間書王守仁と李士実・優人/李充嗣と宸濠/趙奢と陳平
綱
- 明の王守仁が李士実および優人(芸人)に対して行ったもの。
王守仁と李士実
- 『三大功臣傳』 ― 宸濠が反乱を起こしたとき、王守仁はまだ兵が集まっておらず、宸濠の兵が早く出てくることを憂えた。そこで毎日、諸郡邑に糧食を用意させる檄を出した。さらに李士実・劉養正に宛てて蝋書を作り「密書、確かに拝受した。国に尽くす御意向は承知した。ともかく煽って早く出させよ。省城を一歩でも離れれば、大事は成る」と書いた。そのうえで宸濠の諜者をわざと捕らえて斬ると見せかけ、狡猾な監視役に、宸濠と内通しているふりをして情報を漏らさせ、逃がしてやった。宸濠は書を手に入れて逡巡した。李士実・養正に諮ると、二人はそろって「急ぎ南京へ向かい、即位すべし」と勧める。宸濠はいよいよ内心疑い、十余日を空費した。中外の兵が来ないと知って、はじめて守仁に騙されたと悟った。
- 『智囊補』 ― 王陽明は豊城を通ったとき逆賊宸濠の変を聞き、兵力が整わないまま急ぎ川を遡って吉安へ向かおうとした。船頭は宸濠が千余人を出して公を襲うと聞いて怖じ、船を出そうとしない。公は剣を抜いてその耳を削ぎ、ようやく出発した。日暮れ、これ以上進めないと見て、ひそかに漁船を見つけて微行し、部下ひとりに自分の冠を着せて船に残した。宸濠の兵は果たして船を襲い、身代わりを捕らえた。公が遠くへ去ったと知って引き上げた。
- 公は途中、宸濠が早く出撃することを恐れ、間諜を仕掛けた。朝廷の密旨を奉じたと偽り、両広・湖襄の都御史および両京の兵部に、それぞれ将に命じて出師させ、要害の地にひそかに伏せて宸濠の兵が来たら襲殺せよ、との令を出したことにしたのである。さらに優人数名を捕らえ、それぞれの袷衣の綿の中に公文書を仕込んだ。間を放とうというとき、偽太師の家族を船尾に捕らえてきて、優人に見えるようにさせたうえで、わざと怒って岸に引き立てて斬ると見せかけ、そのあとわざと逃がして報告に走らせた。宸濠は優人を捕らえ、果たして袋の中から公文書を見つけて、出撃をためらった。
- また ― 公は吉安に至り、兵糧の手配がおおよそ整うと、はじめて檄を伝えて兵を徴し南昌の省城へ向かった。偵察者が「新旧の廠に一万余の伏兵があり、掎角の勢を成しています」と報じると、公は兵を間道からやって撃破した。そして伍丈定らに方略を授けた ― まず遊兵で誘い、次に偽って敗走して引き寄せ、敵が我先に利を争って前へ出たところで四面から合撃し、伏兵を一斉に起こす。さらに城中の宗室が内応して変を起こすことを慮り、自ら赴いて慰撫した。そして告示を出した ―「脅されて従った者は問わない。賊の官職を受けた者でも、逃げ帰れば死を免ずる。賊を斬って降る者には賞を与える」。これを内外の住民や道案内らに四方へ伝えさせた。また兵を分けて九江・南康を攻め、退路を断った。かくて諸方の力が一斉に挙がり、逆賊の首魁は捕らえられた。
- 按 ― 王文成(守仁)の李士実に対する手は、岳武穆(岳飛)が金の諜者に用いた故智である。優人に対する手は、種世衡が法崧に用いた故智である。しかもその変化がとりわけ妙で、踏襲だと感じさせない。
李充嗣と宸濠
- 陳儒継『見聞錄』 ― 宸濠の敗北は、功績としては陽明に帰したが、実際には李梧山の力が大きかった。李は諱を充嗣といい、四川内江の人。正徳十四年に南畿を巡撫し、宸濠が護衛を増やしていると聞いて「虎に翼だ。禍が起ころうとしている」と嘆き、反状を力説したが、廷議は難色を示した。そこで武備を整え、衆中でひとり指揮使の楊鋭に会釈して進み出させ「皖城(安慶)の守りは、君に委ねる」と言った。
- 十五年、賊兵が九江を陥れた。公は自ら采石に屯して上流の道を塞ぎ、皖城に急使を飛ばして、楊鋭に機を見て応戦させた。出撃すればことごとく勝った。
