金史卷六 本紀第六 世宗上
世宗光天興運文徳武功聖明仁孝皇帝、諱は雍、本諱は烏禄(1123–1189年)。太祖の孫、睿宗の子。海陵の暴政の下で東京遼陽で挙兵し、正隆6年(1161年)に即位。海陵の悪政を正して大定と改元し、倹約・農桑を重んじる善政を敷いて「小堯舜」と称された金朝中興の英主。この巻は出自から大定11年(1171年)までを収める。
年表(7件)
- 天輔7年癸夘1123年太祖の孫として上京で生まれる
- 正隆六年10月乙巳1161年東京遼陽で即位し大定と改元
- 正隆六年11月乙未1161年完顔元宜らが海陵を弑す
- 大定二年4月辛未1162年廃帝亮を海陵郡王に降す
- 大定二年5月壬寅1162年楚王允迪を皇太子に立てる
- 大定五年正月己未1165年宋の通問使魏杞が来て叔姪関係を定める国書を奉じる(隆興和議)
- 大定十一年11月1171年皇太子允恭に「祖宗の風を忘れず徳を修めよ」と訓戒する
出自と生い立ち
- 世宗光天興運文徳武功聖明仁孝皇帝、諱は雍、本諱は烏禄。太祖の孫、睿宗の子で、母は貞懿皇后李氏。天輔7年癸外(1123年)に上京で生まれた。体貌は奇偉で鬚髯は長く腹に及び、胸間に七星が北斗の形のようにあった。性は仁孝沈静明達で騎射を善くし国人は第一に推した。狩猟に出るたびに耆老はみな随って観た。皇統間、宗室子の例をもって光禄大夫を授かり葛王に封じられ兵部尚書となった。天徳初め会寧牧を判し、翌年大宗正事を判し、俄かに中京留守に改まり、まもなく燕京に改まり、程なくして済南尹となった。貞元初め西京留守となり、3年、東京に改まり趙王に進封された。正隆2年(1157年)、例により鄭国公に降封され衛国に進封された。3年(1158年)、再び留守を任じ曹国に徙封された。6年(1161年)5月、貞懿皇后の喪に居たある日、寝についていたところ紅光が室を照らし黄龍が寝室に現れた。上はまた夜に大星が留守の第中に流入するのを見たことがあり、この年、東梁水が漲溢し城下に暴至し女墻や石の隙間から水が城中に流れ込み湍激すること湧くようで、上は自ら城に登り酒を挙げて酧いると水は退いた。海陵が南伐すると天下は騒動し、この頃、契丹部人の丁壮を軍籍にしたが部人は行くことを願わず使者に告げたが、使者の蘇赫は海陵を畏れて告げなかった。部人はついに反し、咸平府に至ると穆昆の瓜里が韓州を攻め陥し咸平に拠り東京を犯そうとした。8月、起復した東京留守は博索路の兵四百を来会させて瓜里を討ち、復び城中の子弟で兵となることを願う者数百人を得た。帝の舅の興中少尹の李石は病により免じて遼陽に家居していたが、戊午、東京の兵を発し石に留務を主らせた。賊の覘者はこれを聞き鼙鼓の声が天を震わせ旌旗が野を蔽うのを見て国公の兵十万がまさに至ると伝言し、賊衆は瀋州に至って遁げた。折しも烏雅扎拉らが賊兵を敗り常安県に還ると、海陵は博索路総管の完顔黙音に討賊させこれに兵を属させた。9月、東京に至った副留守の高存福はその女が海陵の後宮にいたため、海陵は存福に上の起居を伺わせ、たまたま兵器を造る余材で甲数十を造ったところ、存福は「留守はなぜ甲を造るのか」と宣言し密かに海陵に告げさせた。海陵は摩囉歓に淮北の諸王を図らせようとしていたが、上はこれを知り心中に隠憂を常としていた。瓜里討伐から還り清河に至った頃、旧吏の魯爾錦が伝に乗って南より来て、海陵がその母を殺し兄の子の塔納・阿里布及び枢密使の布薩呼図らを殺したこと、且つ人を遣わして宗室兄弟を害しようとしていることを具に語り、上はこれを聞いてますます懼れた。存福が事を図っていること且つ兆しがあることを聞いた李石は上に早く図るよう勧めた。そこで賊に備える事をもって官属を清安寺に召したところ、彦隆はまず到り存福は累々召しても始めて来た。ともに座上でこれを執えた。この月、復び雲が西より来て黄龍が雲中に見えた。10月辛丑、南征の万戸完顔福寿・高忠建・盧万嘉努らは山東より率いた所の兵二万をもって、完顔黙音は長安より率いた兵五千をもってみな来附した。黙音はすぐに臣礼をもって上謁した。乙巳、諸軍が城に入り共に存福らを撃殺した。この夜、諸軍は甲を被り皇城を環衛した。丙午、慶雲が見え属官・諸軍は勧進したが固く辞退すること久しく、そこで自ら太祖廟に告げ還って宣政殿に御し皇帝位に即いた。完顔黙音を右副元帥とし、高忠建を元帥左監軍とし、完顔福寿を右監軍とし、盧万嘉努を顕徳軍節度使とした。丁未、大赦し大定と改元し、海陵の罪悪数十事を暴揚することを詔した。己酉、将士に饗しそれぞれに官賞を賜り、なお三年の給復を与えた。会寧・呼爾哈・率賓等路の南伐の諸軍が会し、尚書省が従軍して来た者を諸局司承応人及び官吏の闕員に補うことを奏請すると、上は「旧人で南征していた者はすぐ還れば処すべき所ができるので、必ず欠くべからざるものでなければ新人を量って用いよ」と言った。辛亥、利渉軍節度使の通吉義を参知政事とし、中都留守西北面行営都統の完顔古雲に兵三万を将いて帰化に駐まらせ左副元帥とした。丁巳、内府の金銀器物を出して軍吏に贍給し、民吏で財物を出して官用を佐ける者は甚だ多かった。壬戌、以前臨潢尹の晏を左丞相とした。癸亥、南京の太傅尚書令張浩に詔諭した。甲子、興平軍節度使の張玄素が謁に上ぼり、尚書省は正隆軍興の余で銭粟を進めた者に量って官を授けることを奏しこれに従った。使者を遣わし伊喇扎巴が乱をなす契丹諸部を招かせ、前肇州防禦使の実图美を元帥右都監とした。11月己巳朔、左丞相の晏に都元帥を兼ねさせた。辛未、戸部尚書の李石を参知政事とした。己夘、民間の馬を調して軍用に充て事が畢われば主に還し死んだ者は価を給うことを詔した。阿蘇璋は同知中都留守事の薩勒扎阿蘇を殺し自ら中都留守と称し、璋は自ら同知留守事と称し厚嘉努らに賀を上らせた。辛巳、中都に行くべき期日を群臣に詔した。壬午、中都都転運使の左淵に「凡そ宮殿の張設は増置してはならない、一夫の役もなく百姓を擾すな。ただ謹んで囲禁して出入を厳にせよ」と詔した。尚書右司員外郎の完顔烏肯徹を詔諭高麗使とした。癸未、権元帥左都監烏哲庫・右都監実图美・広寧尹布薩歓塔を遣わして契丹諸部を討たせた。甲申、皇考の豳王を皇帝と追尊し簡粛と諡し廟号を睿宗とし、皇妣の富察氏を欽慈皇后とし、李氏を貞懿皇后とした。群臣は仁明聖孝皇帝と尊号を上げた。乙酉、東昬王の帝号を追復し武霊と諡し廟号を閔宗とし中外に詔した。子の薩喇勒を許王に、呼塔噶を楚王に封じた。戊子、太祖廟及び貞懿皇后の園陵に謁える辞を告げた。己丑、中都に行き小口に次り中都留守の宗憲がまず往いた。壬辰、梁魚務に次り、樞密副使北面行営都統の白彦敬・南京留守北面行営副統の赫舎哩志寧が統率する軍の数を来上し、安武軍節度使の爽が帰した。乙未、完顔元宜らは海陵を揚州で弑した。丙申、義州に次った。丁酉、宋人は陝州防禦使の折可直を破り同知防禦使事の李柔立が死んだ。12月乙夘、三河県に次り左副元帥の完顔古雲が来朝した。丙辰、通州に次り延安尹の唐古徳温が来朝した。丁巳、中都に至った。戊午、太祖廟に謁えた。己未、貞元殿に御し群臣の朝を受けた。庚申、元帥左監軍の高忠建らを報諭宋国使とした。壬戌、東京より扈従して京師に至った軍士に三年の給復を詔した。同知河間尹の高昌福が上書して便宜を陳べると、上はこれを覧て再三、内外の大小職官に便宜を陳べるよう詔した。丙寅、左副元帥完顔古雲に南辺及び陝西等路の事を規措させることを詔した。
