間書間を用いてこそ敵情を先に知る ― 孫子・呉子と名将たち

  • 古の兵書、『孫子』『吳子』はいずれも間諜を重んじる。間を用いてこそ敵情を先に知ることができ、間を用いてこそ敵の結束を離散させることができる。

兵書の言

  • 『孫子』用間篇 ― 「明君・賢将が動いて人に勝ち、成功が衆に抜きん出るのは、先に知るからである。先に知るとは、鬼神に頼るのでも、過去の事例から類推するのでも、天度で験するのでもない。必ず人から取って敵情を知るのである」「聖なる者でなければ間を用いることはできず、緻密で秘密を守れる者でなければ間の実を得ることはできない」。
  • 『吳子』 ― 「よく間諜を行い、軽兵を往来させ、その衆を分散させ、君臣を相怨ませ上下を相咎めさせる。これを事機という」。

名将の実例

  • 李牧(『史記』廉頗伝) ― 趙の北辺の良将。代・雁門に駐屯して匈奴に備え、烽火を厳重にし、間諜を多く放った。
  • 信陵君(『史記』信陵君伝) ― 魏王と博打をしていたとき、北境から「趙の兵が国境に迫る」との烽火の報が来た。魏王は驚いて大臣を召そうとしたが、公子は「趙王が狩りをしているだけで、侵攻ではありません」と止め、平然と博打を続けた。やがて果たしてそのとおりの報が届き、魏王が驚いて理由を問うと、公子は「私の食客に趙王の内情を探れる者がおります。趙王のすることは、その客がいつも報告してくれるのです」と答えた。
  • 韓信(『史記』淮陰侯伝) ― 韓信が井陘を下って趙を撃とうとしたとき、広武君李左車は成安君に「奇兵三万で間道から輜重を断ち、正面は堅守せよ。十日で両将の首が取れる」と進言した。成安君はこれを容れなかった。韓信は間者を放ってその策が用いられていないことを知り、大いに喜んではじめて兵を進め、趙軍を大破して成安君を斬り、趙王歇を捕らえた。
  • 李光弼(『唐書』李光弼伝) ― 饒陽の賊五千が九門に至ったとき、光弼は諜報でこれを知り、軽兵を率いて旗鼓を伏せ、賊がちょうど食事をしている隙を襲って、ほぼ全滅させた。

按(朱逢甲の評)

  • 用兵は己を知り彼を知ることを貴ぶ。彼を知るには必ず間を用いるしかない。しかも「知る」ことは事前に知ることが尊い。敵が来るとわかっていれば備えることができ、敵が来ないとわかっていれば恐れずにすむ。
  • 信陵君は食客を間として用い、趙王の行動が狩りであって侵攻でないことを先に知ることができた。もし本当に侵攻だったとしても、信陵君は必ず先に知っていただろう。信陵君は間を用いることに長けており、孫子の言葉と「英雄所見略同」である。
  • 『史記』によれば信陵君には『魏公子兵法』の著作があった。その書には用間について精しく述べられていたはずだが、いま『孫子』十三篇は伝わって『魏公子兵法』は伝わらない。惜しいことである。しかも間に長けた信陵君が、後に魏王が秦の間にかかったせいで、間によって失脚した。慨嘆すべきことである。
  • 韓信は間を放って広武君の策が採られていないことを知り、それから進撃した。これが要点である。もし策が採られているのに進めば捕虜になり、採られていないのに進まなければ機を失う。進退の適否は、ひとえに間を放って見させることにかかっている。今の軍の進退も、間を放って見させずにいてよいものだろうか。
  • 信陵君は間によって兵を止め、李光弼は間によって鋭く進んだ。いずれも虚実を先に知ったからである。虚実を知ろうとするなら、まず間を用いることだ。