金史卷五 本紀第五 海陵

廃帝海陵庶人、亮、字は元功、本諱は都古嚕訥(1122–1161年)。遼王宗幹の次子。皇統9年(1149年)に熙宗を弑して即位し天徳と改元。燕京・南京汴京への遷都を行い専制的な統治を敷いたが、正隆6年(1161年)宋への南征中に部下の完顔元宜らに弑逆された簒奪者。

年表(9件)

出自と生い立ち

  • 廃帝海陵庶人、亮、字は元功、本諱は都古嚕訥。遼王宗幹の次子で、母は大氏。天輔6年壬寅(1122年)に生まれた。天眷3年(1140年)、年18で宗室子として奉国上将軍となり梁王宗弼の軍前に赴き任使され行軍万戸となり、驃騎上将軍に遷った。皇統4年(1144年)、龍虎衛上将軍を加えられ中京留守となり光禄大夫に遷った。人となり僄急で猜忌が多く残忍に数を任せた。初め熙宗が太祖の嫡孫として位を嗣ぐと、亮は宗幹が太祖の長子であり自らもまた太祖の孫であることをもって覬覦の意を懐き、中京にあって専ら威を立て小人を厭伏させることに務めた。明安の蕭裕は傾険で敢決な人物で亮はこれを結納し、天下の事を論じるたびに海陵に大事を挙げることを勧めた(詳細は裕の伝にある)。皇統7年(1147年)5月、召されて同判大宗正事となり特進を加えられ、11月、尚書右丞を拝した。権柄を務め擥り、その腹心を省台の要職に用い、蕭裕を引いて兵部侍郎とした。ある日、召対に因り太祖創業の艱難に語が及ぶと亮は嗚咽し流涕したため熙宗はこれを忠と思った。8年6月、平章政事を拝し、11月、右丞相を拝した。9年正月、都元帥を兼ねた。熙宗は小底の大興国に亮の生日の賜を送らせたが、悼后(后)もまた礼物を附して賜ったため熙宗は不悦で興国を杖百とし賜物を追い、海陵はこれより自ら安んじなかった。3月、太保領三省事を拝し、人の誉れを邀求することがますます益し勢望のある者の子孫を引いてその歓心を結んだ。4月、学士の張鈞が草詔で旨に忤い死ぬと、熙宗が誰にこれを作らせたか問い、左丞相の宗賢が「太保が実にそうさせた」と答えたため熙宗は不悦で領行台尚書省事に出させた。中京を過ぎ蕭裕と約を定めて去った。良郷に至って召し還された時、海陵は召還の意を測れず大いに恐れたが、至るとまた平章政事となり、これより危迫はますます増した。熙宗はかつて事をもって左丞の唐古辯及び右丞相の秉徳を杖したことがあり、辯は大理卿の烏達と廃立を謀ったが烏達がまずこの謀を海陵に告げた。後日、海陵は辯と語り廃立の事に及び「もし大事を挙げれば誰を立てるべきか」と問うと、辯は「胙王の常勝ではどうか」と言った。その次を問うと「鄧王の子の阿蘭ではどうか」と言った。亮は「阿蘭は属が疎い、どうして立てられよう」と言うと、辯は「公にはお心当たりがおありですか」と言い、海陵は「果たして已むを得なければ私を舎いて誰がいよう」と言った。これより旦夕に密謀した。護衛将軍の塔斯がこれを疑い悼后に告げ「辯らは公余に毎に潜かに聚まり語り合っている、私はこれを疑わしく思う」と言うと、后は熙宗に告げた。熙宗は怒り辯を召して「爾は亮と何を謀っているのか、我をどうしようというのか」と言い杖した。亮はこれによって常勝・阿蘭を忌み且つ塔斯を悪んだ。折しも河南の兵士孫進が皇弟按察大王を自称し、熙宗の弟にはただ常勝と扎拉がいるだけだったため、海陵はこれに乗じて常勝・扎拉・阿蘭・達蘭を搆え、熙宗は塔斯にこれを鞫させたが状無しとなった。海陵が「塔斯は実をもって鞫していない」と言うと、遂に俱に殺した。護衛十人長の布薩呼図はもと宗幹の恩を受け、図克坦額哷楚克は海陵の姻家で寝殿に給事し、時折夜に主者から符鑰を取って家に帰るのを常としていた。大興国はかつて李老僧を海陵に属して尚書省令史となしていたため、老僧に興国と結ばせて内応とさせた。興国もまた杖されたことで熙宗を怨んでおり、遂に亮と約を結んだ。12月丁巳、呼図額哷楚克が内直の日、この夜、興国は符鑰を取り門を啓いて海陵を納れ、秉徳・辯・烏達・図克坦貞・李老僧らとともに寝殿に至り熙宗を弑した。秉徳らは未だ帰する所を決めていなかったが、呼図が「始め儀は平章に立てられていた、今また何を疑うことがあろう」と言うと、遂に海陵を奉じて坐せしめみな拝して万歳を称した。熙宗が皇后を立てようとしていると偽って大臣を召し、遂に曹国王宗敏・左丞相宗賢を殺した。この日、秉徳を左丞相兼侍中左副元帥とし、辯を右丞相兼中書令とし、烏達を平章政事とし、呼図を左副点検とし、額哷楚克を右副点検とし、貞を左衛将軍とし、興国を広寧尹とした。そこで太師領三省事朂以下二十人が爵を進め職を増しそれぞれに差があった。己未、大赦し皇統9年を天徳元年(1149年)と改めた。参知政事の蕭肄が除名され鎮南統軍の博済を尚書左丞とした。左丞相秉徳・右丞相辯・平章政事烏達・広寧尹興国・点検呼図額哷楚克・左衛将軍貞・尚書省令史老僧・辯の父の刑部尚書阿里らに銭絹馬羊にそれぞれ差をつけて賜った。甲子、太祖廟に誓い秉徳・辯・烏達・呼図額哷楚克・興国の六人を召して誓劵を賜った。丙寅、燕京路都転運使の劉麟を参知政事とした。癸酉、太傅領三省事の蕭仲恭・尚書右丞の稟が罷され行台尚書左丞の温都思忠を右丞とした。乙亥、皇考を太師憲古弘道文昭武烈章孝睿明皇帝と追諡し廟号を徳宗とし、その故居を興聖宮と名づけた。宋・高麗・夏の賀正旦使は中道より遣り還した。

天徳二年(1150年)