大定二年(1162年)
- 正月戊辰朔、日食があり伐鼓用幣し朝せず。庚午、上は宰相に「賢を進め不肖を退けるのは宰相の職である。才能が己より高い者があってもその権を分けることを懼れ往々にして引置しないことがある。朕は甚だこれを取らない。卿らはこれを心とするな」と言った。前翰林学士承旨致仕の翟永固を尚書左丞とし、済南尹の布薩忠義を右丞とした。都統の色克・副統の完顔布呼が擅に中都の官吏を易置したことに坐して、色克は除名され布呼は両階を削られ罷された。辛未、太和殿に御し百官・宗戚・命婦に宴しそれぞれに賚を賜った。壬申、御史台に六部の文移で稽って行わないもの、行っても失当なものはみな挙劾するよう勅した。甲戌、迎賽神仏の禁令を除いた。乙亥、大房山に行った。丙子、山陵を献享する礼が畢わって狩りをして還ろうとしたが左丞相の晏らが「辺事はまだ寧らかでない、遊幸すべきではない」と諌めた。戊寅、還宮し晏らに「朕は常に古の帝王の虚心受諌を慕う、卿らに言うことがあれば直ちに言え、緘黙して自らを便にするな」と諭した。辛巳、兵部尚書克実らが謀反し誅に伏したことを中外に詔した。この日、扈従の明安穆昆甲士から伊勒希に至るまでそれぞれに賞を賜った。左副点検富察阿布哈らを遣わし河南の将士に賞を与えた。前勧農使の伊喇元宜を御史大夫とし、前工部尚書の蘇保衡・太子少保の高思廉に山東百姓の粟帛を振り賜わせ、妻のない者は姓名を具えて聞かせた。庚寅、納粟補官の法を行い、右副元帥完顔黙音に師を率いて蕭斡罕を討たせた。壬辰、上は宰執に「朕は即位して未だ半年だが行うべき事は甚だ多い、近日全く上奏がない。朕は九重に深居してひとえに卿らの賛襄を頼りとする、それぞれ長ずる所を思って奏聞せよ、朕にどうして倦怠があろうか」と言った。癸巳、太白が昼見した。甲午、上は宰執に「卿らはまさに民間の利害及び時事の可否を参酌して時に敷奏すべきである。公余に自便に優游するばかりではいけない」と言い、河北・山東・陝西等路の征南歩軍をみな放って家に還らせ、咸平・済州の軍三万を京師に入屯させた。丙申、西南路招討使完顔思敬・兵部尚書阿林に北辺の将士を督させた。2月己亥、前翰林待制の大穎は盗賊を言うことで海陵に忤い杖して除名されていたが秘書丞に起こされ闕を補い、馬欽は海陵に諂事して幸を得ていたが除名された。庚子、前戸部尚書梁球・戸部郎中耶律道に山東の百姓を安撫し盗賊を招諭させ、あるいは賊を避け徭役を避けて他所にいる者はみな帰業させ農種の時を過ぎず問罪の軽重を問わずみな原免することを詔した。壬寅、太傅尚書令の張浩が来て見えた。癸夘、即位を告げるため遼陽主簿の舒穆嚕伊徳・東京麹院都監の伊喇格布を遣わし契丹叛人を招かせたが白彦敬・赫舎哩志寧に害されたため、みな鎮国上将軍を贈り五品の俸を家に食ませ子を録用させた。甲辰、張浩を太師尚書令とし、御史大夫の伊喇元宜を平章政事とした。辛亥、世襲明安穆昆の遷授格を定めた。壬子、太保左領軍大都督璸都を都元帥とし太保は故のごとくとした。癸丑、蕭玉・敬嗣暉・許霖らを官を降し田里に放つことを詔した。甲寅、復び進士を尚書省令史に用いた。丙辰、嵩州刺史の舒穆嚕珠徳勒は宋兵を寿安県で敗った。丁巳、鄭州防禦使の富察世傑は陝州を取った。甲子、都元帥璸都に山東で開府経略辺事することを詔した。澤州刺史の特黙格及びその妻の高福娘が誅に伏した。閏月甲戌、上は宰臣に「近ごろ外議で奏事が甚だ難いと聞いている、朕は可行のことについて未だ従わなかったことはない、今より敷奏に隠すことがないようにせよ、朕は固よりこれを聞くを楽しむ」と言った。戊子、上は宰臣に「臣民の上書する者は多いが尚書省に敕して詳閲させ即座に具奏しないと、天下は朕がただその言を受けるだけで行わないと将に謂うだろう。速やかに条具して聞かせよ」と言った。庚寅、平章政事の伊喇元宜に泰州路規措辺事を詔した。辛夘、太和厚徳殿が火事となった。乙未、尚書兵部侍郎の温都珠徳勒らは斡罕と勝州で戦い敗れた。3月癸卯、参知政事の通吉義が罷された。元帥左都監の図克坦喀齊喀は宋師を徳順州で敗った。甲辰、李通の官職を追削した。乙巳、南京の正隆丁夫の貸役銭を免じた。辛亥、廉平をもって中外の官吏を誡諭した。癸亥、河南陝西山東で先に捕賊のために良民が虜獲されて賊とされた者を釐正することを詔した。4月己巳、右副元帥完顔黙音らは斡罕を長濼で敗った。辛未、廃帝亮を海陵郡王に降した。乙亥、御膳及び宮中食物の半分を減らすことを詔し、夏国は使者を遣わし即位及び進方物・賀万春節を賀し、右副元帥完顔黙音は復び斡罕を霧河で敗った。辛巳、夏の使者を貞元殿で宴した。故事では外国使の三節人は従ってみな廡下に坐し食を賜ったが、上はその食が精腆でないことを察し「どうして遠人の心を服させられようか」と言い、掌食官はみな杖六十とされた。癸未、夏の使者は朝辞し互市を乞いこれに従った。己丑、左丞相の晏を太尉とした。壬辰、契丹部を征する将士に「契丹と大軍が未だ戦わず降る者は殺傷してはならず、なおこれを安撫せよ」と詔した。また詔して来降を誘う者は奴婢を除きすでに虜られた者を定とし、その親属は各々その家に還らせ官がこれを贖った。5月丁酉朔、哈斯罕節度使の白彦敬を御史大夫とした。戊戌、元帥左監軍の高忠建を遣わし北征将帥と会して契丹を討たせた。己亥、臨海節度使の赫舎哩志寧を元帥右監軍とし、右副元帥完顔黙音・元帥右監軍完顔福寿は逗遛に坐して召還され罷された。壬寅、楚王の允迪を皇太子に立て中外に詔した。丁巳、押軍万戸の費摩阿拉・明安の伊喇薩爾拉は宋兵を華州で敗った。6月戊辰、御史大夫の白彦敬に西北路で馬を市らせた。庚午、尚書右丞の布薩忠義を平章政事とし右副元帥兼契丹を経略させた。内府の金銀を出して征契丹軍用に給うことを詔した。戊寅、居庸関・古北口で契丹の姦細を譏察し捕獲した者に官賞を加えることを詔した。己夘、古北口及び石門関を守禦することを詔した。庚辰、宋は使者を遣わし即位を賀した。壬午、右副元帥布薩忠義は斡罕と和托で戦った。