金史卷七 本紀第七 世宗中
世宗の治世中期(大定12年〜20年、1172–1180年)を収める。倹約・農桑奨励・女直の旧俗保持を重んじる姿勢を続け、宗室の粛正や辺境統治、人材登用にも意を用いた。
年表(6件)
- 大定十二年10月1172年謀反の疑いをかけられた鎬王永中を赦す
- 大定十三年3月1173年会寧を上京に戻し女直の旧俗を子孫に伝えることを命じる
- 大定十四年3月甲辰1174年名を雍と改める
- 大定十七年1177年衍慶宮聖武殿の脇に世祖・太宗・睿宗の神御殿を建てることを詔す
- 大定十九年8月1179年皇子が生まれる
- 大定二十年3月1180年図克坦克寧を尚書右丞相とする
大定十二年(1172年)
- 正月庚午朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。戊午、有司に「凡そ陳言文字はみな国政の利害である、今より言が可行のものはその本封を秘書監に送り、当行のものは録副して所司に付せ」と詔した。丙申、水旱をもって中都・西京・南京・河北・河東・山西・陝西の去年の租税を免じた。2月壬寅、上は諸王府長史を召し「朕が汝らを選んだのは正に諸王を導いて善をなさしめるためだ、もし諸王の所為に未善があればこれを力陳し、なお従わなければ某日某事を行ったと具えて奏せよ、もし阿意して言わなければ朕は汝の罪を責める」と諭した。丙午、尚書省は廉察で得た同知城陽軍事の山和尚らの清強官を奏すると、上は「この輩は暗察明訪みな政声を著している、その政績を第して官を進め賞を旌するよう速やかに議せよ」と言った。庚午、上は順州の春水に行き癸丑、還都した。丙辰、詔して今より官長が不法をなしその僚佐が糾正できず且つ上に言わない者は並びにこれを坐せしめた。戸部尚書の高徳基は朝官の俸銭四十万貫を濫支したことに杖八十とした。3月己巳朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。乙亥、尚書省に「贓汚の官はすでに廉問されたのになお旧職にあれば必ず民に害を復すだろう、使者を諸道に遣わし即日これを罷めよ」と詔した。丁丑、宿直将軍の烏庫哩色埒を遣わし王晧を高麗国王に冊封した。庚寅、雨土があった。癸巳、前西北路詔来討使の伊喇道を参知政事とした。回紇が使者を遣わし来貢した。丁酉、北京の曹貴らが謀反し誅に伏した。4月旱があった。癸夘、尚書右丞の孟浩が罷された。丁巳、西北路の納哈塔齊勤らが謀反し誅に伏した。癸亥、久旱をもって山川に禱祠し、上は宰臣に「諸府の少尹は多く闕員だ、まさに進士で資叙は未だ至らずとも政声のある者を選び擢用すべきだ」と詔した。宿直将軍の唐古阿古爾を横賜夏国使とした。乙丑、大名尹の荊王文が贓罪をもって王爵を奪われ徳州防禦使に降授された。回紇の使者が来貢した。丙寅、尚書右丞相の赫舎哩志寧が薨じた。丁夘、宋・高麗が使者を遣わし尊号を賀し、準布が来貢した。5月癸酉、上は百花川に行った。甲戌、山東東路・和倫明安の飢民を賑すことを命じた。丁丑、珠卜竒に次り久旱で雨があった。戌寅、稼を観て扈従が民田を蹂躙することを禁じた。百官及び承応人が純黄の油衣を服することを禁じた。癸未、宰臣に「朕は毎に舎に次るごとに秣馬の具をみな民間に仮り多くが亡失してその主に還さない、これは弾圧官の不職だ、人を択んでこれに代えよ、過ぎる所ではすぐ民間物の亡失を詢問し並びにその値を償え」と諭した。乙酉、西北路の人戸に牛を給うことを詔した。6月甲寅、金蓮川に行った。9月丙子、金蓮川より至った。辛巳、右副都点検の瓜爾佳清臣らを賀宋生日使、右衛将軍の鈕祐禄噶達爾を夏国生日使とした。丁亥、太白が昼見した。この日の前、鄜州の李方らが謀反し誅に伏した。10月、高麗国王・王晧が使者を遣わし封冊を謝した。乙未、故右丞相赫舎哩志寧の喪を臨奠し、志寧の妻の永安県主が鎧甲・弓矢・鷹鶻・重綵を進めた。壬子、皇太子及び趙王永中に上殿することを詔した。上は宰臣を顧みて「京はかつて逆を図ったので今除かなければ後患となる恐れがある」と言い、また「天下の大器は徳ある者に帰す。海陵は道を失ったので朕がついにこれを得た、ただ徳を修めることに務めるべきで余は何の慮ることがあろうか」と言うと、皇太子及び永中はみな「誠に聖訓の通りです」と言い、遂にこれを釈した。丙辰、徳州防禦使の文の貲産をその兄の子の耀珠に賜り且つその母に文の罪を諭して「汝らはみな連座すべきだが、宋王が国に大功があることを念い置いて問わない、なおその家産を汝の子に賜う」と言った。11月甲戌、上は宰臣に「宗室の中に官事に任じられない者がいる、もし恩沢を加えなければ親親の道には未だ弘くない所がある、朕は散官を授けて廪禄を量りたい、前代はどうであったろうか」と言うと、左丞石琚は「陶唐の親九族、周家の内は九族を睦め、詩書に見えるものはみな帝王の美事です」と言った。