖は答えられなかった。11月戊戌、熙陵の改葬をもって中外に詔した。上は侍臣に「凡そ身を修める者は喜怒を極めてはならない、怒りが極まれば心が労し喜びが極まれば気が散る、中を得るのは甚だ難しい、故に喜怒を節して身を安んじることを思うべきだ、今、宮中は一歳もかつて人を責罰したことがない」と言った。庚子、太白が昼見した。南京・大名府等処で水を避けて逃移し復業できない者は官が津済の銭を与えなお地の頃畝を量って耕牛を給うことを詔した。甲辰、河中尹の田彦臯らを賀宋正旦使とした。戊申、上は宰臣に「制条は旧律に拘われるため難解の辞がある、それ法律は歴代損益してこれをなす、彼が智慮及ばず本意に乖くことがあれば刪正を行い衆が易く暁れるようにしてどうしていけないだろうか、よろしくこれを修め明白ならしめよ」と言った。有司が上京の御容殿の重修を奏すると、上は宰臣に「宮殿の制度が苟しくも華飾を務めれば必ず堅固でなくなる、今の仁政殿は遼の時建てたもので全く華飾は無いが他処が歳々修完しているのを見るとこの殿だけは旧のごとくである、これで虚華で実の無いものは久しく経れないと分かる、今の土木の工は滅裂がことに甚だしく、下は吏と工匠が結んで姦をなし工物を侵尅し、上は戸工両部の官が銭を支し材を度るのにただ苟しくも事を弁じることのみを務め、工役がわずかに畢わるとすぐ欹漏する有り様だ、姦弊苟且で民を労し財を費すことはこれより甚だしいものはない、今より体究し重罪に抵せしめよ」と言った。庚戌、上は宰臣に「朕は近ごろ漢書を読むに光武の為すところに人が難能とする所があるのを見た、更始がすでにその兄・伯升を害したのに乱離の際に報怨を思わず更始に事えること平日のごとくで人はその戚容を見なかった、これは人の難能とする所ではないか、これはその度量が将に大いに為すところがあるためであろう、他の庸主はどうして及ぼうか」と言うと右丞張汝霖は「湖陽公主の奴が人を殺してその主の車中に匿れると、洛陽令の董宣は車中よりその奴を曵き下し殺した。主は入って奏すると光武は宣を殺そうとしたが宣の言を聞くとその意はやがて解けて宣に主に謝させたが、宣はこれを奉じず主が言をもって光武を激怒させたが、光武はただ笑うのみであった、更に宣に銭三十万を賜った。上は『光武は直言を聞いて怒りが解けたのは賢主と言えよう、しかし宣に主に謝させたのは非である。高祖は英雄大度で豪傑を駕馭し布衣より起こって数年で帝業を成した、光武の及ぶ所ではない、しかし帝位に即くに及んでなお布衣麁豪の気があり、光武がなさなかったものだ』」と言った。癸丑、太尉克寧の第に幸した。12月丙寅、大理正の伊喇彦拱を高麗生日使とした。乙亥、上は不予となった。庚辰、天下を赦した。乙酉、皇太孫の璟に慶和殿東廡で摂政させることを詔した。丙戌、太尉左丞相の図克坦克寧を太尉兼尚書令とし、平章政事の襄を尚書右丞相とし、右丞の張汝霖を平章政事とし、参知政事の完顔博勒和が罷され戸部尚書の劉暐を参知政事とした。戊子、尚書令の図克坦克寧・左丞相の襄・平章政事の張汝霖に内殿に宿することを詔した。

大定二十九年(1189年)

  • 正月壬辰朔、上は大漸で視朝できず、宋・高麗・夏の賀正旦使を還らせるよう詔した。上は福安殿で崩じた。寿六十七。癸巳、皇太孫が皇帝位に即いた。己亥、太安殿に殯した。3月辛卯朔、尊諡を光天興運文徳武功聖明仁孝皇帝と上げ廟号を世宗とした。4月乙酉、興陵に葬った。

史論

  • 賛にいう。世宗の立つ所以は勧進によるといえど、天命人心の帰する所は古の聖賢の君であってもまた辞することはできなかっただろう。太祖以来、海内は用兵し寧歳はほとんど無く、重ねて海陵の無道の賦役繁興・盗賊満野・兵甲並起により万姓は盻盻とし国内は騒然として、老には留養の丁が無く幼には顧復の愛が無く、顛危愁困して尽きるのを待つばかりであった。世宗は久しく外郡を典り禍乱の故を明らかにし吏治の得失を知り、即位五年で南北は好を講じて民と休息した。そこで躬ら節倹を行い孝弟を崇め賞罰を信じ農桑を重んじ守令の選を慎み廉察の責を厳にし、任得敬の分国の請を却け趙位寵の郡県の献を拒み、孳孳として治をなし夜以て日に継いだのは、君たるの道を得たと言えよう。この時、群臣は職を守り上下相い安んじ家給人足で倉廩に余りがあり、刑部が歳ごとに断ずる死罪はあるいは十七人あるいは二十人と称され小堯舜と号された、これはその効験である。しかし賢を挙げ言を求める急は訓辞に絶えなかったのに群臣が偸安苟禄してその美を将順し大順を底すことができなかったのは、惜しいことである。