西夏書事卷四十一 宋寧宗(金興定五年・蒙古太祖十六年) 嘉定十四年(夏光定十一年) 1221年

金・蒙古との攻防

  • 春二月、金の捜嵬堡を侵した。金は会州奪還を議したが、夏兵はすでに会州から侵入し、陝西行省元帥白撒の伏兵と鄜延元帥府軍に阻まれ進めず、捜嵬堡に転じたが寧遠節度夾谷海寿に敗れた。
  • 三月、来羌城を破ったが金に奪還された。金の叛人竇趙児の誘いで夏が来羌を破り拠ったが、金将孛术魯合住が内応者を得て奪還し、夏兵は争えなかった。
  • 蒙古の将木華黎が河を渡り西進した。秋八月、使者を送り兵を伴わせ労った。蒙古軍の到来を恐れた遵頊は監府塔海に宴を催させ、河南使塔哥甘普らの兵五万をこれに属させた。

権鼎雄の卒去

  • 夏五月、吏部尚書権鼎雄が没した。涼州の人で天慶年間に進士に挙げられ翰林学士となった人物。安全の簒奪に際し官を棄てて隠れ、遵頊の即位後に左樞密使として召され、金への謝礼使として接伴儀礼を巡り論争し評価された。吏部に進んでからも公正な人事で知られた。

鳳州侵入と会師要求

  • 秋九月、兵を鳳州に入れ会師しての金討伐を求めた。夏の百余騎が鳳州に突入し守将に出兵を迫ったが、安撫使崔与之の指示により都統李沖が正式な使者を通すよう諭し、夏側は動かせないと悟って引き下がった。

史論

  • 会師という大事を使者を通さず兵で脅して求めたことに、遵頊の無礼さが表れていると評す。

蒙古との合流と敗戦

  • 冬十月、再び将を送り蒙古兵と綏徳州で合流させた。木華黎・塔哥甘普が葭州を取り綏徳を攻め馬蹄・克戎両砦を破ったのち、遵頊は大将迷僕に兵を率いて合流させたが、迷僕は木華黎への拝礼を巡り「王命を受けていない」として先に進んだ。
  • 十一月、金の安塞堡を攻めて敗れた。迷僕の軍が安塞堡を囲んだところ、金の完顏合達・納合買住が先に夏を破ろうと夜襲をかけ、備えのない夏兵は四十里潰走し崖谷に落ちて死ぬ者が多数出た。木華黎の大軍が到着すると迷僕は馬を献じて拝し、延安を包囲したが合達らの防戦で落とせなかった。
  • 十二月、金の龕谷砦・定西・積石など諸州を侵した。金主が臨洮路総管女奚烈古里間らに諸蕃族の兵をまとめ夏討伐を図らせたのを聞き、遵頊は先んじて数十万の兵を三道に分けて諸城を攻め、金の辺境は大きく荒廃した。