西夏書事卷四十一 宋寧宗(金興定三年・蒙古太祖十四年) 嘉定十二年(夏光定九年) 1219年
対金和平交渉の停滞と軍事衝突
- 春二月、再び四川に使者を送り金を討つための会師を求めた。金主は長安遷都を議し左都監赤盞石喜に鞏州の守りを固めさせており、遵頊はこれを恐れて樞密都招討使甯子寕・忠翼を四川に赴かせ秦州・鞏州の挟撃を求めたが、制置使聶子述の後任が定まらず実現しなかった。
- 閏三月、再び金に和を請うたが許されず、葭州の通秦砦を襲い破った。金の宰臣は互市を求める文を「時間稼ぎ」とみなし応じなかったため、遵頊は兵を用いて刺史紇石烈王家奴らを殺し、砦をすぐに放棄して帰った。
史論
- 「復請」「不許」の書き方に著者の評価が表れている。夏は改めて停戦を求めたにもかかわらず金がこれを疑い応じなかったため、葭州・秦州の間で戦禍が広がった。国を治める者としてこのような対応は拙いと批判する。
通秦堡をめぐる攻防
- 夏四月、通秦堡を奪ったが、金の都総管慶山奴に奪還された。遵頊は二万騎で破ったが、慶山奴配下の納合買住の来援で夏兵は一旦退き、その後再度奪取したものの慶山奴自ら攻めて夏兵は五千級を斬られ葭蘆川から敗走した。
- 五月、金人が隆州を侵した。夏が通秦への侵攻を繰り返したため、金の鄜延路兵馬都総管完顏合達が国内の手薄をついて安塞堡から出兵、隆州で夏の步騎二千を破り城の西北隅まで攻めたが、日暮れで引き退き城は保たれた。
史論
- 前は「伐」と書き今回は「侵」と書くのは、金の行為を是としないためである。夏が二度和平を求めたのに金が許さず攻囲したのは義兵とは言えないと論じる。
威戎砦・張祐の帰還
- 六月、金の威戎砦を攻めた。陝西で黒風が起こり地震が城を大きく損なう中で乗じたが、知威戎事商衡が蕃部・土豪を率いて七日間守り抜き、落とせなかった。
- 冬十一月、金の嵐州倉使張祐を帰した。祐は金の明昌年間に夏に捕らえられ降伏を拒んで抑留されていたが、帰国を求め遵頊はこれを許した。
史論
- 「帰」の語は好意的な評価を表す。夏は和を求めて許されず一時交戦したものの、俘虜を帰したことにはなお修好の意志が見えるとして評価する。