間書田単の反間――楽毅を陥れる
その人物そのものを反間によって陥れる場合がある。戦国の田単が楽毅に対して行ったようなものである。
『戦国策』にいう。楽毅は燕の昭王のために五国の兵を合わせて斉を攻め、七十余城を陥落させたが、三城がまだ落ちないうちに昭王が薨じた。恵王が即位すると、斉の人間による反間の計を用いて楽毅を疑い、騎劫を代わりの将とした。楽毅は趙に亡命した。……斉の田単は騎劫を欺き、ついに燕軍を敗った。奪われていた七十余城をことごとく取り戻した。
『史記』にいう。燕の昭王は楽毅を将として、斉を破ること七十余城に及んだ。恵王が立つと、楽毅との間に隙が生じた。斉の将、田単はそこで燕に反間を放ち、言いふらさせた。「斉王はすでに死んだ。落ちていない城はあと二つだけだ。楽毅は誅されることを恐れて帰らず、斉を討つことを名目にしながら、実は兵を連ねて南面し斉の王になろうとしている。斉の人がまだ心服していないので、しばらく攻撃を緩めているのだ」と。燕王はこれを本当だと思い、騎劫を楽毅に代えて将とした。燕の兵士たちは心が離れた。田単はさらに反間を放って言った。「私は燕の人々が我が城外の塚墓を掘り、先人を辱めるのを恐れている」と。燕軍はその通りにした。即墨の人々は激怒して戦いを求め、燕軍を大いに破った。失われていた七十余城は、ことごとく取り戻された。
按ずるに、田単が楽毅に反間を行ったのは、すなわち『李衛公兵法』にいう「間能」の法である。その墓を掘らせる間諜の計略は、我が清朝の金淳もかつて用いたことがある。昔、嘉慶二年、貴州の南籠府で苗族の変が起こり、城が包囲されたとき、城中の民は城を出て避難しようとした。経歴(官職名)の金淳は、間諜を使って苗族に民の墓を掘らせ、民を怒らせて、金淳を助けて死守させた。