丙子、上は曹国公主家の奴が事を犯したのをもって宛平令の劉彦弼がこれを杖したところ主は令を折辱し、既に深く責め公主を又台臣に狥勢偸安畏忌し敢えて言わなかったことに俸を一月奪った。陝西統軍使の璋を御史大夫とし、戸部尚書の曹望之を賀宋正旦使とした。壬午、同州の民の屈立らが謀反し誅に伏した。戊子、上は侍臣を屏り宰臣と事を議し記注官もまた退いた。上は「史官が人君の善悪を記すのは朕の言動及び卿らと議する所をみな与知すべきだ、その記録に隠すことなかれ、朕の意をこれに諭せ」と言った。12月乙未朔、済南尹の劉萼が定武軍で貪墨不道であったことをもって大理少師の張九思にこれを鞫させた。丁酉、使者及び護衛二十人を路を分けて遣わし年二十以上四十以下で門地才行及び善射の者を選び護衛に充てるが百人を超えないことを詔した。冀州の王瓊らが謀反し誅に伏した。徳州防禦使の文は謀反をもって誅に伏した。辛丑、宮女二十余人を出した。己酉、樞密副使の伊喇成が罷された。辛亥、審録官が宴飲で公務を廃することを禁じ、金銀の坑冶は民の開採を聴し税を収めないことを詔した。辛丑、近郊で猟をし殿前都点検の図克坦克寧を樞密副使とした。己未、今より除名された人の子孫で仕にある者は並びに奏裁を取ることを詔した。
大定十三年(1173年)
- 正月己丑朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。癸酉、尚書省が南客の車俊らが榷塲貿易により誤って辺界を犯した罪は死に当たると奏したが、上は「本より故意ではない、罪を免じて還すがよい、彼国に知られてはならない、恐らく復びその罪を治めるだろうから」と言った。有司に州県坊里で民の害をなす者を厳禁することを詔した。閏月壬辰、太子詹事に「東宮官属はことに正人を選用すべきだ、もし行検が修まらず職に称わない者があればその名を聞かせよ」と詔した。辛酉、太白が昼見した。洛陽県の賊が衆を聚めて盧氏県を攻め県令の李庭才を殺し宋に亡入した。3月癸巳朔、万春節に宋・高麗が使者を遣わし賀した。乙夘、上は宰臣に「会寧はわが国家興王の地だ、海陵が遷都して以来、女直人はようやく旧風を忘れている。朕は嘗て女直の風俗を見たが今もこれを忘れない、今の燕飲・音楽はみな漢風を習っているのは礼に備えるためであって朕の心が好むところではない。東宮は女直の風俗を知らないがただ朕の故をもってなお存している、恐らく異時に一変すればこの風が長久の計でなくなろう、甚だ会寧に至って子孫にも旧俗を見せ習効させたい」と言った。太子詹事の劉仲誨が東宮の牧人及び張設を増やすことを請うと、上は「東宮諸司局の人は自ら常数がある、張設はすでに具わっているのに何を増益するというのか、太子は富貴に生まれ易く侈に入る、ただ淳倹を導くべきだ、朕は即位以来服御器物をしばしば旧のままにしている、卿はこの意を諭せ」と言った。4月己巳、出継子の継財産が本家に及ばない場合は継ぐ所と本家の財産を通数し均分することを定めた。制により有司が言う洺州の孝子劉政を太子掌飲丞に特授した。乙亥、上は睿思殿に御し歌者に女直詞を歌わせ皇太子及び諸王を顧みて「朕は九朝の行う所の事を思い暫くも忘れたことがない、故に時にこの詞を聴かせるのは汝らに知らしめようと欲するためだ。汝らは幼くよりただ漢人の風俗を習い女直純実の風を知らない、文字語言に至ってはあるいは通暁しない、これは本を忘れるものだ。汝らは当に朕の意を体すべく、子孫に至るまでまた朕の教誡に遵うべきだ」と言った。辛巳、盗宗廟祭物の法を更定した。5月壬辰朔、日食があった。戊戌、女直人が漢姓に訳すことを禁じた。壬寅、真定尹の孟浩が薨じた。甲辰、尚書省は鄧州民の范三が人を殴殺し死に当たるが親が老いて侍る者が無いと奏すると、上は「醜の中で争わないのを孝という、孝であればよく養う、この人が一朝の忿でその身を忘れ親に事える心があろうか、当に法のように論じるべきだ、その親には官に養済させよ」と言った。6月、樞密使の完顔思敬が薨じた。7月庚子、会寧府を復び上京とした。庚戌、歳課の雉尾を罷めた。8月丁邜、判大興尹の趙王永中を樞密使とした。詔して諸明安穆昆の廉能三等の官賞を賜った。己夘、御史大夫の璋が罷された。丙戌、左副都点検の襄らを賀宋生日使とした。丁亥、秋臘した。9月辛卯朔、宿直将軍の和索哩を夏国生日使とした。辛亥、還都した。大名府の僧の李智究らが謀反し誅に伏した。10月乙丑、歳星が昼見した。丙子、前南京留守の唐古安礼を尚書右丞とした。11月、大興尹の璋を賀宋正旦使とし、引進使の徳敦を高麗生日使とした。上は宰臣に「外路の正五品職事は多く闕員だ、なぜか」と言うと太尉李石は「資考が及ぶ者が少ないためです」と答えた。上は「もし賢能があれば次を待たず用いるべきだ」と言った。壬子、吏部尚書の梁肅が奴婢に羅綺を服することを禁じることを請うと、上は「近ごろすでに明金を服することを禁じたが、これは漸次行うがよい、かつ教化を行うには貴近から始めるべきだ、朕は宮中の服御は常に自ら節約している、旧に明金を服した者はすでに大半減らした、近ごろ民間の風俗は正隆の時に比べてやや淳倹だと聞く、卿らはさらに儉素に従うことに務め、民に効う所を知らしめよ」と言った。