戊子、南京留守の赫舎哩良弼を尚書右丞右副元帥とした。庚寅、布薩忠義は斡罕を諾爾嶺で大いに敗り西泉を陥しその弟の諾爾を獲た。壬辰、西南路招討使の完顔思敬を元帥右都監とした。7月丁酉、復び原州を取った。丙午、宋主は子の眘に位を伝えた。甲寅、契丹に詔諭した。丁巳、率賓軍士の珠勒呼らは完顔黙音の子の色克がその父に書を寄せ謀反していると誣告しその書を上ったが、上はこれを覧て「これは誣告だ」と言い、告げた者を訊すよう止め訊すと果たして誣告であった。珠勒呼は誅に伏した。庚申、太尉尚書左丞相の晏が致仕した。壬戌、済州会寧府の軍で京師にある者五千人を北京都統府に赴かせることを詔した。陝西都統の璋は宋将呉璘を張義堡で敗った。8月乙丑朔、奚の実黙・伯穆昆・実哷らが降り、左監軍の高忠建は奚を栲栳山で破りまた旁近の奚六営を招降し降らない者は攻破しその男子はことごとく殺しその婦女童孺は諸軍に分給した。丁夘、永興県が嘉禾を進めた。壬申、万戸温特赫阿嚕岱は奚と古北口で戦い敗れたため詔して同判大宗正事の完顔黙音らにこれを禦がせた。癸酉、上は宰臣に「百姓が上書して時政を陳べればその言はなお補う所がある、卿らは機要に位して献替が略も無いことがあってよいか。それ聴断の獄訟・簿書の期会は誰にできぬことがあろうか。唐虞の聖といえどもなお兼覧博照を務めてこそよく治を成した。正隆は独見を専任したがゆえに敗亡を取った。朕は早夜孜孜として讜論を聞くことを冀う、卿らはよろしく朕の意を体せよ」と言い、百司官吏に凡そ上書して事を言い有司に抑えられている者は表を進めることを許し朕は将にこれを親覧して人材の優劣を観ることを詔した。夏国は使者を遣わし尊号を賀した。丁丑、斉国妃の韓王亨・樞密の呼図・留守の賾らの家親属が宮籍にある者を免じた。元帥右都監の完顔思敬に所部の軍と大軍を会して斡罕を討たせることを詔した。乙酉、左諫議大夫の石琚・監察御史の馮仲尹に河北東路を廉察させた。丁亥、御史台に「卿らの劾するところはただ諸局の行移が稽緩なことと局に赴くのが遅いことばかりだ、これは細事である。自ら三公以下の官僚の善悪邪正はまさに審察すべきだ、もしただ細務を理めてその大なるものを略すならば卿らの罪を治めよう」と詔した。契丹の老和尚が降った。辛夘、諸関の征税を罷めた。9月甲午朔、完顔黙音は奚の明安・和卓を擒えた。元帥右都監の図克坦喀齊喀は宋の呉璘を徳順州で敗った。乙未、尚書右丞の赫舎哩良弼に便宜をもって奚契丹の叛く者を招撫させることを詔した。庚子、元帥右都監の完顔思敬は伊喇斡罕の余衆を悉く平げ、尚書左司員外郎の完顔正臣を夏国生日使とした。壬寅、近郊で猟をした。乙巳、伊喇斡罕が平いだことを中外に詔した。庚戌、睿宗皇帝を改葬した。壬子、元帥右都監の完顔思敬を右副元帥とした。戊午、思敬に南辺を経略させることを詔した。辛酉、睿宗皇帝の梓宮を磐寧宮に奉遷した。癸亥、元帥右監軍の図克坦喀齊喀は宋兵を徳順州で敗り、河南統軍使の宗尹は復び汝州を取った。10月丁夘、左副元帥の完顔古雲を平章政事とした。戊辰、山陵に行き睿宗皇帝の梓宮に謁え哭き尽哀した。平章政事右副元帥の布薩忠義らは軍より還って上謁した。丙戌、布薩忠義を尚書右丞相とし、元帥左監軍の赫舎哩志寧を左副元帥とした。戊子、睿宗皇帝を景陵に葬り大赦した。己丑、左副元帥赫舎哩志寧に南辺を経略させることを詔した。壬辰、華州防禦使の富察世傑・丹州刺史の持嘉烏蘇埓克は宋兵を徳順州で敗った。11月癸己朔、右丞相の布薩忠義に伐宋を詔した。丁酉、職官の廉能・汙濫・不職をそれぞれ三等に分けて黜陟した。12月乙酉、尚書刑部侍郎の劉仲淵らを遣わし東京・北京等路を廉察・宣諭させた。
大定三年(1163年)
- 正月壬辰朔、高麗・夏が使者を遣わし賀した。庚子、太白が昼見した。壬子、客省使の烏居仁を遣わし河南の軍士を賞労した。癸丑、復び徳順州を取った。2月甲子、太子少詹事の楊伯雄らに山西路を廉問させた。庚午、上は宰相に「灤州の飢民は流散し逐食して甚だ憐れむべきだ、山西の富民に移して贍済させよ、なお道路で口を計り給食させよ」と言った。壬申、陝西を撫諭することを詔した。庚辰、太保都元帥の璸都が薨じた。丙戌、趙景元らが乱言をもって誅に伏した。庚寅、高麗・夏が使者を遣わし万春節を賀し、高麗は即位を賀する使者を遣わした。東京の僧法通が妖術で衆を乱したため都統府がこれを討平した。3月丙申、中都以南の八路が蝗のため尚書省に官を遣わしてこれを捕えることを詔した。壬寅、戸部侍郎の魏子平ら九人を諸路の明安穆昆に分遣して勧農及び廉問させることを詔した。臨潢の漢民に会寧府・済信等州で逐食することを詔した。庚戌、去年の租税を免じることを詔した。4月辛酉朔、右副元帥完顔思敬が罷された。丁夘、平章政事完顔古雲・御史大夫白彦敬が罷され、参知政事の李石を御史大夫とした。丁丑、吏で贓罪を犯した者は赦にあってもなお叙用しないことを詔した。己夘、引進使の韓綱を横賜高麗使とした。乙酉、山西路の明安穆昆の貧民を賑し六十日の糧を給した。この月、商・虢・環州の宋が侵した十六州を復した。5月辛夘朔、右丞相の布薩忠義が京師に朝した。乙未、重五をもって広楽園で射柳し皇太子・親王・百官にみな射させ勝つ者には物を賜った。上は復び常武殿に御し宴し撃鞠した。これより歳例とした。丙申、宋人は霊壁・虹県を攻破した。己亥、河南山東陝西統軍司を罷め都統・副統を置いた。太子詹事の完顔守道に皇太子に従わせ、上は守道を召し諭して「卿の任は軽くない、今より従うことなかれ」と言った。辛丑、右丞相布薩忠義に都元帥を兼ねさせた。癸夘、布薩忠義は軍を河南に還した。路都統の奚托卜嘉が叛いて宋に入った。丙午、宋人は宿州を攻破した。辛亥、出征軍逃亡法を更定した。尚書省は天徳間に誅された大臣の諸奴隷及び斡罕の乱に従った者を軍に籍することを請うたが、上は四方がようやく定まり民意がやや蘇ったばかりで復び簽軍するのは長策でないとして聴さなかった。癸丑、契丹の余党の富色克らに、もし自新できれば並びにその罪を釈すが、もし富色克父子を執えて来る者があれば官賞を与えることを詔した。左副元帥赫舎哩志寧は復び宿州を取り、河南副統の富珠哩定方が陣で死んだ。乙夘、北京留守の完顔思敬を復び右副元帥とした。中都で蝗があり参知政事完顔守道に大興府の捕蝗官を按問させた。6月庚申朔、日食があった。刑部尚書の蘇保衡を参知政事とした。丙子、正隆の末年、済州路の逃回した軍士で中都の官軍に邀殺された者は官がこれを収葬することを詔した。己夘、近郊で稼を観た。甲申、太師尚書令の張浩が罷され宿直将軍の珠勒根呼雅克を横賜夏国使とした。7月庚戌、太白が昼見した。太子太師の宗憲を平章政事とし、孔総に衍聖公を襲封させた。