- 要旨: 新式の訓練法を兵に信頼させるため、想定問答の形で自説の根拠を説く序文。束伍の法は一度でも疑いを持たれれば全て崩れるため、まず理を尽くして信を得る必要があると述べる。
見世物の武芸は実戦に使えるか
- 問い: 平時に披露される花槍・花刀・花棍・花叉の技は実戦で通用するか。
- 答え: 大軍が隊列を組んで進む実戦では、個人の華麗な動きは通用しない。槍が乱れ飛ぶ中で一人だけ跳んだり退いたりすれば隊列全体が乱れる。
- 平時に十分の技量があっても実戦で出せるのは五分か八分に過ぎず、花のような技(花法)は無用どころか有害であると説く。俞大猷の棍法が実戦で強いのは、対人での型稽古(対戳)に基づき花法を排しているからだとし、藤牌・標槍・鉤鐮・叉鈀もすべて実用一辺倒に鍛えるべきだと述べる。
自説は南北・水陸を問わず通用するか
- 問い: 浙江のために考案した法は他の土地でも通用するのか、机上の空論ではないか。
- 答え: 束伍・号令・賞罰の原理は古今南北を問わず普遍だが、具体的な陣形は浙江の地形と倭寇の習性(用心深く動きが遅い、金銀・牛角で威嚇する兜、鏡を用いて目を眩ませる等)に合わせて作ったものだと説明する。
- 北方は地形が広大で敵騎兵が数万に及ぶため、戦車・騎兵・大軍を編成し、李靖(衛公)の兵法を型どおりでなく応用する必要があると述べ、自らの力量ではその規模の統率は及ばないと謙遜する。
主将自身も武芸を習うべきか
- 問い: 主将は万人を率いる者であり、一芸一技を身につける必要はないのではないか。
- 答え: 主将が陣頭に立たねば敵情も掴めず兵の士気も締まらず、前線の兵に欺かれても見抜けないと反論する。
- 教官任せの査定は不正の温床になり士心が離れるとし、主将が自ら平時から武芸を修め、兵と同じ苦労を共にすることが将たる道であると説く。
- 器具・武芸を主将自身が試さねば良否を見分けられず、晁錯の「其の卒を以て敵に予う」という言葉を引き、未熟な兵器や技を兵に与えることの危険を戒める。
二百年の官軍と一二年の新兵、どちらが練達か
- 問い: 二百年訓練を積んだ官軍と、自分がわずか一二年訓練した兵とではどちらが優れているか。
- 答え: 科挙の受験生が試験に出ない詩詞ばかり学んでも及第できない譬えを引き、実戦に即さない形式的な訓練をいくら重ねても無意味だと説く。
- 官軍の訓練は見栄えばかりの空文で、実戦の号令・陣形・技とは一致していないため、二百年続けても実戦の初日と同じだと批判する。
日常の訓練と真の操
- 問い: 通常の訓練(常操)は実戦に通用するのか、賞罰の機微もそこにあるのか。
- 答え: 兵を操るとは演習場での号令だけでなく、日常の起居振る舞いまで含むと説く。技を操るより心・気性を操る方が難しいとする。
- 兵に「死を楽しみ生を厭う」心を持たせるのは人情に反するが、その中に生きる道(生道)を示すことで初めて命を惜しまず戦えると論じる。恩賞・威罰は金品や刑罰に限らず、一言一動もまたそれに当たると述べ、鷹匠が鷹犬を養う喩えを引いて心気の陶冶の重要性を強調する。