大定十四年(1174年)
- 正月己丑朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。2月壬戌、大興尹の璋が宋に使いして罪あることに杖百五十とし除名し受けた礼物を官に入れた。丙寅、刑部尚書の梁肅らを宋詳問使とした。庚午、太尉尚書令の李石を太保に致仕させた。戊寅、去年被水旱の百姓の租税を免じることを詔した。3月戊子朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。甲午、上は大臣に「海陵は吏事を純に尚び当時の宰執はただ案牘をもって功としていた、卿らはよろしく経済の術を思うべきで故常に狃れてはならない」と言い、また詔して明安穆昆の民は今後殺生の祈祭を許さず、もし節辰及び祭天の日に会飲することを許すが、2月1日から8月末までは飲燕を禁絶し他所の会に赴くことも許さない、閒月であっても痛飲を許さない、犯す者は罪に抵し徧くこれを諭せと命じた。また衛士に女直語に慣れない者はみな習学させ今後は漢語を許さないことを命じた。辛丑、太白・歳星が昼見した。甲辰、上は名を雍に改め中外に詔した。丙辰、太白・歳星が昼見・経天した。4月乙丑、上は宰臣に「愚民が祈福のため多く仏寺を建てていると聞く、すでに禁を条めても未だ犯さぬ者はいない、よろしく約束を申し徒に財用を費させないようにせよ」と諭した。戊辰、太廟に事あり皇太子に摂行させた。乙亥、勧農副使の完顔仏寧を横賜高麗使とした。上は垂拱殿に御し皇太子及び親王を顧みて「人の行いは孝弟より大なるは無い、孝弟であればみな天の祐に蒙らぬことはない、汝らはよろしく父母に孝を尽くし兄弟に友たれ。古より兄弟の際は多く妻妾の離間によって相い違うに至る、かつ妻とは外属であって、どうして兄弟の親に比べられようか。もし妻の言に是を聴けば兄弟が相い違うのは甚だ理でない、汝らはこの朕の言を常に心に銘記せよ」と言った。戊子、樞密副使の図克坦克寧に大興尹を兼ねさせた。5月丙戌朔、詳問使の梁肅らが宋より還った。甲午、金蓮川に行った。6月己未、太白が昼見した。8月丁巳、珠爾蘇に次った。日中に白龍が御帳の東の小港中に見え、須臾にして雲雷に乗って去った。癸亥、瑪哩布で猟をした。己夘、太白が昼見した。9月丁亥、還都した。乙未、兵部尚書の完顔讓らを賀宋生日使、宿直将軍の崇肅を夏国生日使とした。癸夘、上は退朝して侍臣に「朕は潜邸にいた頃より即位して今に至るまで親属や旧知に心を欺いたことは未だない、近ごろ御史台が奏した樞密使永中がかつて河南統軍使の完顔仲に書を致し馬を売ることを託した件は、朕は知りながら問わなかった、朕の心を欺くのはこの一事のみだ、日夜これを思うことたいへんな疾のようだ」と言った。己酉、宋は使者を遣わし報聘した。10月乙夘朔、功臣二十人を衍慶宮聖武殿の左右廡に図画することを詔した。11月甲甲朔、日食があった。丙申、御史中丞の劉仲誨らを賀宋正旦使とした。戊戌、尚食局使を召し「大官の食はみな民の脂膏だ、日ごろ品味が多すぎる、あまねく挙げなくてよい、今より口に適う数品を進めるだけにせよ」と諭した。戊申、儀鸞局使の曹士元を高麗国生日使とした。12月戊寅、平章政事の完顔守道を右丞相とし、樞密副使の図克坦克寧を平章政事とした。
大定十五年(1175年)
- 正月(この下欠く)7月丙午、展盤とその所部の喀喇貝歓らが内附した。9月戊子、金蓮川より至った。辛夘、高麗の西京留守の趙位寵はその君に叛き慈悲嶺以西・鴨緑江以東四十余城をもって内附を請うたが納れなかった。丙申、新宮に幸した。閏月己酉朔、禁弓箭・鎗刀を諸路分品官・家奴・客旅らに帯びることを許す制を定めた。上は左丞相の良弼に「今、官にある者は職位が愜望するとようやく勉力を加えるようになる、もし少しでも意に満たなければただ度日を務めるばかりだ、これがどうして忠臣の道であろうか」と言った。丁巳、また良弼に「武霊の時、領省の秉徳・左丞相の言はみな能名があったが政をなすには遠図を務めず、ただ苛刻を事とした、克実らが会寧にいた頃を語ると一月の間に杖して殺した者二十人、罪はみな死に至るものではなかった、理においてどうであろうか。