金史卷一 本紀第一 世紀

女直の由来

  • 金の先祖は靺鞨氏から出た。靺鞨はもと勿吉と号し、勿吉は古の粛慎の地である。北魏の頃、勿吉には粟末部・伯咄部・安車骨部・払涅部・号室部・黒水部・白山部の七部があった。隋では靺鞨と称され、七部は変わらなかった。唐初には黒水靺鞨・粟末靺鞨があり、他の五部は聞こえなくなった。粟末靺鞨は初め高麗に附し姓を大氏と称したが、李勣が高麗を破ると粟末靺鞨は東牟山を保って後に渤海となり王を称し、十余世伝わって文字・礼楽・官府の制度を備え、五京十五府六十二州を有した。黒水靺鞨は粛慎の地に居り東は海に瀕し南は高麗に接し、やはり高麗に附し、兵十五万で高麗を助けて唐太宗を安市で拒んだ。開元中に来朝し、黒水府を置いて部長を都督刺史とし、長史を置いて監させ、都督には李献誠の姓名を賜り黒水経略使に任じた。後に渤海が強盛になると黒水靺鞨はこれに役属し、朝貢は絶えた。五代の頃、契丹が渤海の地をことごとく取り、黒水靺鞨も契丹に附属した。南の者は契丹の籍に入り熟女直と号し、北の者は契丹の籍に入らず生女直と号した。生女直の地には混同江・長白山があり、混同江はまた黒龍江とも号する。いわゆる「白山黒水」とはこの地である。

始祖と函普の伝説

  • 金の始祖、諱は函普。初め高麗から来た時すでに六十余歳であった。兄の阿古廼は仏を好んで高麗に留まり従わず、「後世子孫はきっと相い聚まる者があろう。私は行けない」と言った。函普は独り弟の保活里とともに、始祖は完顔部の僕幹水のほとりに、保活里は耶懶に居った。後に頗刺淑が曷蘇館から太祖に帰した際、その祖の兄弟三人が別れ去ったと自ら語ったのは、阿古廼の後が徒単・蒲察であり、保活里の裔だという。太祖が遼兵を境上で破り耶律謝十を獲た時、梁福・斡答剌に渤海人を招諭させ「女直と渤海はもと一家である。いずれも勿吉の七部の出だ」と言わせた。
  • 始祖が完顔部に至って久しく居ると、部人が他族の者を殺したことで両族が交悪し闘いが解けなくなった。完顔部人は始祖に「もし部人のためにこの怨みを解き、両族を相い殺させぬようにできれば、部に賢女あり年六十だが未嫁、これを配して同部となそう」と言った。始祖は承諾し、自ら赴いて「一人を殺して闘いが解けねば損傷はますます増える。首謀者一人を誅し、部内で物をもって償わせるのがよい。両者はこれで解け、汝は利を得られよう」と諭した。怨家はこれに従い、約を定めて「殺傷ある者はその家の人十口・馬十匹・牸牛十頭・黄金六両を徴し、殺傷された家に与えれば両者は解け、私闘はしない」とした。女直の俗では殺人の償いは馬牛三十であったが、これより始まった。すでに約通り償い終えると部衆は信服し、青牛一頭を謝礼とし、六十の婦を帰すことを許した。始祖は青牛を聘礼として娶り、財産も併せ得た。後に二男(長を烏古廼、次を斡朶)、一女(卓忽)を生んだ。これより完顔部の人となった。天会14年(1136年)に景元皇帝と追諡され廟号を始祖とし、皇統4年(1144年)に藏を光陵と号し、5年に懿憲景元皇帝と増諡された。

徳帝・安帝・献祖・昭祖

  • 始祖の子、徳帝、諱は烏古廼。天会14年に徳皇帝と追諡され、皇統4年に藏を熙陵と号し、5年に淵穆玄徳皇帝と増諡された。その子、安帝、諱は跋海。天会14年に安皇帝と追諡され、皇統4年に藏を建陵と号し、5年に和靖慶安皇帝と増諡された。
  • その子、献祖、諱は綏可。黒水の旧俗には室廬が無く、山水に拠って坎を穿ち、木を梁として上を土で覆い、夏は出て水草を追い冬は入って中に居し、遷徙常なかった。献祖は海古水のほとりに徙居し、耕墾樹芸を始め、初めて室を築いて棟宇を有し、その地を人々は「納葛里」(漢語で居室の意)と呼んだ。これより安出虎水のほとりに定居した。天会14年に定昭皇帝と追諡され廟号を献祖とし、皇統4年に藏を輝陵と号し、5年に純烈定昭皇帝と増諡された。