8月丙寅、太白が経天した。庚午、詔して「祖宗の時、労効があっても未だ嘗て遷賞されない者は五品以上は奏聞し六品以下及び無職事者は尚書省が約量して升除せよ」とした。甲戌、参知政事完顔守道に契丹の余党を招撫させることを詔した。戊寅、契丹明安穆昆を罷めその戸を女直明安穆昆に分隷させることを詔し、諸官員で年老いた者は馬一二匹を存すことを許しそれ以外はみな括買して官に入れさせた。殿前都点検の唐古徳温に重九の出猟について「国朝の旧俗である、今扈従の軍は二千でも民を擾すことのないよう厳に約束すべきだ」と勅し、なお銭万貫を分賜した。乙酉、大房山に行き丁亥、睿陵で薦享し戊子、還宮した。癸巳、宿直将軍の布薩実訥埓を夏国生日使とした。9月丁酉、秋猟をし重九をもって北郊で天を拝した。丙午、翰林待制の劉仲誨らに車駕の経る所の州県を廉問させた。乙夘、還宮した。10月甲子、太廟で大享した。丙寅、許王府長史の伊喇塔富拉を高麗生日使とした。癸酉、冬猟をした。11月庚寅、太白が昼見・経天した。壬辰、還都した。戊申、仕官が輒く権要の門に入る者は追一官しなおその除を降し、請求して饋献があった者及びこれを受けた者は状を具えて奏裁することを詔した。庚戌、百官が上る尊号を許さないことを詔した。中都・平州及び饑荒の地並びに契丹の剽掠を経て妻子を質売した者があれば官がこれを収贖することを詔した。壬子、尚書左丞の翟永固が罷された。癸丑、金線段匹の貢を罷めた。甲寅、尚書右丞の赫舎哩良弼を左丞とし、吏部尚書の石琚を参知政事とした。12月丁丑、近郊で臘猟しその獲物を山陵に薦した。これより歳例とした。詔して流民で未だ復業せぬ者は限を増して招誘させた。己夘、参知政事の蘇保衡が軍より至り辛巳、尚書右丞とした。
大定四年(1164年)
- 正月丁亥朔、高麗・夏が使者を遣わし賀した。戊子、路・府・州の元日及び万春節の貢献を罷めた。上は侍臣に「秦王宗翰は国に功があったのに嗣が無いとはなぜか」と問うたがみな答えを知らなかった。上は「朕はかつて宗翰が西京にいた時、乞食する者千人を坑殺したと聞いた、これがその報いではないか」と言った。癸巳、百官が復び尊号を上るよう請うたが許さなかった。丁酉、安州の春水に行った。壬寅、安州に至ると大雪があり、詔して扈従の人が民家に舎る者は人ごとに一日銭百をその主に支給した。甲辰、元帥府が「宋は審議官の胡昉を遣わし尚書右僕射に書を致し議和を来請するも、その言が失信であることをもってこれを軍中に拘し書をもってこれに答えた」と言うと、書を上に進め上はこれを覧て「宋人が信を失ったことに使者の何の罪があろうか、当に即座に還らせよ、辺事は元帥府にはよろしくを従い措画させよ」と言った。乙巳、尚書省が「徐州民の曹珪は賊の江志を討ったがその子の弼もまた賊中にありともに殺した、法は二官の敘雑班に補うに当たる」と奏すると、上は奏した所を未だ当たらずとし進一官の正班用とした。辛亥、頭鵝を獲て使者を遣わし山陵に薦した。これより歳例とした。2月丁巳、安州の今年の賦役及び保塞県の御城・辺呉の二村の凡そ扈従の人が嘗てその家に止まった者もまた一年を復した。辛酉、高陽の北で猟をし庚午、還都した。庚辰、北京の粟価が踴貴していることをもって今年の課甲を免じることを詔した。3月丙戌朔、万春節に高麗・夏が使者を遣わし賀した。北京の歳課段匹を一年免じることを詔した。庚子、京師で地震があった。壬寅、百官が復び尊号を上るよう請うたが許さなかった。4月丁巳、平章政事完顔元宜が罷された。甲戌、宮女二十一人を出した。5月旱があった。癸夘、有司に冤獄を審らせることを勅した。宮中の音楽を禁じ毬塲の役夫を放った。乙巳、礼部尚書王競に北岳で雨を禱らせることを詔した。己酉、参知政事石琚らに北郊で望祭させ雨を禱らせた。士子の斡罕の余党富色克が誅に伏した。6月甲寅朔、日食があった。壬戌、尚書左丞の赫舎哩良弼が征南元帥府より至った。甲子、雨が足りたことをもって有司に嶽鎮海瀆を北郊で謝祭させた。己巳、東宮に幸し皇太子の疾を視た。庚午、初めて五嶽四瀆を祭る礼を定めた。辛未、近郊で稼を観た。庚辰、元帥府に「伐宋を請う軍一万五千を今、騎三千歩四千をもってこれに赴かせる」と詔し、陝西元帥府に入蜀の利害を議して聞かせることを詔した。7月壬辰、故衛王襄の妃及びその子の和尚が妖妄をもって誅に伏した。庚子、尚書左丞の赫舎哩良弼を平章政事とした。辛丑、大風雷雨で木を抜いた。8月甲寅朔、征南元帥府に「先に旧疆を収復することを請うたが秋の涼を候うことを乞い、今すでに秋涼している、復びいつを俟つのか」と詔した。戊午、参知政事の完顔守道を尚書左丞とし、大興尹の唐古安礼を参知政事とした。壬申、上は宰臣に「卿らの毎奏はみな常事だ、国を治め民を安んじ朝政の民に不便な事に及ぶことは未だない、このようであれば宰相の任は誰にでもできよう」と言った。己夘、大房山に行き辛巳、山陵に致祭した。9月癸未朔、還都した。乙酉、上は宰臣に「形勢の家の親識訴訟は請属をなし道達する官吏はしばしば法を屈して情に狥っている、一切これを禁止すべきだ」と言った。巳丑、上は宰臣に「北京・懿州・臨潢等路はかつて契丹の寇掠を経て平・薊二州は近ごろ復び蝗旱があり百姓は食に艱み、父母兄弟が相い保つことができず多く冐鬻して奴となっている。朕は甚だこれを憫れむ、速やかに使者を遣わし実数を閲し内庫の物を出してこれを贖え」と言った。乙未、鷹房に幸し主者が鷹隼を内省の堂上に置いたのを見て、上は「これは宰相の庁事だ、どうして鷹隼を置く処であろうか」と怒りその人を痛く責め他所に置き換えさせた。己亥、宿直将軍の烏哩雅を夏国生日使とし、辛亥、太子少詹事の烏庫哩薩哈を高麗生日使とした。10月癸亥朔、密雲県で猟をし丙寅、還都した。己夘、泰寧軍節度使の張弘信ら二十四人に路を分けて諸路の物力を通検させることを命じた。11月乙酉、征南都統の図克坦克寧は宋兵を敗り楚州を取った。己丑、子の永功を鄭王に封じ、辛夘、冬猟した。乙未、詔して師を進めて宋を伐たせた。戊戌、河間府に次った。辛丑、尚書省が火事となった。甲辰、清州に次った。閏月壬子朔、還都した。12月丁亥、尚書省は都統高景山が商州を取ったと奏した。己丑、近郊で臘猟した。辛夘、太白が昼見・経天した。この年は大いに年あり、死罪を断ずる者十七人。
大定五年(1165年)
