綱
- 古の名将が名将と対峙するとき、間を用いた側が勝つ。秦の白起と趙の廉頗はともに名将だが、秦が間を用いたので秦が勝った。秦の王翦と趙の李牧もともに名将だが、秦がまた間を用いたので秦がまた勝った。
事例
- 長平(『史記』廉頗伝) ― 秦と趙が長平で対峙し、趙は廉頗を将としたが、廉頗は堅く守って戦わなかった。秦がしきりに挑発しても応じない。そこで趙王は秦の流した間の言を信じた。間はこう言った ―「秦がただ恐れているのは、馬服君趙奢の子・趙括が将になることだけだ」。趙王は趙括を将として廉頗と交代させた。趙括は着任するや軍規をことごとく改め、軍吏を入れ替えた。これを聞いた白起は、奇兵を放って偽って敗走し、糧道を断ち、趙軍を二つに分断した。士卒は離心し、四十余日で軍は飢えた。趙括が精鋭を率いて自ら突撃したが秦軍に射殺され、数十万の兵は降伏し、秦はことごとく生き埋めにした。
- 李牧の誅殺(同前) ― 秦が王翦に趙を攻めさせると、趙は李牧・司馬尚に防がせた。秦は趙王の寵臣・郭開に多額の金を与えて反間とし、「李牧と司馬尚は謀反しようとしている」と言わせた。趙王は趙葱と斉の将顔聚を代わりに立てた。李牧は命に従わず、趙は人をやってひそかに李牧を捕らえて斬り、司馬尚を罷免した。三か月後、王翦は急襲して趙葱を殺し、趙王遷と顔聚を捕らえ、ついに趙を滅ぼした。
按(朱逢甲の評)
- 廉頗も李牧もともに趙の将であり、ともに秦の間にかけられた。李牧は郭開の間によって死に、廉頗も後に郭開の間によって廃された。
- 『史記』にいう ― 趙王が再び廉頗を用いようと思い、使者をやってまだ使えるかどうか見させた。廉頗の仇である郭開は使者に多額の金を与えて悪く言わせた。使者に会った廉頗は、一食に米一斗と肉十斤をたいらげ、甲を着て馬に乗ってみせ、まだ使えることを示した。しかし使者は帰って王に「廉将軍は老いてはいるが、よく食べます。ただ、私と座っているあいだに三度も便をもらしました」と報告した。趙王は老いたと判断し、ついに召さなかった。
- 郭開ひとりのために二人の良将が間にかけられたのである。後に三軍を預かる者は、つまらぬ者の言葉を軽々しく聞き入れてはならない。