  • その子、昭祖、諱は石魯。剛毅質直で、生女直には書契も約束も無く検制できなかった。昭祖は少し条教を立てようとしたが、諸父・部人はみな不悦で坑殺しようとした。すでに捕らえられたところ、叔父の跡忽が部衆が昭祖を殺そうとしているのを知り「わが兄の子は賢人だ。必ず家を承け部衆を安輯できよう。この輩がなぜ坑殺しようとするのか」と言い、急ぎ弓を彎いて衆中に矢を射込むと、捕らえた者たちは散り走り、昭祖は免れることができた。昭祖は次第に条教をもって治め部落は強くなり、遼は「太師」の官職を与えた。諸部はなお旧俗に固執し条教を用いなかったが、昭祖は青嶺・白山まで武を耀かせ、従う者は撫し、従わぬ者は討伐した。蘇賓・耶懶の地に入り至る所ことごとく克った。佛涅水を経る際、昭祖はその地名が禽鳥に類することを嫌い、すでに困憊していたが行を止めず、古里甸に至って病を得た。夜、村舎に寝ていたところ盗があり、遂に夜半に発って麻沽塸村に至って留まり、その夕に卒した。柩を載せて行く途上で賊に遭い柩を奪われたが、部衆は追撃して復び柩を得た。夾谷部人の富者が更に来襲したが、富者に道行く人が「石魯の柩はここより幾許か」と問うと「遠いぞ、追っても及ばない」と答えたため、富者はついに引き上げ、遂に帰葬できた。生女直の俗は昭祖の時にようやく条教を用い、民はやや聴従したが、なお文字も官府も無く、歳月の朔晦を知らなかったため、年寿の長短も考証できない。天会15年(1137年)に成襄皇帝と追諡され廟号を昭祖とし、皇統4年に藏号を安陵とし、5年に武恵成襄皇帝と増諡された。

景祖の代

  • その子、景祖、諱は烏古廼。遼の太平元年辛酉(1021年)に生まれた。始祖よりこれで六世である。景祖は次第に諸部を役属させ、白山・耶懶・土骨論・徒篤刊の属より五国の長に至るまでみな命に聴った。この頃、遼の辺民に逃げて帰す者があり、遼が兵をもって闌隅・烏舎の民を徙そうとした際、多くの者が徙されるのを肯んぜず逃げて帰した。遼は蕭海里林牙に兵を将いて逋逃の民を索めさせたが、景祖は遼兵が深入りして山川道路の険易をことごとく把握し、あるいは図ろうとするのを恐れ、計をもって止めようとして「兵がもし深入すれば諸部は必ず驚擾し変が生じ測り難い。逋戸もまた得られないだろう。得策ではない」と言った。蕭海里はこれをもっともと思い軍を止め、蕭海里とともに自ら行素した。この時、隣部はやや従っていたが、海蘭水の温都部の石魯だけは拒み服さなかった。攻めても克たなかったため、景祖は計をもって遼主に告げ、遼主は使者を遣わして石魯を責め諭させ、石魯はその子孛剌淑を遣わし入朝させると、遼主は厚く賜って還らせた。後に石魯と孛剌淑が春蒐で遼主に見えると、遼主は石魯を辺地に留め孛剌淑を所部に還らせた。これは景祖の謀である。
  • やがて五国拂涅部節度使拔乙門が叛き、遼の鷹路が通じなくなった。遼人がこれを討とうとし、まず通肯を遣わして命を諭させると、景祖は「計をもって取るべきだ。もし兵を用いれば彼は逃げて険阻に保ち、歳月で平げられるものではない」と言った。遼人はこれに従った。景祖は結局遼兵がその境に入るのを畏れていたため、自ら功に帰そうとしたのである。そこで景祖は表向き拔乙門と親しくしながら妻子を質とし、襲って擒え遼主に献じた。遼主は寝殿で召見し宴賜を加等し、生女直部族節度使とした。遼人は節度使を「太師」と呼び、金人が「都太師」と称するのはこれより始まる。遼主は印を刻んで与えようとしたが、景祖は遼籍に繋がることを肯んぜず「他日を俟ちたい」と辞した。