- 正月辛亥朔、高麗・夏が使者を遣わし賀した。乙夘、泰州・臨潢の接境に辺堡七十を設け兵万三千を駐めることを詔した。己未、宋の通問使魏杞らが国書をもって来た。その書には大と称さず姪と称し、宋皇帝は名を称し再拝して書を叔大金皇帝に奉じ、歳幣は二十万とされた。辛未、中外に詔し復び有司に旱蝗水溢の処には租賦を免じさせた。癸酉、元帥府の諸新旧軍で六万人を留戍させ、余は放って還らせ宋国の歳幣は悉く諸軍に賞することを命じた。2月壬午、左副都点検の完顔仲らを宋報問使とした。壬寅、納粟補官の令を罷めた。3月戊申、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。壬申、群臣は応天興祚仁徳聖孝皇帝と尊号を上げ中外に詔した。4月癸夘、西京留守の寿王京が謀反し獄が成ったが特に死を免じ杖してこれを除名し嵐州に安置した。乙巳、右副元帥完顔思敬が罷された。丁未、右丞相都元帥布薩忠義が軍より還った。5月壬子、左副元帥赫舎哩志寧は召しを受けて入見した。丁巳、布薩忠義を尚書左丞相とし、赫舎哩志寧を平章政事として軍に還らせた。乙丑、平章政事の宗憲を尚書右丞相とした。癸酉、山東路都統府を罷めその軍をそれぞれ総管府に隷させた。6月甲辰、大安殿の柱に芝が生えた。丙午、京師で地震があり毛の雨があった。7月戊申朔、京師が復び震い、陝西都統府を罷めて統軍司を復し京兆・陝西元帥府を河中に徙した。8月己夘、前宿州防禦使の烏淩阿薩喇が宋の李世輔と交通したことに誅に伏した。癸巳、宋・夏は使者を遣わし尊号を賀した。9月丁未朔、吏部尚書の高衎らを賀宋生日使とした。戊申、秋猟した。庚戌、宿直将軍の珠格芬徹を夏国生日使とした。甲戌、還都した。10月丁丑朔、地震があった。辛巳、大宗正丞の璋を高麗生日使とした。乙未、冬猟した。辛丑、還都した。11月丙午朔、上は宰臣に「朕は位にあること日浅く未だ徧く臣下の賢否を識ることができない、まったく卿らが公を尽くし舉薦するのを頼りとする、今、六品以下は殊に人材に乏しい、どうして朕の求賢の意に副えようか」と言った。癸丑、幸東宮した。戊午、右副都点検の烏庫哩尼瑪哈を賀宋正旦使とし、癸亥、諸路の通検地土等第税法を立てた。癸酉、大霧で昼が晦かった。12月己丑、近郊で猟をし高麗が使者を遣わし尊号を賀した。
大定六年(1166年)
- 正月丙午朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。庚午、有司に宮中の張設は塗金の飾を用いないよう勅した。2月丁亥、尚書左丞相兼都元帥沂国公の布薩忠義が薨じた。3月壬寅、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。甲寅、上は西京に行った。庚申、帰化州に次り西京留守の唐古徳温が上謁した。戊辰、西京に至った。庚午、太祖廟に朝謁した。壬申、撃毬をし百姓に縦観させた。4月甲戌朔、月朔には屠宰を禁じることを詔した。戊戌、尚書右司郎中の伊喇道を横賜高麗使、宿直将軍の錫黙果囉を横賜夏国使とした。辛丑、太白が昼見した。5月戊申、華厳寺に幸して故遼諸帝の銅像を観、主僧にこれを謹視することを詔した。壬子、雲中大同県及び警巡院に一年復すことを詔した。壬戌、銀山に幸することを詔し扈従軍士に銭五万貫を賜り、苗稼を損なう者があれば並びに償わせた。6月辛丑、太白が昼見・経天した。丙戌、西京より発した。庚子、銀山で猟をした。7月辛酉、三义口に次った。8月辛未朔、涼陘に次った。庚辰、望雲の南山で猟をした。9月辛丑朔、西京より至った。丁未、戸部尚書の魏子平を賀宋生日使とした。辛亥、翰林待制の伊喇熙載を夏国生日使とした。澤州刺史の劉徳裕らが官銭を盗用したことに誅に伏した。壬子、太白が昼見した。癸丑、尚書右丞相の宗憲が薨じた。丙辰、太白が昼見・経天した。10月己夘、尚書兵部侍郎の伊喇諳達を高麗生日使とした。甲申、太廟で朝享し雄・莫等州の今年の租を免じた。壬辰、太白が昼見・経天した。丁酉、安粛州に行き冬猟した。11月丙午、還都した。癸丑、右副都点検の烏庫哩元忠を賀宋正旦使とし、上は宰臣に「朝官はよろしくその人を選ぶことを慎むべきだ、これで衆を激励できよう、もし当たらなければ覬覦の心を啓くことになる、卿らは必ず人才の優劣を知っている、実才を舉げて用いよ」と言った。庚申、太白が昼見・経天した。丁夘、参知政事の石琚が母の憂により罷された。12月甲戌、有司に毎月朔望及び上七日には刑名を奏さないことを詔した。戊子、太白が昼見・経天した。甲午、泰州の民の和卓が謀反し誅に伏した。丙申、平章政事の赫舎哩良弼を尚書右丞相とし、赫舎哩志寧を樞密使とした。
大定七年(1167年)
- 正月庚子朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。辛亥、石琚を参知政事に起復した。壬子、衮冕を服して大安殿に御し尊号冊宝を受けた。癸丑、大赦した。庚申、元帥左監軍の図克坦喀齊喀を樞密副使とした。2月庚寅、尚書右丞蘇保衡が薨じた。丙申、参知政事の石琚を尚書右丞とした。3月己亥朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。4月戊辰朔、日食があった。壬辰、御史大夫の李石を司徒とし大夫は故のごとくとした。5月丙午、大興府の獄が空いたことに詔して銭三百貫を賜り宴楽の用に充てこれを労った。甲寅、北京留守の諾延温都烏逹を参知政事とした。6月癸酉、地衣に龍文を用いることを命じ、これを罷めた。7月戊申、金線を服することを用いることを禁じその織り売る者はみな罪に抵した。丙辰、東宮に幸した。己未、東宮に幸し皇太子の疾を視た。閏月丁夘、近郊で稼を観た。戊辰、越王永中を進封し許王・鄭王永功を封じ隋玉に永成を封じて瀋王とした。甲戌、詔して秘書監の伊喇子敬を遣わし北辺を経略させた。戊子、幸東宮した。己夘、慶雲が日を環った。壬午、近郊で稼を観た。戊子、北郊で稼を観た。8月辛亥、慶雲が日を環った。癸丑、尚書右丞相監修国史の赫舎哩良弼が太宗実録を進め上は立ってこれを受けた。己未、大房山に行き壬戌、睿陵に致祭した。9月乙丑朔、還宮した。己巳、右三部検法官の韓賛は蝗を捕えることで賂を受けたことに除名され、吏人はただ贓罪を犯した場合は赦にあっても特旨がなければ叙用しないことを詔した。勧農使の富察索囉らを賀宋生日使とした。辛未、参知政事の唐古安礼が罷された。乙亥、宿直将軍の唐古呼嚕を夏国生日使とした。庚辰、地震があった。辛巳、都水監の李衛国を高麗生日使とした。乙酉、秋猟した。庚寅、保州に次り起居注の王天祺に修めさせ経過する州県の官を察訪させた。10月乙未朔、上は侍臣に「近ごろ聞くに朕の幸する所の郡邑ではかつて寝堂宇に宴したことについて皆後に避けているという。これは甚だ道理でない、旧の居止のようにするよう宣諭せよ」と言った。戊申、還都した。丁巳、上は宰臣に「海陵は人材の優劣を弁えず、ひとえに己の欲に狥って多く升擢した。朕が即位して以来これを戒めとし、ただ実才を取って用いてきた。