海陵は人となり虎のようであった、この輩はなお術数をもってこれを要め賣直で死を取るに至った、能と言えようか」と言った。己未、帰徳尹の完顔王祥らを賀宋生日使、符宝即の錫黙和尚を夏国生日使とした。辛酉、高麗国王は趙位寵が誅に伏したことを告げ詔して慰答した。親王・百官の傔人が服する紅紫を黒紫に改めることを詔した。甲戌、年老いた人は県令とせず年老いても従政する者はその佐にも壮者を参用することを詔した。10月乙未、冬猟し丁未、還都した。11月乙夘、上は東宮に幸した。初め唐古部族節度使の伊喇摩多の子がその妻を殺して逃げたため上はこれを捕えることを命じたが、皇姑梁国公主がこれを赦すことを請うと、上は宰臣に「公主は婦人で典法を識らない、罪はなお恕すべきだが摩多の請託がここに至っては貸宥できようか」と言い許さなかった。戊午、右宣徽使の靖らを賀宋正旦使とした。甲子、太白が昼見した。戊辰、宿直将軍の阿克占富勒呼を高麗生日使とした。
大定十六年(1176年)
- 正月戊申朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。甲寅、去年被水旱の路分の租税を免じることを詔した。甲子、宗属で未だ玉牒に附かない者は並びに編次することを詔した。丙寅、上は親王・宰執・従官と従容と古今の興廃事を論じて「経籍の興りは久しく、後世に垂教してみな善を尽くさぬことはない。今の学者はすでによく誦えるが必ず行うべきだ、しかし知って行えない者が多い、もし行えなければ誦えて何の益があろうか。女直の旧風は最も純直であり、書を知らずといえどもその天地を祭り親戚を敬い耆老を尊び賓客を接し朋友に信あり礼意欵曲なることはみな自然より出ている、その善は古書に載る所と異ならない、汝らはこれを習学すべきだ、旧風を忘れてはならない」と言った。戊辰、宮中で火事があった。庚午、上は鷹橋で按じ道側で醉人が驢から堕ちて臥しているのを見て左右にこれを扶けさせ乗せてその家に送らせることを命じた。辛未、皇姑が上を私第に邀え諸妃がみな従い宴飲甚だ歓しみ公主が酒を進めるたびに上は立ってこれを飲んだ。2月庚寅、皇子の瀋王妃の図克坦氏が姦をもって誅に伏した。己亥、平章政事の図克坦克寧が女の故により罷された。3月丙午朔、日食があり、この日は万春節であったため明日に改めて用いた。宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。戊申、豆が臨潢に雨と降った。戊午、上は広仁殿に御し皇太子・親王がみな膳に侍った。上は従容と訓じて「大凡資用は節省を務めるべきだ、もし余りがあれば親戚を周える、みだりに費すな」と言い、その御服を挙げて「この服はすでに三年更換したことがないのに完好である、汝らはよろしくこれを識れ」と言った。壬申、復び烏都温部図哩を置いた。4月丙戌、京府に学を設け士を養うこと及び宗室宰相の子の程試等第を定めることを詔した。戊子、商賈の舟車は馬を用いてはならないと制した。東京留守の崇尹を樞密副使とした。壬寅、金蓮川に行った。5月戊申、南京の宮殿が火事となった。甲寅、太白が昼見した。庚申、使者を遣わし静寧山神に雨を禱わせるとしばらくして雨があった。6月、山東両路で蝗があった。7月壬子、夏津県令の伊喇算卓が贓に坐して誅に伏した。8月辛巳、霹靂濼に次った。9月乙巳、金蓮川より至った。己酉、左丞相の赫舎哩良弼に「西辺は元来儲蓄が無い、その所在に和糴させて緩急の備えとせよ」と諭した。癸丑、殿前都点検の富察通らを賀宋生日使、宿直将軍の完顔托果斯を夏国生日使とした。左丞相の良弼に「海陵は非理に臣下を殺戮した、たいへん哀憫すべきである、その博勒準らの遺骸は逐処に訪求させ官がこれを収葬せよ」と諭した。辛酉、南京の宮殿の火事をもって留守・転運の両司官はみな抵罪した。10月丙申、宰執に諸王の小字は未だ女直語をもって命じられていない、今すべて更易すべきだ、卿らは名を択んで上れと詔した。11月壬寅朔、参知政事の王蔚が罷された。尚書省が河北東路の和倫明安が轄する穆昆の富珠哩色色が穆昆をその兄の子の富色里に譲ったと奏すると、上は賢としてこれに従い且つ色色に恩賞を加えることを議させた。戊午、同知宣徽院事の劉珫らを賀宋正旦使とした。庚申、吏部尚書の張汝弼を参知政事とした。甲子、鈕祐禄罕努の子の尚を尚輦局直長とし羅索を武器直長とした。初め罕努は㫖を被り契丹の達実を招いたが後に所在が知られなくなり、この時、展盤の部長の薩里罕托色らが来たことをもってこれを詢ねて死節の詳細を知り、その後を録した。兵部郎中の伊喇子元を高麗国生日使とした。12月壬申朔、諸科人の出身四十年でようやく県令に注される者は年歳が遠すぎる、今後は仕えて三十二年に及べば別に負犯贓染がなければ即座に県令を与えると詔した。丙子、諸々の流移した人で老病の者には官が養済を与えることを詔した。上は宰臣に「凡そすでに奏断した事に未だ当たらぬものがあれば、卿らは己に行ったからと言って奏聞して改正することを謂うことなかれ、朕は万機の繁をもってどうして一失もなかろうか、卿らはただこれを言え、朕は当に改めよう、必ず吝みはない」と諭した。庚寅、榷塲香茶の罪賞法を定めた。