遼主はなおも与えようとし使者を遣わすと、景祖は密かに部人に「主公がもし印を受け籍に繋がれば、部人は必ず彼を殺すだろう」と揚言させこれを拒んだ。遼使は還った。すでに節度使となり官属紀綱がようやく立った。生女直はもと鉄が無く、隣国の鎧胄を売る者に貲を傾けて厚く買い、昆弟族人にもみな買わせ、鉄を多く得ると弓矢を修め器械を備え、兵勢は次第に振るった。前後して帰附を願う者は多く、耨盌温都部・耶懶徒單部・馴河温都部・僕幹水完顔部が相い継いで来附した。景祖は人となり寛恕で物を容れることができ、平生喜怒を人に見せず、財を推して人に与え食を分かち衣を解いても惜しまなかった。人がこれに逆らっても心に留めなかった。かつて叛去する者があり、人を遣わして諭誘したところ、その叛者は「汝の主は『和鑾』だ。和鑾に何ができる」と言った。和鑾とは漢語で慈烏のことである。北方にいて、形は大きな鶏に似て物をよく啄み、牛馬や駱駝の脊の瘡を啄んで食い、飢えれば砂石すら食う鳥だという。景祖は酒色を嗜み人並み以上に飲食したため、人々は「和鑾」と呼び揶揄したが、景祖は意に介さなかった。その後、揶揄した者は力尽きて降り、厚く賜って還らせた。海蘭水に衆を率いて降る者があり、その歳月・姓名を録して遣わし帰した後もまた復して故の人としたため、ますます信服された。
  • 遼の咸雍8年(1072年)、五国の越里篤部の跋思弾がまた叛き遼の鷹路が通じなくなったため、景祖はこれを伐った。跋思弾は迎え禦い、景祖は重鎧を被り衆を率いて力戦し、跋思弾の兵は敗走した。撻懶水濼に至った頃、氷が急に解けて跋思弾は軍を用いることができず衆は潰えて去った。師を還す途中で逋亡と要遮険阻に遇い、昼夜拒戦し、部に至った時にはすでに憊れていた。すぐに遼の辺将達魯古に見え自ら跋思弾を敗った功を陳べたが、拉林水に次った時に達魯古の疾がおこり、そのまま家で卒した。年五十四。天会14年に恵桓皇帝と追諡され廟号を景祖とし、皇統4年に藏号を定陵とし、5年に景祖英烈恵桓皇帝と増諡された。

世祖・粛宗・穆宗の継承

  • 景祖の第二子が節度使を襲った。これが世祖、諱は劾里鉢である。生女直の俗では子が長じると別居する。景祖の九子は元配の唐括氏が生み、長を劾者、次を世祖、次を頗剌淑、次を盈歌といった。異居に当たり、景祖は「劾者は柔和で治家に適する。劾里鉢は器量智識あり何事も成せよう」と言い、頗剌淑もまた柔善であるとして、劾者を世祖と同居させ、頗剌淑を盈歌と同居させた。景祖が卒すと世祖が継ぎ、世祖が卒すと粛宗(頗剌淑)が継ぎ、粛宗が卒すと穆宗(盈歌)が継ぎ、穆宗は復た世祖の子に伝え、太祖の代に至って大位に登った。
  • 世祖は遼の重熙8年己卯(1039年)に生まれ、遼の咸雍10年に節度使を襲った。景祖の異母弟の跋黑には異志があったが、世祖はその変を起こすことを慮り、兵を将いさせず部長とするに留めた。跋黑はついに麻産・撒改・烏春・窩謀罕を誘って乱を起こし、諸部を離間させ世祖に叛かせようとしたが、世祖はなお彼らを撫慰しようとした(詳細は跋黑・麻産らの伝にある)。世祖はかつて夾谷部の鍛冶工烏補台から甲九十領を買ったが、烏春はこれを口実に兵端を起こそうとした。世祖は甲を返し、部中には「生きたければ跋黑に附け、死にたければ劾里鉢に附け」という流言が起こった。世祖はこれを聞いて疑ったが確かめるすべが無かったため、偽って出行の支度をし密かに人に「盗が来る」と揚言させると、部衆は虚実が分からず、あるいは跋黑の家に匿われ、あるいは世祖の家に匿われた。これにより世祖は兄弟部属の向背彼此の情を尽く知ることができた。数年後、烏春が世祖を攻めたが、時は10月半ばで大雨が幾昼夜も続き氷が地を覆ったため、烏春は進めず「これは天だ」と悔いて兵を引いた。