綱
- 生間を巧みに用いた例。賢能の者を生間とする法である。子貢・陳平のほかに、春秋の礼至が邢に対して行ったものがある。
礼至と邢
- 『左傳』僖公二十四年 ― 衛人が邢を伐とうとしたとき、礼至は「その守りの要人を手に入れなければ、国は取れない」と言った。注に「衛のために間諜となることを願い出て、まず兄弟とともに邢へ行って仕官を求めた」とある。
- 按 ― これは孫子のいう「生間」である。その意図はとりわけ深く険しい。昔の人が『左傳』を兵書とみなしたのには、それだけの理由がある。だから古の名将、関壮繆(関羽)・杜征南(杜預)・岳忠武(岳飛)といった賢者は、みなこれを読むことを好んだ。
燭之武と秦繆公
- 『左傳』僖公三十年 ― 晋侯と秦伯が鄭を囲んだ。鄭が晋に無礼を働き、かつ楚に二心を抱いたからである。晋は函陵に、秦は汜南に軍した。佚之狐が鄭伯に「国が危うい。燭之武を秦君に会わせれば、必ず軍は退きます」と言い、公はこれに従った。
- 燭之武は夜、縄で城壁を降りて出、秦伯に会って言った ―「秦と晋が鄭を囲み、鄭はもう滅ぶと承知しております。もし鄭を滅ぼすことが君のためになるのなら、あえてお手を煩わせもしましょう。しかし他国を越えて遠い土地を自国の辺境とするのは、難しいことだと君もご存じのはず。なぜ鄭を滅ぼして隣国(晋)を肥やされるのか。隣が厚くなれば君は薄くなる。もし鄭を残して東方の宿駅とされれば、使節の往来に不足を補うことができ、君にも何の害もありません。
それに君はかつて晋君に恩を与えられた。晋は焦・瑕を与えると約しながら、朝に河を渡ってその夕には防塁を築いた。君のご存じのとおりです。そもそも晋にどんな飽きがありましょう。東に鄭を境として封じたら、次は西へ境を広げようとする。秦を削らずしてどこから取るのか。秦を削って晋を利する ― どうかお考えください」。秦伯は喜び、鄭人と盟を結んで引き上げた。
- 按 ― 『左傳』の燭之武が秦と晋を離間したのは、『戰國策』の張孟談が韓・魏を離間したのと同じ手である。ただし燭之武は秦軍を退かせただけだが、張孟談は韓・魏を離間したうえで智伯を滅ぼした。世の風が下るにつれ、その間はますます険しくなっていく。