大定十七年(1177年)
- 正月壬寅朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。高麗はまた趙位寵を納れなかったことを謝する表を上った。丙午、有司が高麗の進めた玉帯は石が玉に似ているものだったと奏すると、上は「小国には辨識できる者がいない、誤って玉と思ったのだ、人は物を易にしない、ただ徳がその物にあるだけだ、もし復びこれを却ければどうして礼体と言えようか」と言った。戊申、衍慶宮聖武殿の西に世祖神御殿を建て東に太宗・睿宗神御殿を建てることを詔した。西北路招討司の契丹民戸でかつて叛乱した者はすでに措置を行ったが、叛乱に与らず放良された奴隷は烏庫哩実塁部に徙し春耕作に及ばせることを詔した。尚書省が烏都温部の斉特庫爾阿勒瑪斯の入献を請うとこれを許した。庚戌、諸大臣の家で功臣号を請う者があればすでに許さないが、その子孫が自ら陳ずることも許さず、吏部考功郎はその労績を詳らかに考え当に賜号すべき者はすぐに聞かせることを詔した。壬子、上は宰臣に「宗室の中に年高い者は往々にして官称が未だ無い、その先はみな国に功があった、朕は稍く官を加えて名位を称えさせたい、いかがであろうか」と言うと「親親報功は先王の令則です」と答えた。丁巳、朝官の嫁娶には三日の假を給い申告を須たないことを詔した。壬戌、海陵の時に大臣が無辜にして戮せられ家属が籍没された者は並びに良として釈すことを詔した。遼の豫王・宋の天水郡王で被害となった子孫はそれぞれ広寧・河南の旧塋に葬られたが、その後復び天水郡王の親属を都の北に安葬することを詔し、外の咸平に寄せられた骨殖は官がこれをその本処に葬り、遼の豫王の親属で未だ本塋に入っていない者もまたこれを遷祔した。3月辛丑朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。辛亥、河北・山東・陝西・河東・西京・遼東等十路の去年被った旱蝗の租税を免じ、東京・博索・哈斯罕三路を賑した。乙丑、尚書省が三路の粟では周給できないと奏すると、上は「朕はかつて卿らに豊年に遇えば広く糴して凶歉に備えるよう語った、卿らはみな天下の倉廩は盈溢していると言ったが、今賑済しようとするとすぐ不給と言う、古来帝王はみな蓄積をもって国家の長計としている、朕の積粟はどうしてただ独り用いようとするものだろうか、今すでに不給であればすぐに鄰道からこれを取って済うべきだ、今より預備を常とせよ」と言った。4月甲戌、世襲明安穆昆で出仕する者は年が未だ六十に及ばずとも子孫に襲わせようとする者は聴すことを制した。戊寅、上は宰臣に「郡県の官は罪をもって解官されても一二年後にはまた再用される、明安穆昆はみな太祖創業の際、国に勤労功のあった人だ、その世襲官は小罪をもって奪免すべきでない」と諭した。戊子、滕王府長史の図克坦烏哲を横賜高麗使とした。5月、尚書省は皇家袒免以上の親の宴饗の班次はすべて唐制に従うことを奏した。癸夘、姚村淀に幸し七品以下の官及び宗室子・諸局承応人の射柳を閲し賞にそれぞれ差をつけた。6月己夘、上は宰臣に「朕は年老いた、恐らくは一時の喜怒で処置が当たらぬことがあるかもしれない、卿らはすぐに執奏すべきで面従して朕の失をなすことのないように」と言った。乙未、英王爽の子の色埒を忠順軍節度副使とした。爽が謝を入れると上は「朕は卿の疾のことをもって特に卿の子に任じた、望む所は卿が喜んで愈えることだ、すぐに峻授を加えたいが色埒は年幼で未だ政事に閑せていないことを恐れる、汝はこれを訓じて善が見えれば更に升擢しよう」と言った。7月壬子、尚書省が歳ごとに羊三万を西北路の戍兵に賜ることを奏すると上はどうやって運致するのか聞いたが宰臣は答えられず、上は「朕は退朝しても留心政務し安寧に遑がない、卿らは細事は帝王の宜しく問うべきところではないと謂うな、卿らが国家の事に未だ心を用いなかったから問うのだ」と言った。8月己巳、近郊で稼を観た。壬申、監察御史が東北路の官吏があまねく訟牒を受けて不称職なことを体察したことに笞五十とした。