烏春は阿勒楚喀村の卓巴に舎り、その弟の双吉を赫伯に囲んだが、退くと双吉が兄の卓巴を執えて世祖に殺害を請い、その孥戮の免除も請うたため、これに従った。麻産・窩謀罕もまた兵を挙げ、粛宗を遣わしてこれを拒がせた。烏春の兵は北に、麻産の兵は南に、その勢いは甚だ盛んで、世祖は「和すべきならば和し、そうでなければ戦え」と戒めたが、粛宗の兵は敗れた。折しも烏春が久雨のため解いて去ったため、世祖は偏師をもって舍很水を渉り忒克水を経て麻産・窩謀罕の家を覆した。翌日大霧で道を失い摩多録水に至って気づき、すぐに還った。舍很・忒克の間で高阜に登り望むと六騎が馳せて来たため、大呼して馳撃し、世祖は一人を射斃し、五人を生擒した。問えば布呼薩克薩が麻産・窩謀罕を助けさせた者だという。世祖は麻産・窩謀罕の居に至りその家を焼き百余人を殺した。旧将の主保もまた死んだ。世祖が還ると粛宗と会ったが、粛宗の兵はまた敗れた。世祖は敗れを粛宗に責め、人を遣わして和を議したところ、麻産・窩謀罕は「英格の大赤馬と希卜蘇の紫騮馬を我にくれれば和す」と言った。二馬はともに女直の名馬であり、許さなかった。麻産・窩謀罕は諸部を会して攻め、費摩部を通過する際にこれが世祖に附いているとして焼き払った。富察部の沙津・呼卜図が愛実に難を告げさせた際、世祖は「戦えば旗鼓で自ら区別せよ」と偽って従わせ全からしめた。世祖は麻産・窩謀罕の衆を禦きに出向いたが、まさに出発しようとした時、跋黑が愛妾の父の家で食事中に肉に喉を詰まらせて死んだとの報が入った。世祖は粛宗を遣わして遼に援けを求めさせ、自ら衆を率いて出て希卜蘇に海古勒兄弟の兵を取らせようとしたが、海古勒兄弟がすでに麻産に貳いていることを知り、その衆を併せ取ろうとして直ちに向かうと、偵者が「敵はすでに至り戦おうとしている」と報じた。世祖は希卜蘇に「汝はまず陣を托果原に設け、我が三度旗を挙げ三度鼓を鳴らせば、旗を捨てて決戦せよ。生死はただ今日にあり」と戒め、費摩呼実に大紫騮馬を牽かせ副馬とし疾馳して陣に至らせた。麻産・窩謀罕の軍は盛強で、世祖の軍吏は戦わずして懼れ、みな植立して顔色を失った。世祖は平常のように陽々として責め言葉も無かったが、士卒に甲を解かせ少し憩わせ、水で顔を洗い麨に水を調えて飲ませ、しばらくして訓励すると軍勢は復び振るった。そして衆を避け独り穆宗を引き入れ、その手を執って密かに「今日の事、もし勝てばよし、万一勝てなければ、我は必ず生きぬ。汝は今、馬を鎧って遠く観よ、戦事に預かるな。もし我が死ねば、汝はわが骨を収めるな。急ぎ馬を馳せて汝の兄・頗剌淑に告げ、遼に籍を繋いで師を乞い、この讐に報いよ」と言い終えると、袖を袒いで甲を被らず緼袍で前後の心を覆い、弓を韔し剣を提げ、三度旗を挙げ三度鼓を鳴らして旗を捨て搏戦し、身をもって軍鋒となって敵陣に突入した。衆はこれに従い、希卜蘇は後から奮撃し大いにこれを破った。勝ちに乗じてこれを逐い、安巴湾から北隘甸に至るまで、死者は麻のように仆れ、摩多録水は水がこれで赤くなった。車甲馬牛の軍実をことごとく得た。世祖は「今日の捷は天でなければこれほどにはならない。かりに敵を縦しても敗軍の気は世が終わるまで振るわない」と言い、軍を引いて還った。世祖はその戦地を視ると馳突で大路が成り、幅は三隴ほどもあり、手ずから九人を殺し自ら重積したもので、人々はこれを異とした。麻産・窩謀罕はこれより復び衆を聚めることができず、各々その属をもって降った。遼の大安7年(1091年)のことである。初め麻産・窩謀罕の変には、蒲聶部の布戸・蒲察部の撒屈出がこれを助けたが、この時招いても来ず、布戸の党の斜出がついに布戸を殺して降った。