  • 正月辛巳、同知中京留守事の蕭裕を秘書監とした。癸巳、嫡母の図克坦氏・母の大氏をみな皇太后に尊し、図克坦氏の宮を永寿、大氏の宮を永寧とした。乙巳、官守を励まし農時を務め刑罰を慎み側陋を揚げ窮民を恤み財用を節し才実を審らかにする七事を中外に詔した。侍衛親軍歩軍都指揮使の完顔思恭らを遣わし廃立の事を宋・高麗・夏国に報諭した。左丞相兼左副元帥の秉徳に行台尚書省事を領させた。2月戊申朔、子の元寿を崇王に封じた。庚戌、前帝を東昬王に降した。天水郡公の孫女二人に月俸を給した。甲子、兵部尚書の完顔元宜らを賀宋生日使とした。戊辰、群臣は法天膺運睿武宣文大明聖孝皇帝と尊号を上げ中外に詔し、永寿・永寧両太后の父祖に官を贈ることにそれぞれ差をつけた。右丞相の唐古辯を左丞相とし、烏達を右丞相とした。3月丙戌、宋・高麗が使者を遣わし即位を賀した。弟の兖を司徒兼都元帥とし、天水郡王の玉帯を宋に帰すことを詔した。4月戊午、太傅領三省事の宗本・尚書左丞相の唐古辯・判大宗正府事の宗美を殺し、使者を遣わし領行台尚書省事の秉徳・東京留守の宗懿・北京留守の卞及び太宗の子孫七十余人、周宋国王宗翰の子孫三十余人、諸宗室五十余人を殺した。辛酉、尚書省訳史の蕭玉を礼部尚書とし、秘書監の蕭裕を尚書左丞司徒とし、兖に三省事を領させ王に封じ都元帥は故のごとくとし、右丞相の烏達を司徒左丞相兼侍中とし、平章政事の劉筈を尚書右丞相兼中書令とし、左丞の宗義・右丞の温都思忠を平章政事とし、参知政事の劉麟を尚書右丞とし、殿前左副点検の布薩呼図を殿前都点検とした。5月戊子、平章行台尚書省事右副元帥の大㚖を行台尚書右丞相とし元帥は故のごとくとした。壬辰、左副元帥の薩里罕を行台尚書左丞相とし元帥は故のごとくとした。6月丙午朔、高麗が使者を遣わし即位を賀した。甲子、太廟に初めて四神門及び四隅罘罳を設けた。7月己丑、司空左丞相兼侍中の烏達が罷され、平章政事の温都思忠を左丞相とし、尚書左丞の蕭裕を平章政事とし、右丞の劉麟を左丞とし、侍衛親軍歩軍都指揮使の完顔思恭を右丞とし、参知政事の張浩は丁憂起復のまま故のごとくとした。戊戌、夏国は使者を遣わし即位を賀した。8月戊申、司徒の兖を太尉として三省事を領し都元帥は故のごとくとし、礼部尚書の蕭裕を参知政事とした。9月甲午、貴妃図克坦氏を后に立てた。10月癸卯、太師領三省事の朂が致仕した。辛未、太皇太妃蕭氏及びその子の任王威赫を殺し、使者を遣わし行台左丞相左副元帥の薩里罕を汴で殺し、併せて平章政事の宗義・前工部尚書の穆里延・御史大夫の宗安を殺しみなその族を夷した。魏王威泰の孫の呼爾察が好んで修飾したこともまた族した。11月癸未、尚書左丞相の劉筈が罷され会寧牧の図克坦恭を平章政事とし、尚書左丞の劉麟・右丞の完顔思恭が罷され参知政事の張浩を尚書右丞とした。乙酉、行台尚書左丞の張通古を尚書左丞とした。丙戌、白虹が日を貫いた。丁亥、太后の旨を令旨と称することにした。戊子、十二事をもって官吏を戒約した。乙丑、庶官に次室二人を求めることを許し、百姓もまた妾を置くことを許した。12月癸卯朔、群臣が上る所の尊号を去ることを詔した。丙午、初めて衍聖公の襲封の俸格を定めた。所属百里外の外官の去参謁を禁じ百里内は往還三日を過ぎないこととした。癸丑、太祖射碑を赫舎哩部の中に立て上及び皇后は碑の下で致奠した。甲寅、野人が異香を来献したが却けた。乙卯、有司が慶雲が見えたと奏すると、上は「朕はいかなる徳をもってこれに当たろうか。今より瑞応をもって上聞するな。もし災異あればよろしく朕に諭し朕自ら警めよ」と言った。己未、行台尚書省を罷め都元帥府を枢密院に改め、詔して継絶法を改定した。右副元帥の大㚖を尚書右丞相兼中書令とし、参知行台尚書省事の張中孚を参知政事とし、都元帥の兖を枢密使とし太尉領三省事は故のごとくとし、元帥左監軍の昻を枢密副使とし、刑部尚書の趙資福を御史大夫とした。

天徳三年(1151年)

