西夏書事卷四十二 宋理宗(金正大四年・蒙古太祖二十二年) 寶慶三年(夏乾定四年) 1227年
- 晛は国勢が危うい中、即位しても改元せず乾定を称え続けた。
蒙古軍の猛攻と国土の陥落
- 春正月、金の使者が正旦を賀した。軍務が多忙で儀礼は簡略に行われた。
- 二月、蒙古が積石州を取った。夏は春寒で兵馬が疲弊し戦えず、千戸按竺邇の先登により落城、蒙古軍は駐屯中に疫病に悩まされた。晛は奇襲を謀ったが、耶律楚材が大黄で将兵の病を癒やしたため実行できなかった。
- 三月、蒙古が沙州を破った。守将は偽って降伏を装い伏兵を用意したが、蒙古の忽都鉄穆児が危うく難を逃れ反撃、沙州は陥落した。
- 夏四月、右丞相高良惠が没した。良惠は忠実で経世の才があり、遵頊の代から度々進言したが用いられず、徳旺の代に金との和議三策を進言し実現させた。晛の代には質子を送らぬことを諫めたが聞かれず、蒙古軍来襲後は日夜守りに努め過労のうちに没した。享年六十七。晛は三日その喪に哭した。
- 閏五月、蒙古が使者を送り降伏を諭した。援軍が来ぬまま晛が屈しないのを見て千戸察罕を遣い禍福を説いたが応じなかった。
- 六月、太白が東井に入り、大地震で宮殿が壊れ王城で夜哭が起きた。
- 国主晛が出降し、蒙古がこれを捕らえて連行した。城は半年籠城し食料も尽き軍民ともに疲弊したため、晛は文官李仲諤・武官嵬名令公らと図籍を奉じて降った。
- 秋七月、薩里川で晛が殺された。晛は一族とともに蒙古軍に従い薩里川に至ったが、蒙古主が没したため諸将が変事を恐れ晛を殺した。在位二年で国は滅んだ。夏は思恭以来定難節度から徳明の夏王封まで十一世百五十四年、元昊称帝から晛の滅亡まで十主百九十六年に及んだ。
史論
- 晛は即位一年余りで施策も乏しく、蒙古との積年の恨みの中、興州で兵に窮し民が穴居する状況にあっては最後の一戦に賭けるべきであったと評す。漢の北地・秦の仏念の例を引き、社稷を託された身でありながら屈膝して俘囚となる道を選び、生を偸みながら生き延びられなかったことを、徳任の死に比べて恥じるべきと論じる。