- そのうえで間諜に火牌(緊急の伝令札)を発した。「緊急軍情の件。欽差太監・総兵らの官が辺境の官軍十万余を統率し、半数は南京へ、半数はまっすぐ安慶へ向かう。あわせて両広の狼兵、湖広の土官を調発し、即日、水陸ともに進んで安慶に集結。期日を定めて江西の叛賊を攻める。いまこの火牌を前路の官司に飛報するので、一体同心して防守し、糧草を予備して待機せよ」。
- 宸濠の船が李陽河に至ったところでこの火牌に出会い、読んで驚愕した。これによって離散する者が半数に及んだ。続いて水兵千人を発し、旗印を盛んに掲げ、飛艦百余艘に乗って鼓を打ち鳴らして進み、安慶の応援であると称した。城中はこれを望み見て士気百倍し、楊鋭はただちに門を開いて撃って出、水陸から挟撃して賊は大いに潰えた。宸濠は黄石磯に陣していたが敗報を聞いて夜逃げした。公は自ら兵を率いて追撃した。宸濠は鄱陽湖へ逃げ込み、そこへ陽明が兵を率いて至り、ついに捕らえられた。
- 後の論功では公に及ばなかった。胡御史潔がその一部始終を目撃していて、特に上申したが、取り上げられなかった。
- 按 ― 火牌によって反間するのは、書状によるのと同じことだ。これこそ変化に長けた者である。
敵の間をそのまま逆用する ― 趙奢と陳平
- 趙奢(『史記』廉頗伝) ― 秦が韓を伐って閼与に陣した。趙王が廉頗に「救えるか」と問うと「道は遠く険しく狭い。救い難い」と答えた。趙奢に問うと「道が遠く険しく狭いのは、たとえば二匹の鼠が穴の中で闘うようなもの。勇ある将が勝ちます」と答えた。王は趙奢を将として救援に向かわせた。
- 邯鄲を出て三十里、趙奢は軍中に令した ―「軍事について諫言する者は死罪」。秦軍は武安の西に陣し、鼓を打ち鳴らして兵を練り、武安の家々の瓦が震えるほどだった。軍中の斥候のひとりが「急ぎ武安を救うべし」と言うと、趙奢はただちに斬った。そして堅く壁を守り、二十八日間動かず、さらに塁を増築した。秦の間者が入ってくると、趙奢は手厚くもてなして帰した。間者が秦の将に報告すると、将は大いに喜んで「国を出て三十里で軍が進まず、塁を増やしているとは。閼与はもう趙の地ではない」と言った。
- 趙奢は秦の間を送り出すと、ただちに甲を巻いて急行し、二日一夜で到着、弓の名手を閼与の五十里手前に布陣させた。塁が完成したところで秦人がこれを知り、全軍を挙げて到着した。軍士の許暦が「先に北山の上を占めた方が勝ち、後から着いた方が負けます」と進言し、趙奢は承知して一万人を急行させた。秦兵は後れて山を争ったが登れず、趙奢は兵を放って撃ち、秦軍を大破した。
- 陳平(『史記』陳丞相世家) ― 陳平は言った ―「項王の骨のある臣は、亜父(范増)・鍾離昧・龍且・周殷ら数人に過ぎません。大王がまことに数万斤の金を出して反間を行い、その君臣を離間して疑心を生じさせれば、項王は猜疑深く讒言を信じる人柄ゆえ、必ず内輪で誅殺し合います。漢が兵を挙げて攻めれば、楚を破ることは必定です」。漢王はもっともと考え、黄金四万斤を陳平に与え、思うままにさせて出納を問わなかった。
- 陳平は多額の金で楚軍に反間を放ち、「鍾離昧らは項王の将として功が多いのに、ついに土地を裂いて王とされない。漢と一体になって項氏を滅ぼし、その地を分け取ろうとしている」と言いふらした。項王は果たして鍾離昧らを疑い、漢へ使者を送った。漢王は太牢の御馳走を用意させたが、楚の使者を見るとわざと驚いたふりをして「亜父の使いかと思ったら、項王の使いだったか」と言い、御馳走を下げさせて粗末な食事に取り替えさせた。使者が帰って報告すると、項王は果たして亜父を大いに疑った。亜父は急ぎ滎陽を攻め落とそうとしたが、項王は信じず聞き入れない。亜父は疑われたと知って怒り「天下の事はほぼ定まりました。君王ご自身でおやりなさい。骸骨を賜りたい」と言い、彭城に着かぬうちに背に腫れ物を発して死んだ。