  • 正月癸酉朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。乙亥、参知政事の蕭玉は丁憂起復のまま故のごとくとした。癸未、立春に土牛を撃った。丁亥、初めて灯山を宮中に造った。戊子、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。甲午、初めて国子監を置いた。御史大夫の趙資福に「汝らは多く私情に従い未だ弾劾する所があると聞かない。朕は甚だ取らない。今より百官で不法な者があれば必ず舉劾し権貴を憚るな」と言った。乙未、上は出猟し宰相以下は近郊で辞したが上は馬を駐めて「朕は高爵厚禄を惜しまず汝らに任じている。近頃事が留滞していると聞くが、これは汝らが苟且に自安を図り民事を念じないからではないか。今より朕はその勤惰を察し賞罰とする、それぞれ勉めよ」と戒めた。丁酉、白虹が日を貫いた。2月丁巳、還宮した。3月庚寅、翰林学士の劉長言らを宋生日使とした。壬辰、詔して燕城を広げ宮室を建てた。己亥、侍臣に「昨、太子の生日に皇后が朕に一物を献じた、大いに珍異である、卿試みにこれを観よ」と言い、絳囊の中から出したのは田家の稼穡図であった。后の意は太子が深宮の中に生まれ民間の稼穡の艱難を知らないため、これをもって献じたもので、朕は甚だこれを賢とする」と言った。4月丙午、都を燕京に遷すことを詔した。辛酉、有司が燕城宮室の制度と営建の陰陽五姓の宜しきを図に上げると、海陵は「国家の吉凶は徳にあり地にはない。桀紂に居らせても占卜がよければ何の益があろう。堯舜に居らせれば占卜をどうして用いよう」と言った。丙寅、歳貢の鷹隼を罷めた。沂州の男子・呉真が法を犯し死に当たったが有司はその母が老病で侍る者が無いことをもって、官が与えて養済することを請いこれを令として著した。閏月辛未朔、尚書右丞の張浩に燕京の選を調させ、浩に私に狥うなと諭した。丙子、大官の常膳をただ魚肉のみを進めさせ旧の貢の鵝鴨等をことごとく罷めた。丁丑、皇統間の苑中の禽獣を罷めた。帰徳軍節度使の阿里布が官舍材木を撒して私第を構えたことに死を賜った。戊戌、朝官が疾を称して事を治めない者は尚書省令の監察御史が太医とともに診視し実なき者はこれを坐すことを詔した。5月壬子、宰相以下の官を戒敕することをもって中外に詔した。戊辰、宰臣は嬪御を益して嗣続を広めることを請うたが上は図克坦貞に命じて宰臣に「先に誅された党人の諸婦人の中に多く朕の中表の親がいる、これを宮中に納れたい」と言わせると、平章政事の蕭裕は不可としたが上は従わず宗本の子の蘇爾図、宗固の子の呼喇勒、和碩台・秉徳の弟の嘉哩らの妻を宮中に納れた。6月丙子、太府監の完顔富魯を殺した。宋は使者を遣わし山陵を祈請したが許さなかった。9月庚戌、燕京の役夫に帛人一匹を賜り、東京路兵馬都総管府判官の蕭子敏を高麗生日使、修起居注の蕭朋格を夏国生日使とした。10月己巳、蘭子山の明安の蕭拱を殺した。右副点検の富珠哩阿哈らを宋正旦使とした。11月癸亥、世襲万戸の官を罷めることを詔し、前後に賜姓した人にそれぞれ本姓を復させた。12月戊辰、寿寧県主蘇尼を杖した。癸酉、近郊で猟をし、乙酉、還宮した。この年、子の崇王元寿が薨じた。

天徳四年(1152年)

  • 正月丁酉朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。群臣が皇太子を立てることを請いこれに従った。戊戌、初めて東宮の官属を定め捕盗賞格を立てた。癸卯、太白が経天した。壬子、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。癸亥、世祖・太祖・太宗・徳宗の陵を朝謁した。甲子、還宮した。2月丁卯、子の光英を皇太子に立て中外に詔した。庚午、燕京に行った。昭義軍節度使の蕭仲宣の家奴がその主が誹謗を怨んでいると告げると、上は「仲宣の姪の達年鄂博は近頃誹謗をもって誅されたばかりだ、故に敢えて妄りに愬えたのだ」と言い告げた者を殺すよう命じた。達年鄂博とは蕭拱のことである。戊子、泰州に次った。3月丙申朔、刑部尚書の田秀頴らを宋生日使とした。4月丙寅朔、有司が今年河南北の選人はすべて中京に赴かせて銓注することを請いこれに従った。壬辰、上は泰州より涼陘に行った。5月丁酉、伊拉齊山で猟をした。甲寅、猟士に一羊を賜った。乙卯、臨潢府に次った。丁巳、太白が経天した。6月甲子朔、綿山に駐まった。戊寅、権超泰部明安の納延が誅に伏した。7月癸卯、崇義軍節度使の烏達の妻の唐古定格にその夫を格殺してこれを納れさせた。8月癸亥朔、托紐山で猟をした。甲戌、侍御史の博囉が鞫事の不実をもって杖された。丙子、達幹に次った。9月甲午、中京に次った。丙午、尚書右丞相の大㚖が罷された。太府少監の劉景を殺し、都水使者の完顔満丕を高麗生日使、吏部郎中の蕭中立を夏国生日使とした。10月壬戌朔、使者を遣わし太廟の神主を遷した。御史大夫の趙資福が罷された。甲申、太子詹事の張用直らを賀宋正旦使とした。太祖の長公主・烏嚕を殺し、その夫の平章政事の図克坦恭を杖して罷し、その侍婢の呼達を国夫人に封じた。恭の兄の定格が初め烏嚕を尚妻としていたが、定格が死ぬと恭が強くこれを娶ったが相能わず、また侍婢呼達と不協となり、呼達が后に幸されるとついに上に讒し故に殺され且つ恭は罷された。11月戊戌、咸平尹の李徳固を平章政事とした。辛丑、烏爾古徳哷勒部及び扶余路で珠を買い私に相い貿易することを禁じ両路の民に一年珠を採らせた。12月甲子、妾人の敲仙を中京市で斬った。辛未、汴京路都転運使の左瀛らを賀宋正旦使とした。庚寅、太尉領三省事枢密使の兖が薨じた。

貞元元年(1153年)