庚辰、上は宰臣に「今の官にある者は同僚の見る所の事が理に当たっていても非として、これに従えば人が己より政が出ていないと謂うことを恐れているのだ、このような者は多い、朕は甚だこれを悪む、今大理寺が断ずる所を観るに制条があっても理が行えないことがあれば、別に情見を具え朕はただその長ずる所を取る、人の理として他人の善を従うことができるならば善と言えよう」と言った。壬午、上は宰臣に「今、下僚にどうして人材が無いことがあろうか、ただ上にある者がこれを引かず己より才が勝るのを悪むからだ」と言った。丙戌、上は御史中丞の赫舎哩邈に「台臣が吏治の能否を糾察するのは、その擾民を去りかつ賢を得ることを冀うためだ、今至る所であまねく訟牒を受け妄告を聴すようなら政をなす者はどうしたらよいだろうか」と言った。9月丁酉朔、日食があった。辛丑、子の永徳を薛王に封じ、右副都点検の完顔実訥埒らを賀宋生日使とした。癸夘、兵部即中の舒穆嚕呼図を夏国生日使とした。戊申、秋猟した。庚戌、歳星・熒惑・太白が尾で聚まった。甲子、還都した。10月己巳、夏国は百頭帳を進めたが詔して境上でこれを却けた。癸酉、有司は衍慶宮に画かれた功臣二十人でただ五人に諡があるので今余の十五人の功状を考検して諡号を擬定して進めると詔してこれを可とし玉牒を修めて成し皇族の異姓男を収養して子となすことを禁じ徒三年、同姓であれば二等を減じ、立嫡違法の者は徒一年とした。癸亥、薊州の秋山に行き冬十月庚寅、秋山より至った。庚子、風霾があった。宋は使者を遣わし喪を告げた。辛丑、百官を尚書省に集め「間もなく亢旱があり近ごろは久しく陰である、これは政に錯謬があってこうなったのだろうか、各々見る所をもって答えよ」と問うた。礼部即中の劉公憲を高麗生日使とした。丁未、近郊で猟をし、宿直将軍の完顔観音努を夏国生日使とした。11月癸丑朔、日食があった。乙卯、国史院編修官の呂卿雲を左補闕兼応奉翰林文字とすると審官院が資淺をもって駁奏したため、上は「明昌間卿雲はかつて上書して宮掖の事を言ったが辞は甚だ切直で、みな他人が言えない所だ、卿輩は不知であろう、臣下が事を言うのに外人に知らせないのはこれ謹密なもので正に顕用に当たる、卿はこれを悉くせよ」と諭した。工部尚書の烏庫哩誼らを宋弔祭使とし、初めて品官が闕を過ぎたら制を下すことを定めた。己巳、宋は復び使者を遣わし喪を告げた。辛未、殿前右副点検の赫舎哩忠定を賀宋正旦使とした。12月戊辰朔、明年を泰和元年と改めることを詔した。河南路統軍使の充らを宋弔祭使とした。乙未、管軍官が所部の財物を受けて役を放し離させ及び人をして代役させる法を定めた。辛丑、宮籍監戸の百姓が自ら女をもって婚を願う者を聴すことを詔した。癸卯、造作が法に合わず三年内に損壊した者はそれぞれ差ある罪を定めた。
大定十八年(1178年)
- 正月丙申朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。壬寅、異居周親の奴婢を殺し同居卑幼が輒く奴婢及び妻を殺し無罪で輒く毆殺する者の罪を定めた。庚戌、修起居注の伊喇傑が上書して毎に人を屏り事を議すれば史官もこれに与聞できないと言うと、上は平章政事石琚・左丞唐古安礼にこれを問い「古者天子は史官を左右に置き言動は必ず記した、これは人君を警戒し畏れる所あらしめる為である」と答えた。庚申、中都・河北・河東・山東・河南・陝西等路の前年被災の租税を免じた。壬戌、春水に行った。2月丙寅朔、管荘に次った。丙子、華港に次った。己丑、還宮した。3月乙未朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。乙巳、戍辺の女直人が祭祀・婚嫁・節辰に遇えば自ら酒を造ることを許すことを命じた。丁未、上は宰執に「県令の職は最も親民なもので賢材を用いるべきだが、近ごろ犯法する者が多く、能吏がいるとほとんど聞かない。春水にいたとき石城・玉田両県令をみな年老で苟禄しているだけと見た、畿甸ですらこうであるから遠県は知れよう」と言うと、平章政事の石琚は「良郷令の焦旭・慶都令の李伯達はいずれも能吏で任じられます」と答え、上は「まことに卿の言のようなら推用すべきだ」と言った。己酉、民間で寺観を新たに建てることを禁じた。献州の人の殷小二らが謀反し誅に伏した。4月己巳、上は宰臣に「朕が巡幸する所は必ず官吏の臧否を体訪させている、先に玉田で主薄の舒穆嚕杳は能吏だと知った、本県令を授けるがよい」と言った。己丑、太子左贊善の阿布哈徳甫を横賜高麗使とした。5月丙午、上は金蓮川に行った。6月庚午、尚書左丞相の赫舎哩良弼が薨じた。閏月辛丑、西南西北両招討司の民及び烏庫哩実塁部の飢えた転戸を賑すことを命じた。7月丙子、上は宰臣に「職官が贓罪を初めて犯し客に錯誤があるとしても再犯すれば改過の心がないということだ、今より再犯した者は贓数の多寡によらず並びに除名せよ」と言った。