撒屈出は逃亡者を追い、道傍の人に潜かに射られ口に中って死んだ。これより旧部はことごとく景祖の代に帰した。この頃、蒲聶部人の孛特本が来属していたが後に異志を抱き、たまたまその家が失火したことにより跋黑に放火を誣告した。世祖が約に従って徴償を求めると孛特本は不安になり、烏春・窩謀罕と結んで兵を挙げた。粛宗にこれと戦わせ敗り、孛特本を獲て世祖はこれを遼に献じた。拉必・瑪察が野居の女直を侵掠し拉林水で牧馬を掠めたため、世祖はこれを撃ち四創を被ったが、しばらくして疾は癒えた。拉必らは復び穆宗の牧馬を掠め諸部と結ぼうとしたため、世祖は復びこれを伐ったが、拉必らは偽って降り旋った。拉必は古里甸の兵百十七人を得て穆棱水に拠って険を守り、石魯の子・頗刺淑歓もその中にいた。世祖はこれを克ち古里甸の兵をことごとく獲たが、瑪察は遁去した。ついに拉必と頗刺淑歓を擒え、みな遼に献じたが、遼は後にこれを復び請い、遼人は与えて前後に献じた罪人とともに帰した。挎都は烏春らを実徳古実巴克実で破り、世祖は自ら将いて挎都と合兵し嶺東の諸軍がすべて至った。この時烏春はすでに前に死んでおり、烏木罕は遼に和を願い出ていたが、和した後に復び来襲したため、進軍して囲み、烏木罕は城を捨てて遁去した。その城を破って盡くこれを俘獲した。功によって差次して諸軍に分賜した。城の破れ始めた際、渠長の生殺を議し衆はみな長跪していたが、遼の使者がその座にあり、忽ち一人が長刀を佩びて突進し咫尺のところで世祖に「我を殺すな」と言うと、遼使及び左右はみな走り匿れた。世祖は顔色を少しも動かさずその人の手を執り「我は汝を殺さない」と語った。そこで匿れた左右を「汝らはなぜ次を失ったのか」と罰し、罰した後にゆっくりと突進した者を捕えて殺させた。その胆勇鎮物ぶりはこのようであった。師が還ると寝疾がついに篤くなった。元妃の唐括氏が哭き止まぬと、世祖は「汝は泣くな、汝はただ我に後れること一年のみだ」と言い、粛宗が後事を請うと「汝はただ我に後れること三年のみだ」と言った。粛宗は出て人に「わが兄はここに至ってもわれに好い言葉をかけない」と言い、地に叩頭して哭いた。ほどなく穆宗を呼んで「烏雅束は柔善だ。もし契丹の事を辦じ集められるのはアグダ(太祖)だろう」と語った。遼の大安8年(1092年)5月15日に卒し、位を襲うこと19年、年五十四。翌年元配の唐括氏が卒し、また翌年、粛宗が卒した。粛宗は病篤い時「わが兄は本当に多智であったなあ」と歎いた。世祖は天性厳重で智識があり、一見すれば必ず識り、暫く聞いただけでも忘れず、凝寒でも縮栗せず、動止に回顧しなかった。毎戦、未だ甲を被る前に夢兆でその勝負を候った。かつて酔って驢に騎って室中に入ったが、翌日驢の足跡を見て事情を知り、これより復び酒を飲まなくなった。位を襲った初め、内外は潰叛し交わりを締んで寇となったが、世祖は敗を因として功となし、弱を変じて強となし、麻産・窩謀罕・烏春・烏木罕を破ってからは、基業はこれより大いに興った。天会15年に聖粛皇帝と追諡され廟号を世祖とし、皇統4年に藏号を永陵と号した。5年に世祖神武聖粛皇帝と増諡された。
  • 世祖の母弟、頗剌淑が節度使を襲った。景祖の第四子で、これが粛宗である。遼の重熙11年壬午(1042年)に生まれた。父兄の代には「国相」と号された。国相の称の起こりは分からないが、初め雅達が国相であった。雅達は麻産・窩謀罕の父である。景祖が幣馬をもって雅達にこれを求め、粛宗にこれを命じた。粛宗は幼い頃から機敏で弁が立ち、兄の世祖の時代には身は国相の位にあって心を尽くし匡輔した。叔父の跋黑に異志があった頃から麻産・窩謀罕・烏春・烏木罕・石魯父子・拉必・瑪察が乱を作すたびに、粛宗は独り一面を当たり、ことに遼人の国政人情を知ることに優れていたため、遼の事は一切これに委ねられ、専心これに当たった。