  • 正月辛卯朔、上は朝せず、有司に宋・高麗・夏・回紇の貢献を受けさせることを詔した。丙午、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。中京留守の高楨を御史大夫とした。2月庚申、上は中京より燕京に行った。3月辛亥、燕京に至り初めて法駕を備えた。甲寅、良家子百三十余人を選んで後宮に充てた。乙卯、遷都をもって中外に詔し貞元と改元し燕京を中都府とし大興と号し、汴京を南京とし、中京を北京とした。丙辰、司徒の図克坦恭を太保領三省事とし、平章政事の蕭俗を右丞相兼中書令とし、右丞の張浩・左丞の張通古を平章政事とし、参知政事の張中孚を左丞とし、蕭玉を右丞とし、平章政事の李徳固を司空とし、左宣徽使の劉萼を参知政事とした。枢密副使の昻を枢密使とし、工部尚書の布薩思恭を枢密副使とした。4月辛酉、右宣徽使の赫舎哩薩哈連らを宋賀生日使とした。辛未、唐古定格を特に貴妃に封じた。戊寅、皇太后の大氏が崩じた。5月辛卯、弟の西京留守博恰・西京兵馬の完顔穆喇幹・編修官の円福弩・通進伯特を殺した。博恰と善しであることに坐して殺した。乙卯、京城の隙地を朝官及び衛士に賜った。6月乙丑、安国軍節度使の耶律恕を参知政事とした。7月戊子朔、朝官の京城隙地に錢を徴すことにそれぞれ差をつけた。8月壬戌、司空の李徳固が薨じた。中都路で麞・兎を射ることを禁じた。戊寅、宮室を営建する工匠及び役夫に帛を賜った。9月丁亥朔、翰林待制の摩囉歓を夏国生日使、吏部郎中の幹克珊を高麗生日使とした。10月丁巳、良郷で猟をし料石岡神を霊応王に封じた。初め海陵はかつてこの祠を過ぎ杯珓を持って禱り「もし我に天命あるなら吉卜を得よ」と言いこれを投げると吉と出た。また禱り「果たして卜のようになれば他日また報がなければ爾の祠宇を毀せ」と言いこれを投げるとまた吉と出た、故にこれを封じた。戊午、還宮した。壬戌、有司が太后の園陵が未だ畢わらぬことをもって冬享及び祫祭の停止を言うとこれに従った。丙子、内外官の大功以上の喪を聞いた者は当日の假のみを給うが、父母の喪であれば三日の假を給うことを命じ令として著した。11月丙戌朔、定州が嘉禾を献じたが詔して今後復び進めないこととした。己丑、瑤池殿が成った。丙申、戸部尚書の蔡松年らを賀宋正旦使とした。戊戌、左丞相の諾延温都思忠が致仕した。庚戌、枢密使の昻を左丞相とし、枢密副使の布薩思恭を枢密使とした。12月太白が経天した。戊午、貴妃唐古定格の家奴の孫梅に特に進士及第を賜った。壬戌、簽書枢密院事の納蘇を枢密副使とした。辛未、納れた皇叔曹国王宗敏の妃阿蘭を昭妃に封じた。丙子、貴妃唐古定格が旧奴と姦したことに坐して死を賜った。閏月乙酉朔、護衛特黙格を殺した。癸巳、社稷の制度を定めた。太白が経天した。癸卯、太保領三省事の図克坦恭を太師領三省事故のごとくとし、西京路統軍の達蘭・西北路招討の蕭懐忠・臨潢府総管の馬和尚・烏爾古徳哷勒司招討の舎音らに北巡を命じた。

貞元二年(1154年)

  • 正月甲寅朔、上は不予で朝せず、宋・高麗・夏の使者を館に留めた。庚申、太白が経天した。尚書右丞相の蕭裕は前真定尹の蕭豊嘉努・前御史中丞の蕭珠展・博州同知の約索らと謀反し誅に伏し中外に詔した。己巳、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。2月甲申朔、平章政事の張浩を尚書右丞相兼中書令とした。甲午、尚書右丞の蕭玉を平章政事とし、前河南路統軍使の張暉を尚書右丞とし、西北路招討使の蕭海呼を枢密副使とした。3月戊辰、夏国は使者を遣わし遷都を賀した。丙戌、大興府及び都転運使司に幸し含桃を衍慶宮に薦した。5月癸丑朔、日食があり正殿を避け百官に治事を勅止した。己未、詔して今より毎月上七日は刑名を奏せず尚食は饌を進めても肉を進めなかった。丁卯、初めて交鈔庫を置き使副を設けた。丁丑、太原尹の図克坦額哷楚克が誅に伏し、その子の珠蘇拉に伝で骨を焚かせ水中に擲てさせた。7月庚申、初めて塩鈔香茶文引印造庫の使副を設けた。丙子、参知政事の耶律恕が罷された。8月丙午、左丞相の昻がその弟の婦の衣を去って杖したので、これに杖することを命じた。戊申、御史大夫の高楨を司空御史大夫のままとした。9月己未、常武殿で撃鞠し百姓に縦観させた。辛酉、吏部尚書の蕭賾を参知政事とした。癸亥、近郊で猟をした。丁卯、順州に次り太師領三省事の図克坦恭が薨じ、この夜還宮した。乙亥、復び近郊で猟をした。10月庚辰朔、広寧尹の韓王亨を殺した。庚寅、還宮した。庚子、致仕した左丞相の温都思忠を起こして太傅領三省事とし、刑部侍郎の白彦恭らを賀宋正旦使とした。11月戊辰、上は諸従姉妹をみな諸妃に分属し禁中に出入りさせ淫乱をなし、卧内に地衣を編く設け裸で逐い戯とした。この月、初めて恵民局を置いた。高麗が使者を遣わし賜生日を謝した。12月乙酉、太傅の温都思忠を太師領三省事故のごとくとし、平章政事の張通古を司徒平章政事故のごとくとした。

貞元三年(1155年)

  • 正月己酉朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。辛酉、判東京留守の大㚖を太傅領三省事とした。甲子、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。2月壬午、左丞相の昻を太尉樞密使とし、右丞相の張浩を左丞相兼侍中枢密使とし、布薩思恭を右丞相兼中書令とし、尚書左丞の張中孚が罷され右丞の張暉を平章政事とし、参知政事の劉萼を左丞とし、蕭賾を右丞とし、吏部尚書の蔡松年を参知政事とした。3月壬子、左丞相の張浩・平章政事の張暉が僧法宝に見えても毎に坐する下座から動かなかったことに大臣の体を失うとしてそれぞれ杖二十とし、僧法宝が妄りに自尊した罪で杖二百とした。乙卯、大房山の雲峰寺を山陵とすることを命じ行宮をその麓に建てた。庚午、左司郎中の李通を賀宋生日使とした。夏4月丁丑朔、昬霧四塞し日光が無いこと十七日に及んだ。5月丁未朔、日食があった。癸丑、南京の大内が火事となった。乙卯、判大宗正事の京らに上京に行かせ太祖・太宗の梓宮を奉じて還らせた。丙寅、大房山に行き山陵を営んだ。6月丙戌、宝昌門に登り角抵を観て百姓に縦観させた。乙未、右丞相の布薩思恭・大宗正丞の哈布爾に上京に行かせ山陵を奉遷させ且つ永寿宮皇太后を迎えさせた。7月癸丑、太白が昼見した。辛酉、大房山に行き営造の官の吏部尚書耶律安礼らを杖した。乙亥、還宮した。8月壬午、大房山に行き甲申、土を啓き役夫に人ごとに絹一疋を賜り、この日還宮した。甲午、平章政事の蕭玉を遣わし祖宗の梓宮を広寧で迎え祭らせた。乙未、教坊の人数を増置した。庚子、左宣徽使の敬嗣暉・同知宣徽事の烏居仁及び尚食官を杖した。9月戊申、平章政事の張暉は梓宮を宗州で迎え祭った。乙卯、上は宰臣及び左司官に「朝廷の事はことに慎密が肝要だ。昨、張中孚・趙慶に官を授けた除書がまだ届かないのにすでに知れ渡っていた、みな汝らが漏らしたのだ。敢えて復びこのようなことがあれば殺して赦さない」と言った。己未、大房山に行き庚申、還宮した。丙寅、殿前都点検の納哈塔椿年を参知政事とした。丁卯、上は梓宮及び皇太后を沙流河で迎え、左右に杖二束を持たせ太后の前に跪き「亮は不孝でながく温凊を失っている、願わくばこれを痛く笞ちたい」と言うと、太后はこれを掖起して「凡そ民に子があり家を克つ者は、なお愛される。ましてや私に子があってこのようであれば」と言い、杖を持つ者に叱して退かせた。庚午、猟をし自ら麞を射て梓宮に薦した。壬申、沙流河より至った。10月丙子、皇太后は中都に至り寿康宮に居した。戊寅、権りに昭聖皇后神主を延聖寺に奉安し梓宮を東郊で致奠し挙哀した。己卯、梓宮が中都に至り大安殿を丕承殿として安置した。壬午、省部諸司に便服で治事させ死刑を奏しないことを命じた。一月辛卯、丕承殿に告げた。乙未、菆宮に行き永寧皇太后を慈憲皇后と冊諡した。丁酉、大房山の行宮が成り磐寧と名づけた。戊戌、還宮した。己亥、翰林学士承旨の耶律帰一らを賀宋正旦使とした。11月乙巳朔、梓宮は丕承殿より発した。戊申、山陵の礼が成った。甲寅、内外の大小職官に一重遷を覃し、貞元4年(1156年)の租税は並びに放免し、軍士が久しく屯戌して替換されていない者は人ごとに絹三疋・銀三両を賜り、群臣は賀を称した。丙辰、泰和殿で百官に宴した。丁卯、神主を太廟に奉安し戊辰、群臣が賀を称した。辛未、近郊で猟をした。12月己丑、還宮し氷を薦した。乙未、上は寿康宮の太后に朝した。己亥、太傅領三省事の大㚖が薨じ、上は自ら臨んで哭き有司に廃務・禁楽を三日命じた。