8月乙巳、金蓮川より至った。丙辰、尚書右丞相の完顔守道を左丞相とし、平章政事の石琚を右丞相とした。9月辛未、大理卿の張九思らを賀宋生日使、侍御史の完顔富勒呼を夏国生日使とした。癸酉、尚書左丞の唐古安礼を平章政事とした。乙亥、右丞の富察通を左丞とし参知政事の伊喇道を右丞とし、刑部尚書の鈕祜祿噶逹爾を参知政事とした。10月庚寅朔、陝州防禦使の舒穆嚕錦嘉努が罪をもって除名された。甲午、御史中丞の劉仲晦・侍御史の李瑜が大長公主の事を糾察できなかったことに坐して一階を削られた。11月庚申朔、尚書省は同知永寧軍節度使事の額爾克を刺史に擬すると奏すると、上は「額爾克は年幼で未だ事に練れていない、佐貳官を授けるがよい」と言った。平章政事の唐古安礼は「臣らは額爾克が宗室であることをもってこの職に擬しました」と言うと、上は「郡守は千里の休戚に係わる、どうして人を択ばずその親を私してよいだろうか、もし親親をもって恩賜を与えるならたとえ厚くとも政に害はないが、これに郡を治めさせてその才でなければ一境は何を頼りにしようか」と言った。壬申、静難軍節度使の烏雅扎拉らを賀宋正旦使とした。丙子、尚書省が崇信県令石安節が部民から車材を買って三日償わなかったことを察知しその官一階を削り解職に当たるとすると、上はこれによって「凡そ官にある者はただその貪汚と清白の甚だしい者数人を取って黜陟すればすなわち人は自ら懲勧を知るはずだ、朝廷の政は太寛であれば人は懼れを知らず、太猛であれば小玷でも将に罪を免れないだろう、まさに中典を用いるべきだ」と言った。戊寅、上は宰臣を責めて「近ごろ趙承元がなぜ再任されたか問うたところ卿らは曹王がかつてその才能幹敏を言ったことをもって再任させたと言う、官爵の擬注は卿輩によるといえど予奪の権は当に朕より出るべきだ、曹王の言でもなおこれに従うようなら、仮に皇太子がもし諭す所があればどうなるか知れよう。この事によって卿の言を初めて知った、知らないものはなお幾つもあろう、卿らは公に受けて請属してよいだろうか」と言った。承元がかつて曹王府文学として王邸の婢と姦して杖百五十とし除名されていたのが復用されていたのである。丙戌、吏部尚書の烏庫哩元忠を御史大夫とし、東上閤門使の左光慶を高麗生日使とした。12月庚戌、孫の烏達布を温国公、瑪達格を金源郡王、承慶を道国公に封じた。壬子、群臣は大金受命万世之宝を奉上した。
大定十九年(1179年)
- 正月庚申朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丁夘、衍慶宮で初めて朝献した。庚申、芳苑に幸し灯を観た。癸酉、帰徳軍節度副使の韓琛が強いて民の布帛を市ったことに一官を削り罷された。甲戌、上は建春宮に行った。2月戊戌、内侍寄禄官を初めて置いた。乙巳、還宮した。3月甲寅、宮苑司都同監を各一人初めて置いた。甲子、蔡王従彜の母・充等の太師が卒すると詔して有司に喪礼葬儀を定めさせた(詳細は従彜伝にある)。4月庚辰、昇国長公主の第に幸し疾を問うた。己亥、遷三品官の格を定め河濼を撲買する法を復した。辛丑、御史台に諸々の訴事は台において実をもって上聞すべきで輒く察知したと称してはならないことを諭した。癸卯、萬寧宮に行き有司に雨を禱わせた。5月甲辰朔、日食があった。戊申、泰和宮に行った。辛亥、初めて太廟で新を薦めた。壬戌、有司に「金井巴納はわずか二三日留まるだけだ、朕が止まる所はただ一厦で足りる、もし修治を加えれば徒に人力を費すだろう、その藩籬の不急の処は幕を用いてよい」と諭した。甲子、泰和宮を慶寧と改め長楽川を雲龍とした。己巳、御史台に京師の拝廟及び巡幸の過ぎる州県はただ灑掃させるだけで黄土で道を覆うことを許さず違う者は糾せと諭した。6月辛卯、諸路の禾稼及び雨の多寡を州郡に聞かせることを尚書省に諭した。7月辛亥、有司が還宮の日に黄麾杖を用いることを請うたが許さなかった。乙卯、衍慶宮で朝献した。8月丙申、鳳凰が磁州武安県鼓山石聖台に見えた。丁酉、還宮した。皇子が生まれた。9月壬寅朔、天寿節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。甲寅、拱衛直都指揮使の完顔瑭らを賀宋生日使とし且つ「両国の和好はすでに久しい、細故を争って大体を傷るべきでない」と戒めた。癸亥、皇子の生まれたことをもって南北郊に親謝した。庚午、皇子を葛王に封じた。冬10月戊寅、太廟及び山陵に報謝した。甲申、鳳凰が見えたことを中外に詔した。丙戌、近郊で猟をした。壬辰、尚輦局副使の李仲元を高麗国生日使とし、宿直将軍の赫舎哩毅を夏国生日使、瀛王府司馬の通吉温を横賜使とした。11月甲辰、徳運を土臘用辰に更定した。西京留守の宗浩を樞密院とした。戊申、徳運を更定したことを中外に詔した。庚申、外官三品が到任すれば表を進めて謝することを初めて命じた。甲子、王虚観に幸し使者を遣わし太清宮に報謝した。12月癸酉、皇子の晬日をもって僧道戒牒三千を放し、武安軍節度使の図克坦公弼らを賀宋正旦使とした。戊寅、冬臘した。庚辰、高禖に報謝した。丁酉、還都した。閏月庚戌、司空の襄が薨じた。癸丑、監察御史は特旨がなければ官を挙げることを許さないことを命じた。辛酉、使者を遣わし北岳に報謝し、人戸物力の随時推収法を定めた。丁夘、使者を遣わし長白山に報謝した。この冬、雪が無かった。