すべて遼の官に事を白すには遠く跪いて辞を陳べ、訳者がこれを伝致したが、しばしば訳者に錯乱された。粛宗は自ら前で委曲を言おうとしたため、まず実を告げず、訳者を惑わせて仕方なく前へ引かせ、草木瓦石をもって籌枚としてその事を数えて陳べた。聞く官吏はみな愕然としたが、そのわけを尋ねると卑辞で「鄙陋で文が無いのでこうなっただけです」と答えたため、官吏はこれを実と信じ復び疑わなかった。それゆえ訴えることごとくが意のままになった。麻産・窩謀罕との戦いで部人の賽罕が死に、その弟の和鑾は密かに忿怨を抱き、ある日剣の脊を粛宗の項に置いて「わが兄は汝らのために死んだ。汝を斬って償わせるのはどうか」と言った。しばらくしてその兄の柩が至ると、怒って希卜蘇を攻め、希卜蘇は走って避けた。粛宗の家を攻め矢が室の裙に及び門扉に着いた。復び罕都を攻めたが罕都は甲を衷に着け室中で拒み、入ることができずその門旃を持って去り、孛特本に往いて附いた。孛特本は烏春の兵を誘って嶺を越えさせ、世祖はこれと蘇蘇海甸で遇い「昔異夢があった。今親ら戦うことはできない。もし左軍中に力戦する者があれば大功は成ろう」と言い、粛宗及び色赫・希卜蘇にこれと戦わせた。粛宗は下馬して自ら名を呼び、世祖も復び自らその名を呼んで「もし天が我を助け衆の部長とならしめるならば、今日の事は神祗がこれを監る」と言い終えて再拝すると、火を炷き緼を束ねた。しばらくして大風が後より起こり火はますます熾んになった。この時8月で青草もすべて焼かれ、煙焰は天を漲らせ、我が軍は煙に随って衝撃し大いにこれを破り、孛特本を獲て囚え遼に献じ、併せて和鑾を獲た。粛宗はその罪を釈し左右に任使すると、後についにその力を得た。大安8年(1092年)に国相から位を襲った。この時瑪察はなお哲隣水に拠って営堡を繕完し亡命を誘納し、招いても聴かなかったため、康宗を遣わしてこれを伐ち、太祖は別軍をもって瑪察の家属を取り、釜も余さぬほどにした。瑪察を獲て殺し馘を遼に献じた。屯河の民が来附した。2年癸酉(1093年)、太祖を偏師で尼庞古部を伐たせ、抜ui水の抹隣村に帥い、跋忽が開平を播立した。これより寇賊はみな息んだ。3年8月、粛宗は卒した。天会15年に穆憲皇帝と追諡され廟号を粛宗とし、皇統4年に藏号を泰陵とし、5年に粛宗明睿穆憲皇帝と増諡された。
  • 粛宗の母弟、穆宗、諱は盈歌、字は充古訥。景祖の第五子である。南人は「揚割太師」また「揚割」と呼び、孝平皇帝と追諡された。穆宗を「揚割」とも呼ぶのは、号を仁祖という金代の人は無く、穆宗の諱が盈歌で諡が孝平であることから「盈」が「揚」に、「歌」が「割」に南北の音訛で近くなったものである。遼人が節度使を太師と呼ぶのは景祖より太祖に至るまでこの称があり、諸々の叢言・松漠記・張棣の金志等の書はみな取るに足りない。穆宗は遼の重熙21年癸巳(1053年)に生まれた。粛宗の時、瑪察を擒えた功で遼は穆宗を詳衮に任じた。大安10年甲戌(1094年)に節度使を襲い、年42。兄の劾者の子・撒改を国相とした。3年丙子(1096年)、唐括部の八可貝勒が温都部人の跋忒と旧交があり、八可が事あって往いた際、跋忒が八可を殺したため、太祖に師を率いて跋忒を伐たせた。跋忒は逃げ去ったが追及して殺した。錫馨水の夾谷部の阿疎が兵を頑にして難をなしたため、穆宗は自ら将いて阿疎を伐ち、撒改は偏師をもって通懶城を攻めこれを抜いた。阿疎は初め伐たれると聞いて自ら遼に訴え、劾者を留めて阿疎の城を守らせ、穆宗は還った。ちょうど屯河・図嚕庫水の夾谷部の阿勒班と石魯が五国の鷹路を阻み遼の捕鷹使者を執え殺したため、遼は穆宗に討たせるよう詔した。