正隆元年(1156年)

  • 正月癸卯朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。己酉、群臣が聖文神武皇帝と尊号を奉上した。上は9月より廃朝すること常に数ヶ月に及び急奏があれば左右司郎中を召し卧内で省みていたが、庚戌、初めて視朝した。戊午、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。乙丑、角抵の戯を観て中書門下省を罷めた。太師領三省事の温都思忠を尚書令とし、太尉枢密使の昻を太師右丞相とし、布薩思恭を太尉枢密使とし、左丞の劉萼・右丞の蕭賾が罷され、参知政事の蔡松年を尚書右丞・枢密副使とし、蕭懐忠が罷され吏部尚書の耶律安礼を枢密副使とし、平章政事の蕭玉を右丞相とし、平章政事の張暉が罷され平章政事の官を置かなくなった。2月癸酉朔、正隆と改元し大赦した。庚辰、宣華門に御し迎仏を観て諸寺の僧に絹五百疋・綵五十段・銀五百両を賜った。辛巳、内外諸司の印記を改定した。乙未、司徒の張通古が致仕した。庚子、山陵に謁えた。辛丑、還都した。3月壬寅朔、初めて職事官の朝参等格を定め兵衛を罷めた。庚申、左宣徽使の敬嗣暉らを賀宋生日使とした。4月、太尉枢密使の布薩思恭は父の憂に丁い起復のまま故のごとくとした。5月辛亥、修容の安氏の閤女御が妖に憑かれたとして舞躁して宮中を騒がせたため、これを殺すことを命じた。この月、正隆官制を頒行した。6月庚辰、天水郡公の趙桓が薨じた。丙戌、尚書右丞の蔡松年を左丞とし、枢密副使の耶律安礼を右丞とし、駙馬都尉の烏庫哩当堪を枢密副使とした。7月己酉、太保の昻に上京に行かせ始祖以下の梓宮を奉遷させた。8月丁丑、大房山に行き山陵を行視した。10月乙酉、始祖以下十帝を大房山に葬り丁酉、還宮した。閏月己亥朔、山陵の礼が成り群臣が賀を称した。甲辰、回鶻の使者揚珠烏埒古が来貢した。庚寅、右丞相の蕭玉・左丞の蔡松年・右丞の耶律安礼・御史中丞の馬諷らを杖した。11月己巳朔、右司郎中の梁銶らを賀宋正旦使とした。癸巳、二月八日の迎仏を禁じた。

正隆二年(1157年)

  • 正月戊辰朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。庚辰、太白が昼見した。癸未、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。庚寅、工部侍郎の韓錫を同知宣徽院事とし、錫が謝さなかったため杖百二十とし授かった官を奪った。2月辛丑、初めて太廟時享の牲牢の礼儀を定めた。癸卯、親王以下の封爵の等第を改定し局を置いて存亡誥身を追い取らせ、生存者は二品以上、死者は一品を参酌して削降し、公私の文書にただ王爵の字があるものはみな期限を立てて毀抹させ、墳墓の碑志であってもことごとくこれを発いて毀した。3月丙寅朔、高麗が使者を遣わし尊号を受けたことを賀した。4月戊戌、景宣皇帝を遼王に追降し、簽書宣徽院事の張喆を横賜高麗使、宣直将軍の温都斡罕を横賜夏国使とした。6月乙未、参知政事の納哈塔椿年が薨じ、礼部尚書の耶律守素らを賀宋生日使とした。8月癸卯、登聞院を置いた。甲寅、上京留守司を罷めた。9月乙丑、宿直将軍の布薩烏哷赫を夏国生日使とした。戊子、護駕軍を罷めて龍翔虎歩軍を置き、尚書省文資令史を外官に出した。この秋、中都・山東・河東で蝗があった。10月壬寅、会寧府の旧宮殿・諸大族の第宅及び儲慶寺を毀すことを命じ、その址を夷して耕種させた。丁未、古器を他境に売ることを禁じた。乙卯、初めて銅銭を鋳た。12月辛未、侍衛親軍副指揮使の高珠巴克らを賀宋正旦使とした。己亥、侍衛親軍都指揮使の赫舎哩良弼を参知政事とした。

正隆三年(1158年)

