綱
韋皋と雲南王
- 『資治通鑑』唐紀 ― 吐蕃が十万の兵で西川を侵そうとし、雲南(南詔)にも出兵させた。雲南は内心では唐に付いていたが、表向きはまだ吐蕃に背く勇気がなく、数万の兵を瀘水の北に駐屯させていた。韋皋は雲南が迷っていることを知り、雲南王に宛てて「吐蕃に背いて帰順する誠意」を述べた書状を作り、銀の函に入れて東蠻に託し、吐蕃へ回るように仕向けた。吐蕃ははじめて雲南を疑い、二万の兵を会川に駐屯させて、雲南から蜀へ向かう道を塞いだ。雲南は怒って兵を引き上げ、以後、雲南と吐蕃は激しく猜疑し合い、唐に帰順する意志はいっそう固まった。吐蕃は雲南の助けを失って、兵勢はここから弱まった。
- 按 ― いま上流と下流の苗匪が結ぶことを恐れ、苗匪と土賊が結ぶことを恐れるなら、この法を参考にして離間すべきである。
岳飛と金の諜者
- 『宋史』岳飛伝 ― 岳飛は、劉豫が粘罕と結んでいる一方、兀朮が劉豫を憎んでいることを知り、離間して動かせると考えた。ちょうど軍中で兀朮の諜者を捕らえた。岳飛はわざと叱りつけた ―「おまえはわが軍の張斌ではないか。以前おまえを斉(劉豫)へ遣わし、四太子(兀朮)をおびき寄せる約束をさせたのに、行ったきり戻らなかった。続いて人をやって斉に問うたところ、すでに『この冬、長江を侵すという名目で四太子を清河に誘い出す』と承諾があった。おまえが持たされた書状はついに届かなかった。なぜ私を裏切った」。諜者は死を免れたい一心で、口裏を合わせた。そこで岳飛は蝋書を作り、劉豫と共謀して兀朮を誅する件を書いた。そして諜者に「今回は命を助ける。また斉へ行って挙兵の期日を問うてこい」と言い、自分の股を裂いて書を納め、「漏らすな」と戒めた。諜者は帰ってその書を兀朮に見せた。兀朮は大いに驚き、馬を走らせて主君に報告した。かくて劉豫は廃された。
- 按 ― 股を裂いて納めたのだから、いっそう密である。それだけに信じさせやすい。
種世衡と野利
- 『宋史』 ― 元昊には野利王・天都王と号する腹心の将がおり、それぞれ精兵を率いて最も害をなしていた。種世衡はこれを除こうと謀った。
- 野利がかつて浪埋・賞乞・媚娘の三人を送って降伏を申し出させたとき、種世衡はそれが偽りと知りながら「殺すよりは、これを間として使うがよい」と言い、留めて徴税を監督させ、出入りに騎従を付けて厚遇した。
- 紫山寺に法崧という僧がいた。世衡は堅実で朴訥な人柄を見て使えると考え、門下に招いて還俗させ、出兵の際に賊を討った功があったと帥府に報告して、三班の階職・指揮使に任じさせ、その家事も力を尽くして整え、住居も騎従の道具も何ひとつ不足なく揃えてやった。法崧は酒に溺れ博打にふけって放埒だったが、世衡はいっそう厚遇した。法崧は恩を感じた。
- ある日、世衡は突然怒って言った ―「私はおまえを子のように遇したのに、ひそかに賊と通じているとは、何という裏切りだ」。そして数十日にわたって枷をはめ、責め苦を極めた。法崧は最後まで怨まず「私は士大夫です。公が姦人の言を聞いて私を殺そうとするなら、死ぬまでのこと」と言った。
- 半年ののち、世衡は彼が裏切っていないことを見きわめ、縄を解き沐浴させ、寝所に招き入れて厚く詫びた。「おまえに過ちはない。ちょっと試したのだ。間として使いたいのだが、その苦しみはこれ以上のものになる。私のために最後まで口を割らずにいられるか」。法崧は泣いて承知した。
- そこで世衡は野利宛ての書状を草し、蝋で固めて僧衣の中に入れ、密かに縫い込んだ。そして「これは死に瀕するまで漏らすな。漏らすときは『恩に背いて将軍の事を成せなかった』と言え」と言い含めた。また亀の絵一幅と棗を一包み、野利への贈り物として持たせた。
- 野利は棗と亀を見て、必ず書状があると察して求めたが、法崧は左右に目をやり「ありません」と答えた。野利は封じて元昊に差し出した。元昊は法崧と野利を数百里の外へ召し出し、書状のことを問い詰めた。法崧は「書状はない」と言い張り、鞭打ちの苦しみを極めてもついに口を割らなかった。
- 数日後、ひそかに宮中へ召され、人を使って「早く言わねば死だぞ」と問わせたが、法崧はなお口を割らない。引き出して斬れと命じられると、法崧はここで大声を上げた ―「むだ死にして将軍の事を果たせぬ。私は将軍に背いた、将軍に背いた」。追及されて僧衣を脱ぎ、書状を取り出して差し出した。しばらくして法崧は宿舎に留め置かれた。
- 元昊はひそかに寵将を野利の使者に仕立てて世衡のもとへ送った。世衡は元昊の使いではないかと疑って、すぐには会わず、属官に毎日宿舎へ見舞わせた。興州のことを問えば詳しいが、野利の部下のことになると知らない。ちょうど捕虜数人を得たので、世衡は隙間からひそかに覗かせたところ、捕虜が使者の姓名を言い、果たして元昊の使いであることがわかった。そこで使者を引見して厚く送り返した。世衡は使者が帰れば法崧も戻ると読んだが、野利はすでに死んだとの報せが来た。
- 世衡は野利を殺したうえ、天都王も除こうとした。国境で祭を設け、祭文を板に書いた ― 二将が内通して事は成りかけていたのに、本朝がその成就目前の失敗を悼む、という内容である。その祭文を紙銭に紛れ込ませ、賊が来ると急いで捨てて帰った。板の文字はすぐには消せず、賊はこれを得て元昊に献じた。天都王もまた罪に落ちた。和議が定まってのち、法崧は王嵩と本姓に復し、後に諸司使にまで昇った。
- 按 ― この件は『資治通鑑』宋紀および沈括『補筆談』にも載り、大同小異である。『補筆談』では、世衡は法崧に軍機の密事数条を渡して「これを手土産にせよ」と言い、出発に際して自分の着ていた綿入れを解いて贈り「北地は寒い。これを餞別に」と言い、「向こうでは万策を尽くして遇乞(=野利)に会え。この人でなければ腹心を得られない」と教えた。法崧はそのとおりにしたが、北人に怪しまれて役所に捕らえられ、数日して綿入れの襟から世衡の遇乞宛ての、きわめて親密な文面の書状が発見された。法崧は襟の中の書状のことを知らされていなかった。北人は責め苦を極めたが、ついに実情を言わなかった。北人はそのため遇乞を疑って殺した。法崧は北の辺境に移されたが、逃げ帰った。
- 『筆談』の記述によれば、襟の中の書状は法崧自身も知らなかったことになる。法崧の胆力は壮んで、その間はいっそう密であり、策はいっそう奇である。