近ごろ聞くに蠡州同知の伊喇延寿が官にあって汚濫している、その出身を尋ねれば正隆の時の鷹房子であるという、鷹房の厨人の類が城を典り民を牧してよいだろうか。今より局分がこのようなら民に臨む職任を授けるべきでない」と言い、御史中丞の孟浩を参知政事とした。この日、参知政事の諾延温都烏達が薨じた。辛酉、有司に東宮の涼楼の前に殿位を増建することを勅したが、孟浩は「皇太子は儲貳とはいえよろしく倹徳を示すべきで、至尊の宮室と相い侔しくあるべきではない」と諫めたためこれを罷めた。11月乙丑朔、上は宰臣に「県令は多くその人に非ず、吏部に善悪を察させ明らかに黜陟を加えよ」と言った。辛未、河間尹の図克坦克寧らを賀宋正旦使とした。壬申、太白が昼見した。丁丑、歳星が昼見した。丁亥、樞密副使の図克坦喀齊喀が罷された。12月戊戌、東京留守の図克坦喀齊喀・北京留守の完顔黙音・肇州防禦使の富察通が朝辞し、通に金帯を賜り「卿は才用があるといえど心に詐が多い、朕の左右には忠実な人が必要だ、故に卿に外を補うよう命じる、卿に金帯を賜るのはその服労の久しきに答えるためだ」と諭した。また左宣徽使の敬嗣暉を顧みて「卿のような者は才が無いとは言えないが欠く所は純実だけだ」と言った。甲辰、北京留守の完顔思敬を平章政事とした。この年、死囚を断ずる者二十人。
大定八年(1168年)
- 正月甲子朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。乙丑、上は宰臣に「朕は天下を治めるにあたって卿らと共にしている、事に不可があればそれぞれ面陳してもって朕の逮ばぬところを輔けよ、慎んで阿順・取容するな。卿らは位を公相に致し、正しく道を行い名を揚げる時であるにも関わらず、もし偸安自便すれば今日の幸いといえど後世これをどう見るか」と言い、群臣はみな万歳を称した。辛未、秘書監の伊喇子敬らに「昔唐虞の時いまだ華飾はなく、漢はただ孝文だけが純倹を務めた。朕は宮室について過度を恐れるばかりで、もし興修があれば宮人の歳費を損してこれに充て今も復び営建していない。宴飲の事の如きは近くはただ太子の生日と歳元に酒を嘗めるだけで、往時もまた止まり上元中秋に飲むこともいまだ醉うことがない。仏法に至ってはことに未だ信じない、梁の武帝は同泰寺の奴となり遼の道宗は民戸を寺僧に賜り更に三公の官を加えた。その惑いは深い」と言った。庚辰、皇太子冊礼を行った。2月甲午朔、子が改嫁した母のために三年の喪服を服することを制した。上は左宣徽使の敬嗣暉に「凡そ人臣となるものは上は君の恩を要め下は民の誉れを干めようとすれば必ず忠節を虧く、卿はこれを戒めよ」と諭した。3月癸亥朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。己巳、職官の子を補令史とすることを命じた。丁丑、護衛親軍百戸・五十戸で非直日は刀を帯びて宮に入ってはならないことを命じた。己丑、太白が昼見した。4月丙午、詔して「馬は軍旅に用いる所、牛は農耕の資である。殺牛を禁じるならば馬もどうして異なろうか。今よりこれを禁じよ」とした。戊申、常武殿で撃毬すると司天の馬貴中が「陛下は天下の主であり社稷の重きに繋わる。また春秋が高いのに囲猟撃毬は危事であります、まさに悉くこれを罷めるべきです」と諫めたが上は「朕は武を習わせているのだ」と言った。5月甲子、北望淀で大震風雨雹があり広さ十里・長さ六十里に及んだため、戸工両部に今より宮中の飾に黄金を用いないよう詔した。乙丑、上は涼陘に行った。丁夘、歳星が昼見した。庚寅、旺国崖を静寧山、和爾和東川を金蓮川と改めた。6月、河が李固渡で決し水は曹州に入った。7月甲子、群牧馬を盗む者は死とし告げる者に銭三百貫を給うことを制した。戊辰、上は平章政事完顔思敬らに「朕は賢士を得ることを寤寐に忘れない、今より朝臣は外に出ればすぐ外任職官の廉能な者及び草莱の士でよく助治できる者を体訪し姓名を具えて聞かせよ」と言った。甲戌、秋猟した。己夘、三义口に次り上は点検司に「道に沿う禾稼はたいへん良い、その扈従の人が少しでも蹂躙すれば汝の罪とする」と諭した。8月乙夘、涼陘より至った。9月辛酉、上は尚書右丞石琚・参政孟浩に「聞くに蔚州で地蕈を採る役夫は数百千人だという、朕が用いる所は幾ばくもないのにこれほど擾動するとは。今より差役は御前と称する者はすべて禀奏を須ち仍って冊に附せよ」と諭した。癸亥、右宣徽使の伊喇錫勒塔干らを賀宋生日使とした。己巳、引進使の高希甫を夏国生日使とした。庚午、東宮に幸した。癸酉、上は宰臣に「卿らが人材を挙用するとき、凡そ己の知る所であれば必ず他人に舉奏させる、朕は甚だこれを喜ばない、もし果たして賢であれば何を親疎の避忌としようか」と諭し、戸部尚書の魏子平を参知政事とした。辛巳、上は御史大夫の李石に「台憲は固よりある、しかし内外百司にどうして人がいないと言えようか、ただ卿らが人の罪を劾するのを見るばかりで善を挙げるのを聞かない。今より監察御史に善悪を分けて刺挙させ聞かせるべきだ」と言った。上はかつて左衛将軍の大磐に良弓を訪ねさせたが磐は多く自ら取り、護衛の羅索がこれを告げたため上は点検司にこれを鞫させた。磐の妹は宝林で内侍の僧児にこれを言わせ寳林はこれを上聞し、僧児は杖百とし磐は隴州防禦使に出された。10月己丑朔、官吏の貪墨を戒諭することをもって中外に詔した。乙未、涿州刺史に山陵の提点を兼ねさせ毎に朔望に致祭し朔は素、望は肉を用いさせ、なお明年正月を首とし功臣を太祖廟に図画することを命じ未だ碑を立てない者はこれを立てさせた。翰林待制の靖を高麗生日使とした。上は宰臣に「海陵の時、起居注を修めても直臣を任じなかったため書く所は多く実ではなかった、実を訪求しこれを詳らかに録すべきだ」と言うと、参政の孟浩は「良史の直筆、君の挙は必ず書す、古来帝王が自ら史を観ないのはまさにこの意にある」と進言した。辛亥、復州の歳貢の鹿筋を罷めることを詔した。11月乙丑、東宮に幸し、同簽大宗正事の博克托らを賀宋正旦使とした。12月戊子朔、武定軍節度使の伊喇安らを遣わし準布を招諭した。
大定九年(1169年)