大定二十年(1180年)
- 正月辛未朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。癸酉、使者を遣わし北岳に雪を禱った。丁酉、衍慶宮で朝献した。己夘、令史の試格を定めた。壬戌、歳ごとに銭五千貫をもって随朝百官の節酒及び冰・蜀薬・炭を造り品秩を視てこれを給うことを命じた。己巳、春水に行った。丙子、石城県行宮に幸した。丁丑、玉田県行宮の地・偏林を御林とし大定濼を長春淀とした。2月丁未、還都した。3月癸丑朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。己未、犯罪を問われた官は災に遇ってもなお復職できないことを詔した。乙丑、新たに明安穆昆を定め中都・西京・河北・山東・河東・陝西路の去年の租税を免じた。辛巳、平章政事の図克坦克寧を尚書右丞相とし、御史大夫の烏庫哩元忠を平章政事とした。4月丁亥、冐廕の罪賞を定めた。己亥、宗室及び外戚并びに一品の命婦の衣服は明金を用いることを聴すと制した。西上閤門使の郭喜国を横賜高麗使とし、太寧宮が火事となった。乙巳、上は宰相に「女直の官の多くは朕の食用があまりに倹だと言うが朕はそう思わない、一食に費が多いのはどうして美事であろうか、朕は年老いてなお屠宰物命を欲さない、貴きこと天子であってもなお自ら節約できよう。朕の服御はあるいは旧を澣濯して使い破碎に至って初めて更易する、往時、帳幕には常に塗金を飾に用いていたが今そうでない、ただ用に足りればよい、どうして紛華を事とすることがあろうか」と言った。庚戌、金蓮川に行った。5月丙寅、京師で地震があり黒白の毛が生じた。7月旱があった。8月壬午、秋猟した。9月壬戌、金蓮川より至った。太府監の李佾らを賀宋生日使、少府少監の薩布を夏国生日使とした。丙子、布沙堪の羣牧の羅和が謀叛し誅に伏した。10月庚辰朔、県令丞簿格の銓注を更定した。西北路招討司が毎に馬・駝・鷹鶻等を進めるたびに部内から歛率したため今よりこれを罷めることを詔した。壬午、上は宰臣に「細微を察問するのは人君の体ではない、朕もまたこれを知っている、しかし卿らがことに心を用いないため時に察問するのだ、たとえば山後の地はみな親王・公主・権勢の家に占められ民に転租していると聞くが、みな卿らの不察によるものだ、卿らはよろしく心を尽くし事に勤めて朕を煩労させるな」と言った。約羅河・伊瑪河両明安を大名・東平等路に徙して安置することを詔した。戊戌、上は宰臣に「凡そ人が下位にあるとき升進を望んで公廉に勉め賢とか不肖とかどうして知れよう。その通顕に至って観れば施為するところが本心を見せる、招討の扎克丹は初め定州同知に任ぜられ次いで都司となったがいまだ少しも私狥はなく至る所で清名があったが、招討になると人心を固守せず山川に険しく、まことに知り難いものだ」と言った。壬寅、上は宰臣に「近ごろ資治通鑑を覧るに歴代の廃興を編次するのは甚だ鑑戒がある、司馬光の用心はこのようであり古の良史も加える所はない、校書即の毛麾は朕がしばしば事を問うても善く応対する、真に該博な老儒である、太常の職事に除いて討論に備えるべきだ」と言った。甲辰、殿前都点検の襄を御史大夫とした。11月丁巳、尚書右丞の伊喇道が罷された。乙丑、真定尹の図克坦守素らを賀宋正旦使とした。癸酉、御史大夫の襄を尚書右丞とした。乙亥、上は宰臣に「郡守の選人は資考は未だ廉能な者に及ばずとも升用しこれをもって余を励ますがよい」と諭し、太常少卿の任倜を高麗生日使とした。12月辛巳、上は宰臣に「岐国は人を用いるのにただ一言合意すればすなわち升用し一言の失があればすなわち責罰する、凡そ人の言辞は一得一失で賢者でも免れない、右より人を用いるようであれば咸試を事とする、もしただ奏対の間だけをもってすれば安んじて人の賢否を知れようか、朕の人を取るのは衆と与にする所を用いており独見をもって是とはしない」と言った。己亥、河が衛州で決した。辛丑、近郊で猟をした。癸夘、襲封衍聖公の孔総に兖州曲阜令を特に授け爵は故のごとくとした。