阿勒班らは険に拠り柵を立てたが、大寒の折に善射者を募り勁弓利矢でこれを攻め、数日にして城に入り、存する遼使数人を出して帰らせた。図們琿春水の交わりの夾谷部の乙劾晝多と、また蘇賓水の夾谷部の逹薩塔とが並んで兵を起こし、穆嚕密斯罕城の訥格の子・通恩もまた亡げたため、両党が難をなした。8月、撒改が都統となり希卜蘇・阿里罕・威泰がこれを副け乙劾晝多を伐ち、烏塔らと们图琿・実图美が逹薩塔を伐った。撒改はまず辺地の城堡を平らげようとし、あるいはまず乙劾晝多を取ろうとし決められなかったため、太祖に通恩に往かせ乙劾晝多を援けようとする们图琿の兵が未だ集まらぬうちに攻めさせた。実图美の軍がすでに们图琿と会い迎え撃つと通恩は大敗し、穆嚕密斯罕城を降し通恩・逹薩塔を獲たが釈して殺さなかった。太祖は佛寧嶺を渡り撒改と会し乙劾晝多の城を攻め破った。乙劾晝多はすでに先に遼へ往っており、その城中の渠長をみな殺した。復び烏塔の城を囲んだが烏塔はすでに亡げて外にあり、城は軍に降った。晝多もまた普嘉努に降った。これより撫寧の諸路は旧のようになった。太祖は穆宗の教えにより图們琿春・葉赫・錫馨の四路と嶺東の諸部に告げ、今後は都部長と称することを止めさせ、双吉・綽哈らに伊勒呼嶺・綽満水の西の諸部の居民を撫定させ、また威泰及び偏裨に二額訥斯琿・二恩楚らの路の寇盗をことごとく平らげさせて還った。7年庚辰(1100年)、劾者はなお阿疎城を守り、穆都里が来降したが阿疎はなお遼にあった。遼は使者を遣わして罷兵させに来させたが、穆宗は烏凌阿舒噜を遣わして劾者を佐けさせ「遼使が来て罷兵させても軍衣・旗幟だけを換えて阿疎城中と区別つかぬようにし、遼使に知らせるな」と戒め、劾者にも「遼使は計をもって却けられる。その言を聴いて軽々しく罷兵するな」と戒めた。遼使は果たして来て罷兵させたが、穆宗は富察部の呼嚕貝勒・宻遜貝勒を遣わし共に阿疎城に至らせ、劾者は遼使に会うと呼嚕・宻遜に「我が部族が自ら相い攻撃しているのに汝らに何の関係があるか、誰が汝の太師を知ろうか」と詭って言い、槍を援いて呼嚕・宻遜の乗馬を刺殺した。遼使は驚駭して遽かに走り敢えて回顧せず、直ちに帰った。数日してその城を破ると、逹呼布は遼より還り、城中で執えられ殺された。阿疎は復び遼に訴え、遼は奚の節度使伊里を遣わして来させた。穆宗は拉林水の興克村に至り伊里に会い阿疎城の事を問われ、穆宗に「凡そ城を攻めて獲た者、存する者は復びこれに与え、存せぬ者は備え償い、また馬数百匹を徴せよ」と命じた。穆宗は遼の佐と謀り「もし阿疎に償えば諸部は復び号令し任使することができなくなる」として、矩威・図塔両水の民に鷹路を陽って阻絶させ、また布古徳部の節度使に遼に「鷹路を開くには生女直の節度使でなければならない」と言わせた。遼はこれが穆宗の謀とは知らずこれを信じ、穆宗に鷹路を阻絶する者を討たせるよう命じ、阿疎城の事はついに止んだ。穆宗は鷹路を平らげると称して屯水で狩りをして帰った。この歳、乙劾晝多が来降した。8年辛巳(1101年)、遼使が持ち物を賜り鷹路平定の功のある者を賞した。9年壬午(1102年)、普嘉努に遼の賜物を矩威・図塔の民に与えさせ、また鷹路を修めさせて帰った。冬、蕭哈里が叛して系案女直の阿克占部に入り、その族人の額特埒を遣わして「太師と友となり共に遼を伐ちたい」と結ぼうとしたため、穆宗は額特埒を執え、遼が穆宗に哈里を捕討させるよう命じたため、穆宗は額特埒を遼に送った。募兵して甲千余を得たが、女直の甲兵の数が千に満たなかったのはこれが初めてである。軍が混同水に次った際、蕭哈里は再び人を遣わし来て復び執えられた。ほどなく哈里と遇うと、哈里は遠くから「わが使者はどこにいるか」と問い、答えて「後の人と偕に来る」と言ったが哈里は信じなかった。