  • 正月壬戌朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丙寅、子の舒蘇卾博が死に太医副使の謝友正及びその乳母らを殺した。丁丑、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。己卯、右諫議大夫の楊伯雄を杖した。2月壬辰朔、都城及び京兆に初めて銭監を置いた。甲午、使者を遣わし随路の金銀銅鉄冶を検視した。3月辛酉朔、司天が日食を奏したが候っても見えなかったため今より日食に遇っても面奏せず頒告不要とした。辛巳、兵部尚書の蕭恭らを賀宋生日使とした。4月丙辰、樞密副使の烏庫哩当堪が罷され北京留守の張暉を樞密副使とした。6月壬辰、蝗が京師に入った。7月庚申、子の広陽を滕王に封じた。甲申、右丞相の蕭玉を司徒とし、尚書左丞の蔡松年を右丞相とし、右丞の耶律安礼を左丞とし、参知政事の赫舎哩良弼を右丞とし、左宣徽使の敬嗣暉・戸部尚書の李通を参知政事とした。9月己未、太白が経天した。甲子、滕王広陽が薨じた。庚午、宿直将軍の阿勒巴を夏国生日使とした。丁丑、教坊提点の高存福を高麗生日使とした。辛巳、中都屯軍の一明安を南京に遷し吏部尚書の李惇らを遣わし分地して安置した。10月戊戌、詔して尚書省の凡そ事理不当の者は登聞検院に詣で状を投じ院で類奏させ覧を訖てて御史台に付し理問することを許した。11月辛酉、工部尚書の蘇保衡らを賀宋正旦使とした。癸亥、有司に政に勤め民を安んじるよう詔した。癸未、尚書左丞の耶律安礼が罷され、参知政事の李通は憂制起復のまま故のごとくとし、左丞相の張浩・参知政事の敬嗣暉に南京の宮室の営建を詔した。12月乙卯、樞密副使の張暉を尚書左丞とし、致仕した帰徳尹の高昭和碩を起こして樞密副使とした。

正隆四年(1159年)

  • 正月丙辰朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。上は寿康宮の太后に朝した。丁巳、御史大夫の高楨が薨じた。庚申、私相越境法を更定しみな死をもって論じた。辛酉、鳳翔・唐・鄧・頴・蔡・鞏・洮・膠西諸榷塲を罷め塲を泗州に置いた。辛未、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。2月己丑、左宣徽使の許霖を御史大夫とした。丁未、中都城を修め通州で戦船を造り、宰臣に伐宋の事を諭し諸路の明安穆昆軍を調して年二十以上五十以下の者はみなこれを籍し、親が老いていても丁が多い場合であっても留侍を許さなかった。3月丙辰朔、兵部尚書の蕭恭を遣わし夏国の辺界を経画し、使者を分遣して諸道総管府に赴かせ兵器を督造した。4月辛丑、山東路の泉水を増し両営の兵士の廪給を括すことを命じた。庚戌、諸路の旧貯の軍器をすべて中都に致すことを詔した。この時ちょうど南京に宮室を建てており、また中都と四方で造られた軍器材用はみな民に賦され、箭翎一尺は千銭に至り、村落間ではしばしば牛を推して筋革に供し、烏鵲・狗彘に至るまで被害を免れなかった。辛亥、尚書左丞の張暉・御史大夫の許霖が罷され、大興尹の図克坦貞を樞密副使とし、秘書監の王可道らを賀宋生日使とした。8月、諸路に馬を戸口の差をもって調し合わせて五十六万余匹とし、富室で六十匹に至る者もあり、なお戸ごとに自ら養飼させて備えを俟った。己卯、尚書右丞相の蔡松年が薨じた。9月、翰林待制の完顔達紀を高麗生日使、宿直将軍の瓜爾佳達蘭を夏国生日使とした。10月乙亥、近郊で猟をし通州で船を造るのを観て、尚書右丞の赫舎哩良弼・樞密副使の図克坦貞に佩刀を賜り宮に入らせた。11月甲辰、翰林侍講学士の施宜生らを賀宋正旦使とした。12月乙卯、宋は使者を遣わし母の韋氏の哀を告げた。甲子、太白が昼見した。乙丑、太医使の祈宰が伐宋を諫める疏を上ったため殺した。

正隆五年(1160年)

  • 正月庚辰朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。乙未、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。2月壬子、宋は使者を遣わし母の遺留物を献じた。丁卯、太白が昼見した。辛未、河東陝西で地震があり鎮戎・徳順軍は大風で廬舎を壊し人が多く圧死した。甲戌、引進使の高植・刑部郎中の海古勒を遣わし分道で獲た盗賊を監視させ並びに凌遅処死し、あるいは鋸で灼いて皮を去り手足を截った。屯戌の千戸穆昆らに後で獲る者があれば並びに処死すること、総管府官もまた決罰することを戒めた。3月辛巳、東海県の民の張旺・徐元らが反すると都水監の徐文・歩軍指揮使の張弘信・同知大興尹事の李惟忠・宿直将軍の蕭阿古に舟師九百を率いて海を浮んでこれを討たせ「朕の意は一邑にはない、将に舟師を試そうとしているだけだ」と命じた。庚子、司徒判大宗正事の蕭玉を御史大夫とし司徒は故のごとくとし、尚書右丞の赫舎哩良弼を左丞とし、横海軍節度使致仕の劉長言を起こして右丞とした。4月庚戌、昭妃の富蔡阿里庫が罪ありて死を賜った。甲寅、宿州防禦使の耶律翼が宋に使いして体を失い杖二百・除名とした。甲戌、太白が昼見した。6月、徐文らは賊の張旺・徐元を破り東海が平いだ。7月辛巳、詔して東海県の徐元・張旺で誤ったことに連座した者を並びに釈した。壬午、張弘信は討賊の命を被りながら疾を称して逗留し萊州で妓楽と飲燕したことに杖二百とした。癸卯、使者を遣わし諸路の漢軍を簽した。8月丙午朔、日食があった。辛亥、榷貨務并びに印造鈔引庫を南京に起赴させた。己巳、樞密副使の図克坦貞が罷され太子少保の図克坦永年を樞密副使とした。辛未、山陵に謁え穫者を問いその豊耗を衣で賜った。9月己卯、還宮した。10月庚午、護衛の完顔布琳ら二十四人を遣わし山東・河東・河北・中都の盗賊を督捕させ、諸路の水手を籍して三万人を得た。11月乙酉、済南尹の布薩烏哲らを賀宋正旦使とした。尚書右丞の劉長言が罷され親軍司の掌る所を大興府に付し左右驍騎都副指揮使を置いて点検司に隷し、歩軍都指揮使を宣徽院に隷させた。12月癸丑、中都・河北・山東・河南・河東・京兆の軍民が禽獣を網捕することを禁じ雕隼を畜養する者も禁じた。戊辰、朝官が飲酒することを禁じ犯す者は死とし、三国の使者と燕飲した者にも罪した。