- 正月戊午朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。辛酉、上は宣徽使の敬嗣暉・秘書監の伊喇子敬と古今の事を論じ「亡遼は日に食羊三百を屠っていたが、どうして尽く用いられようか、ただ生を傷るのみだ。朕は至尊にあってもよく食すたびに貧民の飢餒を思う、猶己にあるようだ。彼は身をもって悪をなしながら口で福を祈ってどれほどの益があろうか、海陵が張仲軻を諫議大夫としたようであれば、どうして忠言を聞けようか。朕は大臣と一事を論議して正でなければ言わない、卿らも正をもって対せねば人臣の道と言えない」と言った。庚午、諸州県の和糴で百姓に抑配してはならないことを詔した。戊寅、契丹の愛実拉らが謀叛し誅に伏した。丙戌、漢人・渤海人の兄弟の妻が服闋して禮をもって続婚することを許した。2月庚寅、妄りに辺関の兵馬を言う者を徒二年に処すことを制した。丙申、漢の二燕王を城東に改葬することを詔した。庚子、中都等路の水災による免税を中外に詔し、また曹・単の二州が水害が甚だしいことに一年の給復を与えた。甲寅、女直人と諸色人の公事の相関わるものはただ女直の理をもって問することを詔した。3月丁巳朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丁夘、尚書省が定めた網捕走獣法はあるいは徒に至るものだったが、上は「禽獣の故をもって民を徒に抵すのはこれ禽獣を重んじて民命を軽んじることになる、これがどうして朕の意であろうか、今より犯す者があれば杖して釈せ」とした。御史中丞の伊喇道に山東河南を廉問させることを詔した。辛未、民間で銷金と称することを禁じ条理内に旧よりあるものは明金字に改めさせた。辛巳、大名路の諸明安民戸が食に艱しいことをもって使者を遣わし倉廩を発し減価してこれを出させた。4月己丑、上は宰臣に「朕が観るに在位の臣は初めて仕えるとき声誉を競って争い爵位を取っている、すでに顕達すれば黙に狥い苟且に容れて自安の計をなす、朕は甚だこれを取らない、よろしく百官に宣諭し朕の意を知らしめよ」と言った。癸巳、翰林修撰の富察烏琿・監察御史の完顔和碩を遣わし河北西路・大名・河南・山東等路に分詣させ明安穆昆の農を勧めさせた。5月丙辰朔、符宝郎の図克坦懐貞を横賜高麗使、宿直将軍の完顔賽音を横賜夏国使とした。戊辰、尚書省が越王永中・隋王永功の二府に興造があり役夫を発していると奏すると、上は「朕は宮中の竹に枯瘁の者があるのを見て更植させたいと思ったが、民を労することを恐れて止めた。二王府はそれぞれ引従人力があり奴婢も甚だ多い、どうして復び百姓を役す必要があろうか、爾らはただ例をもってこれを請うだけだ。海陵の横役は無度であるが、これをすべて例としてよいだろうか。今より都にある浮役で久しく例となったものは旧に従うが、余はすべて官が傭直を給え、重い者は奏聞せよ」と言った。6月庚寅、冀州の張和らが反し誅に伏した。戊戌、久旱をもって宮中に扇の使用をやめさせ、庚子、雨があった。7月乙夘朔、東北路の採珠を罷めた。壬申、近郊で稼を観た。8月甲申朔、有司が日食を奏したが雨で見えなかったため伐鼓用幣を常礼のようにした。9月甲寅朔、刑部尚書の高徳基らを賀宋生日使、宿直将軍の布薩守中を夏国生日使、提点司天台の馬貴中を高麗生日使とし、皇太子の月料の歳給銭五万貫を罷めた。上は台臣に「近ごろ聞くに朝官の内に中官の物を攬って貨利を規る者がいるという、汝らはなぜ言わないのか」と言うとみな「知りません」と答えた。上は「朕はなお知っている、汝は知らないことがあろうか、朕がもしこれを挙行すれば汝らは何に用いられよう」と言った。壬戌、秋猟した。10月丁亥、還都した。辛丑、尚書右丞相の赫舎哩良弼を左丞相とし、樞密使の赫舎哩志寧を右丞相とし、宗廟の祭は鹿を牛に代えることを詔して令とした。丙午、太廟で大享した。辛亥、平章政事の完顔思敬を樞密使とした。11月己未、尚書右丞の完顔守道を平章政事とし、右丞の石琚を左丞とし、参知政事の孟浩を右丞とした。庚申、東宮に幸した。辛酉、京兆尹の毅らを賀宋正旦使とした。壬戌、冬猟し丙子、還都した。12月丙戌、臨潢・泰州・山東東路・河北東路の諸明安民を賑すことを詔した。東京留守の図克坦喀齊喀を平章政事とした。丁酉、太白が昼見した。辛丑、近郊で猟をした。丙午、職官が公罪を犯して官にあって承伏した者は去官しても猶論ずることを制した。
大定十年(1170年)
- 正月壬子朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。甲子、宮中で元宵に張灯をしないことを命じた。甲戌、司徒御史大夫の李石を太尉尚書令とした。2月甲午、安化軍節度使の図克坦子温・副使の老君努が贓罪をもって誅された。戊申、上は近臣に「護衛以後はみな治民の官である、これに読書を教えさせよ」と言った。3月壬子朔、万春節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丙辰、上はこれによって護衛の中で善射の者に宋の使者と射弓宴で射させたが、宋の使者は五十のうち五十を中てたのに押宴した者はわずか七を中てただけだった。左右将軍に「護衛は十年務めて出れば五品の職官になり毎三日に上直するがこれもまた役は軽い、ただ飽食安卧させるためだけでよいのか、弓矢を習わなければどう用いられるか」と言った。戊午、河南統軍使の宗叙を参知政事とした。庚午、上は参政宗叙に「卿は昨、河南統軍のとき黄河の堤埽の利害を言い甚だ朕の意に合った。朕は毎に百姓の差調で官吏がしばしば姦弊をなし早くに計料しないため臨期には星火のように率斂されその費は倍蓰し害はことに大きいと念っていた。卿はすでに朝政に参じているのだから、みなよろしく弊を革め利を択んでこれを行うべきだ」と言い、また左丞石琚に「女直人はただ達要に居して閭閻の疾苦を知らない、汝らは丞簿より民間の何事も知らぬことがなかろう、凡そ利害があればよろしく悉く敷陳せよ」と諭した。4月丁酉、命婦が姦を犯した場合に夫の廕を用いず子をもって封じられた者はこの法に拘わらぬことを制した。5月乙夘、柳河川に行った。閏月庚辰、夏国の任得敬がその主李仁孝を脅してその国を中分することを表で請わせたため、上は宰臣の李石に問うたところ石らは事は彼国に係わりこれを許すに如くはないとしたが、上は「彼は権臣に劫かされているだけだ」と言い許さず併せてその貢物を却けた。7月壬午、秋猟し戊戌、囲場の役夫を放った。扈従の糧食は並びに官給とすることを詔した。乙夘、扈従人が畜牧を縦にして禾稼を蹂躙する者は杖しなおその値を償わせることを勅した。8月己未、柳河川より至った。壬申、参知政事の宗叙を北巡に遣わした。9月庚辰、尚書左丞相の赫舎哩良弼は丁憂起復のまま故のごとくとした。壬午、簽書樞密院事の伊喇子敬を賀宋生日使とした。庚寅、戸部即中の瓜爾佳阿里布を夏国生日使とした。10月己酉、大宗正丞の堅を高麗生日使とした。甲寅、覇州に行き冬猟した。乙丑、上は大臣に「近ごろ巡猟によって固安県令の高昌裔が不職であることを聞いた、すでにこれを罷めるよう命じた。覇州司候の成奉先は職を奉じ謹恪であった、一階を進め固安令に除するがよい」と言った。辛未、上は宰臣に「朕は凡そ事を論じるのに未だその利害を深く究めることができないことがある、卿らはよろしく心を悉くして論列すべきで面従して退いて後言することがあってはならない」と言った。11月辛巳、太廟の物を盗んだ者は宮中の物を盗んだ者と同罪と論じることを制した。甲申、上は東宮に幸し丁亥、太子詹事の富察富色克らを賀宋正旦使とした。癸巳、夏国は任得敬を誅したことをもって使者を遣わし謝したため詔してこれを慰諭した。12月丙寅、上は宰臣に「近ごろ体中がすぐれず朝事に妨げがあった、今、上る所の奏事を観るとみな条格に依っているだけで殊に国を利する一事もない、もし一朝一事を行い歳計に余りがあれば利は溥いであろう、朕は深宮に居してどうしてことごとく外事を知れようか、卿らはことに注意すべきだ」と言った。