この時遼は哈里を数千里追撃していたが攻めても克てなかった。穆宗は遼の将に「爾の軍を退け、我が独り哈里を取ろう」と言い、遼将はこれを許した。太祖は馬を策って突戦し流矢が哈里の首に中り、哈里は馬から墜ちたところを執えて殺し、大いにその軍を破った。阿里罕に馘を遼に献じさせ、金人はこれより遼を与しやすいと知った。この役では康宗が最先に登ったため、先登し功のあった者を前行として、諸軍で俘獲を護って所部に帰した。穆宗は漁の場所で遼主に朝し大いに嘉賞を被り、使相を授けられ賜物は加等された。10年癸未(1103年)2月、穆宗は還り、遼は使者を遣わして哈里を破った者に官を授け賞した。高麗が初めて通好して来た。10月29日、穆宗は卒した。年五十一。初め諸部にはそれぞれ信牌があったが、穆宗は太祖の議を用いて信牌を勝手に置く者を法に置いた。これより号令は一となり民は疑わなくなった。景祖以来、両世四主の志業は相因り、ついに離析を定め、すべて本部の法令をもって治めた。東南は伊勒呼・海蘭・扎懶・托卜古倫に至り、東北は五国・矩威・図塔に至り、金はこの頃に盛んになった。天会15年に孝平皇帝と追諡され廟号を穆宗とし、皇統4年に藏号を献陵とし、5年に章順孝平皇帝と増諡された。

康宗の代

  • 世祖の長子、康宗、諱は烏雅束、字は毛路完。遼の清寧7年辛丑(1061年)に生まれ、乾統5年癸未(1103年)に節度使を襲い、年43。穆宗末年、阿疎の使者・徳恵が辺民の海蘭甸人を誘扇し送らせ、穆宗は碩碩歓に海蘭甸を撫納させようとしたが未だ行かぬうちに穆宗は卒し、康宗がこれを遣わした。先には高麗と通好していたが後にやや隙が生じ、高麗の使者が来て事を議したいと請うたが、使者は高麗に至って拒まれ納れられず、また五水の民が高麗に附し団練使十四人を執えた(詳細は高麗伝にある)。2年甲申(1104年)、高麗は再び来て伐ち、碩碩歓が再びこれを破った。高麗は復び和を請い、前に執えた団練十四人はみな遣り還され、碩碩歓は辺民を撫定して還った。蘇賓水の民が命に聴わなかったため、威泰らに呼爾哈川に至らせ諸官僚を召告させると、鴻鴿部・蘇賓水の斉沃赫貝勒は至らず、威準部の哲爾徳部はすでに至ったが復び逃げ去った。烏塔は二部に瑪奇嶺で遇いこれを執えて来たため、遂に沃赫を伐ってこれを克った。威泰は進んで博斉赫に至り歓塔城を攻め抜いて還った。4年丙戌(1106年)、高麗が黒歓方石を遣わして襲位を賀すと、博囉を遣わして報答した。高麗は逃亡してそこに在る者を還すことを約したため、阿古・双寛を遣わしてこれを受けさせたが、高麗は約に背いて二使を殺し、九城を海蘭甸に築いて数万の兵で来攻したが、烏色がこれを敗った。斡魯もまた九城を築いて高麗の九城と相対したが、高麗は復び来攻し烏色は復びこれを敗った。高麗は逋逃の人を還すこと及び九城の軍を退き侵した故地を復すことを約し、9月に罷兵した。7年己丑(1109年)、歳が登らず盗賊を減らし、償いを徴し貧乏な者を振恤した。11年癸巳(1113年)、康宗は卒した。年五十三。天会15年に恭簡皇帝と追諡され廟号を康宗とし、皇統4年に藏号を喬陵とし、5年に康宗献敏恭簡皇帝と増諡された。

史論

  • 賛にいう。金の初めの頃、兄弟三人は微々たるものであった。熙宗は祖宗を追帝し始祖・景祖・世祖の廟を定め、代々祧遷しないこととした。始祖が六十の婦を娶り二男一女を生んだのは、天ではなかろうか。景祖が遼の籍・遼の印を受けず、雅達の国相を取ってその子(粛宗)に与えたこと、世祖が麻産・窩謀罕を破ったこと、遼の政が日に衰えたこと、そして(穆宗が)太祖を穆宗に属させたことは、その思慮の深遠さを示すものであろう。