正隆六年(1161年)

  • 正月甲戌朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丁丑、判大宗正の図克坦貞・益都尹の京・安武軍節度使の爽・金吾衛上将軍の阿蘇が飲酒したことに、貞が近属であるため杖七十とし余はみな杖百とした。壬午、上は南京に行こうと将い、司徒御史大夫の蕭玉を大興尹とし司徒は故のごとくとし、樞密副使の図克坦永年が罷され都点検の赫舎哩志寧を樞密副使とした。己丑、生辰に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。癸丑、参知政事の李通に宋の使者の徐度らに「朕は昔梁王(宗弼)の軍に従い南京の風土を楽しみ常に巡幸したいと思っていた。今、営繕は将に畢わろうとしている、期を二月末とし先ず河南に赴く。帝王の巡守は古よりある。淮右には隙地が多く、その間で校猟しようとしている、従兵は万人を踰えない。況んや朕の祖宗の陵廟がここにあるのだから、どうして久しく彼にいられようか。汝らは帰って汝の主に告げ有司に朕の意を宣諭させ、淮南の民が疑懼を懐かぬようにせよ」と諭させた。庚子、詔して中都より河南府に至る所過の州県で従猟の騎士二千を調させた。辛丑、富察阿古岱の女の徹辰を殺した。徹辰は慶宜公主で幼にして宮中で鞠されていたが、上はしばしばこれを納れようとしたが太后が不可としており、この時に至り罪をもって殺した。2月乙巳、衛王襄の妃及び左宣徽使の許霖を杖した。申寅、参知政事の李通を尚書右丞とし、扈従の縦猟で民を擾すことを禁じた。庚申、諸道の水手を徴し戦船を運ばせた。癸亥、中都より発した。丙寅、安粛州に次った。3月己卯、河南北の邙山を太平山と改め舊名を称える者は違制論とした。丁亥、獲嘉に至ろうとした時、男子が上書して事を言い斬った。その言う所は聞くことができなかった。癸巳、河南府に次り猟に出て汝州の温湯に行き行宮の地を視た。中都より河南に至るまで過ぎる所の麦はことごとく空しくなった。復び扈従が輒く次を離れ游賞飲酒することを禁じ、犯す者は罪みな死とされ従う者がいなかった。内地の諸明安を山後に赴かせ牧馬させ秋を俟って並びに発することを詔した。弟の兖の妻の烏雅氏が罪ありて死を賜り、烏雅氏の弟の南京兵馬副都指揮使の実訥もまた罪をもって誅された。4月丁未、百官にまず南京に赴いて治事させることを詔し尚書省・樞密院・大宗正府・勧農司・太府少府はみな行に従わせ、吏戸兵刑部・四方館・都水監・大理司の官はそれぞれ一員を留め、簽書樞密院事の高景山らを賀宋生日使とした。戊申、汝州百五十里内の州県に商賈を量って温湯に赴かせ市を置くことを詔した。有司に宋人が蔡・頴・寿諸州が対境に堡戍を創置していることを問移させた。庚戌、河南府の契丹本布が山を自ら馳せ下り道左に伏し、自ら東海の賊を破った功があるも李惟忠に抑えられたことを陳べたため、直ちにこれを斬らせた。丁卯、温湯に次り扈従にみだりに汝水を過ぎることを戒めた。上は猟をし奔鹿がこれを突いたことで馬から墜ちて嘔血すること数日、使者を遣わし諸道の兵を徴した。5月庚辰、太師尚書令の諾延温都思忠が薨じた。契丹の諸部が反したため右将軍の蕭図喇らを遣わしてこれを討たせた。6月癸卯、樞密使の布薩思恭・西京留守の蕭懐忠に兵一万を将いて契丹の諸部を討たせることを命じた。上は汝州より南京に行き、壬戌、南京の近郊に次ると左丞相の張浩は百官を率いて迎謁した。この夜、大風で承天門の鴟尾を壊した。癸亥、上は法駕を備え南京に入った。7月丁亥、左丞相の張浩を太傅尚書令とし、司徒大興尹の蕭玉を尚書左丞相とし、吏部尚書の白彦恭を樞密副使とし、樞密副使の赫舎哩志寧を開封尹安武軍節度使とし、図克坦貞を御史大夫とした。己丑、従駕の従行軍及び千戸穆昆に銭帛を賜り、天下の贏馬をあまねく括り、亡遼の耶律氏・宋趙氏の子男を凡そ百三十余人殺した。8月壬寅、単州の賊の杜奎が城に拠って叛いたため都点検の耶律湛・右驍騎副都指揮使の大磐を遣わしてこれを討たせ、樞密副使の白彦恭を北面兵馬都統とし開封尹の赫舎哩志寧にこれを副けさせ、中都留守の完顔古雲を西北面兵馬都統とし西北路招討使の唐古布古徳にこれを副けさせ契丹を討たせた。癸丑、諫伐宋の言をもって皇太后図克坦氏を寧徳宮で弑し宮中で焚くよう命じその骨を水中に棄て、その侍婢ら十余人もまた殺した。癸亥、右将軍の蕭図喇・護衛十人長の鄂勒博の族を殺し、樞密使の布薩思恭・北京留守の蕭賾・西京留守の蕭懐忠を杖し、尚書令の張浩・左丞相の蕭玉を杖した。太常博士の張崇を高麗生日使、蕭誼忠を夏国生日使とした。甲子、所幸の太后の侍婢の高福娘を鄖国夫人に封じた。9月庚午朔、太保判大宗正事の昻を樞密使とし太保は故のごとくとした。戊子、前寿州刺史の摩囉歓を殺した。庚寅、大名府の賊の王九が城に拠って叛き衆は数万に及び、所至の盗賊が蜂起し大なる者は城邑を連ね小なる者は山沢を保ち、あるいは十数騎で旗幟を張って行くと官軍は敢えて近づかなかった。上は復び盗賊の事を聞くことを悪み、言う者があれば輒ち罪とした。上は自ら三十二総管の兵を将いて宋を伐ち寿春より進み、太保樞密使の昻を左領軍大都督とし尚書右丞の李通にこれを副けさせ、尚書左丞の赫舎哩良弼を右領軍大都督とし判太宗正の烏雅富埒琿にこれを副けさせ、御史大夫の図克坦貞を左監軍とし同判大宗正事の図克坦永年を右監軍とし、左宣徽使の許霖を左都監とし河南尹の富察鄂倫を右都監として皆従わせた。