大定十一年(1171年)
- 正月丙子朔、宋・夏が使者を遣わし賀した。丁丑、子の永升を徐王、永蹈を滕王、永済を薛王に封じた。壬午、職官で年七十以上で致仕する者は官品によらず並びに俸禄の半分を給うことを詔した。丙申、南京屯田の明安で水災を被った者を賑すことを命じた。戊戌、尚書省は汾陽軍節度使副の牛信昌が生日に饋献を受けたことに官を奪う法に当たると奏したが、上は「朝廷が事を行い自ら正さなければどうして天下を正せようか、尚書省樞密院の生日節辰の饋献も少なくないのに、これは問わず小官の饋献だけ按劾を加えるのは天下を正す道と言えるか、今よりは宰執樞密の饋献もまた罷めよ」と言い、上は宰臣に「往歳、清暑した山西の近路の禾稼は甚だ広かったが、ほとんど畜牧の地が無かった、そこで五里外でようやく耕墾できると命じたが、今聞くに民はみな他所に去っているという、甚だ矜憫すべきだ、その命は依旧耕種させよ、事にこのような類があれば卿らはすぐ朕に告げるべきだ」と言った。3月己亥朔、万春節に宋・夏が使者を遣わし賀した。辛巳、天水郡公の旅襯を一品礼をもって鞏洛の原に葬ることを有司に命じた。4月丁未、帰徳府民の臧安兒が謀反し誅に伏した。大理卿の李昌図は廉問により真定尹の図克坦貞・咸平尹の舒穆嚕阿瑪拉が贓を受けたことを実として得ながらすぐに黜罷しなかったことに杖四十とされた。癸亥、参知政事の魏子平が罷された。高麗国王の晛の弟・皓がその主を廃して自立し譲国と詐称して表をもって使者を遣わし来上した。5月辛夘、詔して吏部侍郎の靖を遣わし高麗に故を問わせた。癸巳、南京留守の伊喇成を樞密副使とした。6月己酉、詔して「諸路の常貢の数の内、同州沙苑の羊は急用でないのにただ民を労するだけだ、今よりこれを罷めよ、朕は深宮に居して民を労する事をどうしてすべて知れようか、まさに具えて聞かせよ」と言った。戊午、近郊で稼を観た。甲子、平章政事の図克坦喀齊喀が薨じた。7月甲申、参知政事の宗叙が薨じた。8月癸夘朔、太白が昼見した。朝臣に「朕はかつて汝らに国家の利便・治体の遺闕をみな直言できると諭した、外路の官民もまた事を言うことがあるだろうに、汝らは終始一言もない、凡そ政事の行う所どうしてすべて当たろうか、今より得失を直言せよ、隠すことなかれ」と詔した。乙巳、上は宰臣に「随朝の官は自ら一考を歴れば当に某職を得べし、両考を歴れば当に某職を得べしと謂い、ただ因循碌碌を務めるばかりだ。今より外路官と内除の者はその公勤を察して升用し、ただ苟簡に事するだけなら任満を須たず本品をもって出すべきだ、賞罰が明らかでなければどうして勧勉できようか」と言った。庚戌、詔して「斡罕に被掠された女直及び諸色人で未だ刷放を経ていない者は官がこれを贖放し隠匿する者は違制論とする、その年幼で称説住貫できない者は便に従って住坐させよ」とした。上は宰臣に「五品以下の闕員は甚だ多いが人を得るのが難しい、三品以上は朕がこれを知っているが五品以下は知れない、卿らは曽って一言の挙げる者もない、久安の計を画し百姓の利を興そうと思っても良い輔佐が無ければ行う所はみな尋常の事となろう、日々視朝しても何の益があろうか、卿らはよろしくこれを勉思すべきだ」と言った。己巳、尚書刑部侍郎の烏凌阿天錫らを賀宋生日使、近侍局使の劉珫を夏国生日使とした。9月癸未、横山で猟をし庚寅、還都した。10月壬寅朔、左宣徽使の敬嗣暉を参知政事とした。甲寅、上は宰臣に「朕がすでに行った事を卿らは成命として復び改めるべきでないとし、ただ承順するのみで執奏することが一切ない。しかも卿らが凡そ奏する所は何時も従わなかったことがない。今より朕の旨がたとえ出されても審らかにしてから行うべきで未便なことがあればすぐ奏して改めよ、あるいは下位に尚書省の行う所が未だ便でないとの言があれば、これに従って改めよ、拒んで従わぬことなかれ」と言った。丙寅、尚書左丞相の赫舎哩良弼が睿宗実録を進めた。戊辰、上は宰臣に「衍慶宮に画かれた功臣はすでに命じて二十人に増したが、丞相韓企先のように本朝が興国してより憲章法度は多くその手より出て、大政を闗決するに至っては大臣とだけ謀議して外人に知られぬようにさせた、漢人宰相は前後比なく、もし顕彰すれば示勧するに足るであろう、なおこれを遺すことなかれ」と言った。11月丁丑、西南路招討使の宗寧らを賀宋正旦使とした。戊寅、東宮に幸し上は皇太子に「吾が子は儲貳の位にあり、朕は汝のために天下を措いた、今より復び経営の事はないだろう、汝はただ祖宗の純厚の風を忘れず徳を修めることを勤め道を明信賞罰を治めるをもって孝とせよ。昔、唐太宗はその子の高宗に『吾は高麗を伐って克てなかった、汝は継ぐことができる』と言ったが、このような事は朕は汝に遺すことはない。遼の海濱王が国人がその子を愛したのを嫉んでこれを殺したのはなぜだろうか、子が衆に愛されればいよいよ美事となる、これをもって滅びなかったためしがあろうか。唐太宗は有道の君でありながらその子の高宗に『爾は李勣に対して恩がない、今、事をもってこれを出すので私が死んだら即座に僕射を授けよ、彼は必ず死力を致すであろう』と言った、人君となる者はどうして偽をなす必要があろうか、父から恩を受けて子に報いを忘れる者などいようか。朕は臣下を御するにただ誠実をもってするのみだ」と言うと、群臣はみな万歳を称した。丙戌、太廟で朝享した。丁亥、圓丘に事あり大赦した。癸巳、群臣は応天興祚欽文広武仁徳聖孝皇帝と尊号を奉上した。乙未、中外に詔した。12月癸夘、冬猟し乙夘、還宮した。丙辰、参知政事の敬嗣暉が薨じた。辛酉、越王永中を趙王、隋王永功を曹王、瀋王永成を豳王、徐王永升を虞王、滕王永蹈を徐王、薛王永済を滕王に進封した。乙丑、趙王永中・曹王永功に俱に明安を授けなお永功に親しく政事を治めさせ習わせた。