華陽國志卷十一 後賢志

  • 善き記録者は述べて作らず、事実に即して華美を求めない。史遷の記は秦漢に詳しく、班固の書は哀平に備わるのは、時代が近く語り得たからである。西州は晋の代になって以後も俊逸の士が輩出したが、喪乱により典籍の多くが失われた。族祖の武平府君(常寛)がこれを惜しんで記録を残したが三蜀・巴漢に限られ未完であった。常璩は今更にこれを撰び直し、二十人を選んでこの篇に綴ったと述べる(掲げられた官職と姓名の一覧は、文立・柳隠・司馬勝之・常朂・何随・王化・陳寿・李宓・杜軫・任熙・王長文・壽良・何攀・李毅・楊邠・費立・常騫・常寛・譙登・侯馥の二十人)。

文立(字廣休)

  • 巴郡臨江の人。蜀の太学で毛詩・三礼を修め、費禕の従事・尚書郎を経て、蜀滅亡後は梁州の別駕、咸熙元年(264年)秀才に挙げられた。晋の泰始二年(266年)済陰太守、後に皇太子の中庶子となり「賢彦を選び太子を導くべし」と上疏した。蜀の旧臣や諸葛亮・蔣琬・費禕の子孫の任用を進言し、多くが実現した。散騎常侍に任じられても謙譲を貫き、武帝に厚く信頼された。咸寧末年(280年頃)に没し、武帝の計らいで蜀に葬られた。安楽公(劉禅の子孫)の家政にも意見し、著作十篇余りが伝わる。

柳隠(字休然)

  • 蜀郡成都の人。姜維の南征にしばしば従い戦功を挙げ、漢中の黄金囲の督となった。景耀六年(263年)、鍾会の侵攻に対し独り城を堅守した。後主降伏後は晋に仕え西河太守となり、八十歳で没した。

司馬勝之(字興先)

  • 広漢綿竹の人。毛詩・三礼に通じ、澹泊な性格で郡功曹・尚書左選郎を歴任。散騎侍郎から漢嘉太守に任じられるも赴任を固辞し、清静な隠棲を貫いた。

常朂(字脩業)

  • 蜀郡江原の人。学問に篤く、鄧艾の蜀侵攻の際、独り城を固守し民を守った。従弟の忌(字茂通)も学識と剛直さで知られ、河内令として難治の県を治めた。

何随(字季業)

  • 蜀郡郫の人。清廉で知られ、蜀滅亡の飢饉の際、道端の民の芋を綿で目印して代金を払った逸話(「安漢の吏、糧を取りて令これを償う」の語源)が伝わる。江陽太守として慕われた。

王化(字伯逺)

  • 広漢郪の人。王堂の後裔。楽涫令として辺境の反乱を鎮め、朱提太守として夷晋の心を得た。弟の振・岱・崇もそれぞれ名を残した。

陳寿(字承祚)

  • 巴西安漢の人。譙周に師事し、著作郎として『益部耆旧伝』十篇、そして『魏呉蜀三書』六十五篇(後の『三国志』)を著した。荀勗・張華に高く評価され「班固・司馬遷に劣らず」と称されたが、諸葛亮の史論を巡って荀勗の不興を買い長広太守に左遷される曲折もあった。継母の遺言で附葬しなかったことを譏られる面もあったが、太子中庶子を経て散騎常侍を兼ねた。洛陽で没し、その才に見合う地位を得られなかったことを人々は惜しんだ。兄の子の陳符・陳莅・陳階も文才で知られた。

李宓(字令伯)

  • 犍為武陽の人。祖母への孝行で知られ(「陳情表」の趣旨、祖母の老いを理由に出仕を拒んだ逸話)、後に尚書郎・河内温令・漢中太守を歴任。呉への使者として「官の馬は有り余るが民は自足するのみ」と機知に富んだ問答を残した。著述十篇があり六人の子は「六龍」と称された。

杜軫(字超宗)

  • 蜀郡成都の人。譙周に学び、鄧艾侵攻の混乱期に的確な進言を行い、建寧令・犍為太守を歴任。弟の烈・良もそれぞれ太守となった。

任熙(字伯逺)

  • 蜀郡成都の人。孝行で知られ、南鄭令・梓潼令を清静な政治で治めた。詩誄論難を多く著した。

王長文(字德雋)

  • 広漢郪の人。仮病や狂を装い出仕を避けたが、後に蜀郡太守となった。『無名子』『通経』『春秋三伝』などを著し、江原令として教化に努めた逸話(蝋節の囚人を家に帰し感化させた話)が伝わる。

壽良(字文淑)

  • 蜀郡成都の人。春秋三伝・五経に通じ、始平太守を経て黄門侍郎・散騎常侍・大長秋に至った。

何攀(字惠興)

  • 蜀郡郫の人。王濬の伐呉計画を助け、造船・兵力動員の具体策を献じた功臣。羊祜との連携を進言し、呉平定後は西城公に封じられた。楊駿誅殺の際にも功を挙げ、清廉な人柄で知られた。

李毅(字允剛)

  • 広漢郪の人。王濬に見出され、益州の反乱鎮圧に功を挙げ南夷校尉・寧州刺史となった。晩年、李雄の侵攻を受け窮城で病没、忠節を追贈された。娘の秀も父の遺志を継ぎ州の統治にあたった。

楊邠(字岐之)

  • 犍為武陽の人。汶山太守・衡陽内史を歴任し、永嘉の乱で流民の反乱に囲まれても節を守り城を枕に殉じた。

費立(字建熙)

  • 犍為南安の人。成都令として難治の県を治め、梁益寧三州都督を兼ねた。永嘉六年(312年)、子と共に胡冦に没した。

常騫(字季慎)

  • 蜀郡江原の人。清廉と友愛で知られ、湘東太守として没した。

常寛(字泰恭)

  • 騫の族弟。学問に篤く、交州での隠遁生活の中でも著述を続け、『蜀後志』『後賢志』の続編を著した(陳寿の耆旧伝を継承)。武平太守として徳政を行った。

譙登(字慎明)

  • 巴西西充国の人。譙周の孫。李特の乱で父を殺されたことを恨みとし、梓潼内史として李雄と戦い続けたが、糧食が尽きる中でも降伏を拒み、最終的に李驤に捕らえられ殺された。慷慨の言辞と不屈の姿勢が伝えられる。

侯馥(字世明)

  • 江陽の人。王遜のもとで江陽太守として夷獠の懐柔に努めたが李雄軍に敗れ捕らえられた。李雄の前でも「国が亡んで存せられず、大難に死ねなかったのは恥」と述べ節を曲げず、その義に感じた雄に赦された。

史論

  • 譔曰く、文王には多士があり、才はそれぞれ用いる所を異にした。孔門の七十子も行いはそれぞれ異なったが、行き着く所は一つであった。これら諸子も、珪璋の質を持つ者、瑚璉の器を抱く者、儒学に沈潜する者、王佐の略を秘める者など様々だが、いずれも西土の珍彦、聖晋の多士であった。ただ辺境に生まれ仕えた期間が短く、その能を十分に発揮できなかった者も多い。とはいえ趙氏・李氏・張氏・何氏らの事跡に及ぶ者は稀である。譙登・侯馥の忠義は志半ばで遂げられなかったことが哀しいと評す。