工部尚書の蘇保衡を浙東道水軍都統制とし益都尹の正嘉にこれを副けさせ海を浮んで臨安に趨かせた。太原尹の劉萼を漢南道行営兵馬都統制とし済南尹の布薩烏哲にこれを副けさせ蔡州より進ませた。河中尹の図克坦喀齊喀を西蜀道行営兵馬都統制とし平陽尹の張中彦にこれを副けさせ鳳翔より散関を取り軍を駐めて命を俟たせ、武勝・武平・武捷の三軍を前鋒とし、図克坦貞は別に兵二万を将いて淮陰に入った。甲午、上は南京より発し皇后及び太子光英が留守し、尚書令の張浩・左丞相の蕭玉・参知政事の敬嗣暉が留まって省事を治めた。丙申、太白が昼見した。将士が中軍より逃亡する者が道に相い続き、哈斯罕明安福寿・東京穆昆の金住らが始めて大名で甲を授かるとすぐに部を挙げて亡げ帰り、従う者は衆く至って万余となり、みな道で「我らは今、東京に往って新天子を立てよう」と言った。10月乙巳、隂迷失道し二鼓にようやく営所に達した。丙午、慶雲が見えた。東京留守曹国公の烏禄(世宗)が遼陽で即位し大定と改元し大赦し、海陵の過悪を数え、皇太后の図克坦氏を弑し太宗及び宗翰・宗弼の子孫・宗本の諸王を殺し、上京の宮室を毀し遼の豫王・宋の天水郡王・郡公の子孫らを殺したこと数十事を挙げた。丁未、大軍は淮を渡り廬州に至ろうとし白鹿を獲て武王の白魚の兆とした。漢南道の劉萼は通化軍・蔣州・信陽軍を取り、図克坦貞は宋の王権を盱眙で敗り揚州を進み取った。前鋒軍は段寨に至り宋の戍兵はみな遯げ、蔚子橋で宋兵を敗り、巣県で宋兵を敗り二百級を斬り、和州に至った。王権は夜に兵千余をもって来襲したがこれを射て却けた。翌日雨で宋人は積聚を焼いて夜に遯げた。詰旦にこれを追うと宋人は逆に戦い、明安の韓棠の軍が却いてついに利を失ったが、温都敖拉は敗走した。武捷軍副総管の阿薩爾は明安穆昆を率いて力戦しこれを却け、王権は南岸に退保した。癸亥、上は和州に次りアサル(阿薩爾)らに賞をそれぞれ与えた。西蜀道の図克坦喀齊喀は散関に駐まり、宋人は秦州・臘家城・徳順州を攻めこれを克った。浙東道の蘇保衡は宋人と海道で戦い敗績し副統制の正嘉がここで死んだ。11月庚午、左司郎中の鄂博庫らは赦が入り東京で即位し改元したことを聞き、上に白すと拊髀して歎き「我はもと宋を滅ぼした後に改元して大定としようとしていた、これは天命ではないか」と言い、その書を出してこれを示し先に改元の事を志していたことを予知させた。勧農使の完顔元宜を浙西道兵馬都統制とし刑部尚書の郭安国にこれを副けさせた。上は江北に軍を駐め、武平総管の阿林をまず渡江させたが南岸で利を失った。上は和州に還りついに兵を進めて揚州にした。甲午、瓜洲で舟師を会し明日を期して渡江しようとしたが、乙未、浙西兵馬都統制の完顔元宜らの軍が反し帝は弑され崩じた。年四十。海陵は在位十余年、毎に情貎を飾って臣下を御し、尚食が鵝を進めても却けて倹を示し、遊猟の頓次に至っては時ならず鵝・鶉を索め、民間ではあるいは数万をもってこれを売り、一牛で一鶉に易える者もあった。あるいは敝い衾で衣を覆って近臣に示し、あるいは補綴した服を着て記注官に見させ、あるいは軍士の陳米飯を取り尚食と同じものを進め、まず軍士の飯がほとんど尽きているか見た。あるいは民の車が泥澤に陥っているのを見ると衛士に下ろさせ挽かせ車が出るのを俟ってから行き、近臣と燕語するたびに昔の古の賢君を引いて自らに况え、大臣に直言を顕責し、張仲軻の輩を諫官とさせたが祈宰は結局直諫のため死んだ。近ごろは羣小に昵み官賞は度が無く、左右に不備な僚があれば人が名を呼べば即座に顕階を授け、常に黄金の裀褥を置いてこれを喜ぶ者があれば自ら取らせた。淫嬖は骨肉を択ばず刑殺は罪の有無を問わなかった。南京の宮殿を営むに至っては一木の費が二千万に至り、一車を牽く力が五百人に至り、宮殿の飾は徧く黄金を傅した上に五采の金屑を空に飛ばせ落雪のようにし、一殿の費は億万をもって計られ、成ってはまた毀し華麗を極めることを務めた。その南征では戦艦を江上で造り民の廬舎を毀して材とし、死人の膏を煮て油とした。民力を殫るすことは馬牛のよう、財用を費すことは土苴のよう、国を空にして人の国を図りついに敗に至った。都督府はその柩を南京の班荊館に置き、大定2年(1162年)に降封して海陵郡王とし煬と諡した。2月、世宗は実達爾・羅索に南京の官とともにその柩を寧徳宮に遷させた。4月、大房山の鹿門谷の諸王兆域中に葬った。20年(1180年)、熙宗がすでに祔廟されたことをもって有司が「煬王の罪は未だ正されていない。晋の趙王倫が恵帝を廃して自立し、恵帝が反正すると倫を誅して庶人としたのに準じるべきです。煬帝の罪悪は倫より過ぎており王封を有するべきでなく、諸王の塋域にあるべきでもありません」と奏したため、詔して海陵庶人に降し山陵の西南四十里に改葬した。

史論

  • 賛にいう。海陵は智はもって諫言を拒ぐに足り、口はもって非を飾るに足った。君となろうと欲すればその君を弑し、国を伐とうと欲すればその母を弑し、人の妻を奪おうと欲すればその夫を殺させた。三綱はすでに絶えた、いかんぞ他を論ずるに暇があろうか。宗族を屠滅し忠良を翦刈し、婦姑姉妹をことごとく嬪御に入れながら、まさに三十二総管の兵をもって一天下を図ろうとした。ついに戻気が感召し身は悪をもって終わり、天下後世をして無道の主を称せしめるのに海陵をもって首となすのは、戒めずにいられようか、戒めずにいられようか。