西夏書事卷三十四 宋高宗(金天會十年) 紹興二年(乾順正德六年) 1132年

金との軋轢と川陝への接近

  • 春正月、金の正旦を賀う使者を送った。金は陝西の地を劉豫に与えており、乾順は環・慶二州を求めたが金主は許さなかった。
  • 中国の暦の使用を停止した。乾順が金への服属を長く続けたため、高宗はもはや暦を頒賜しなくなり、以後夏は宋の暦を用いなくなった。
  • 秋八月、金との関係が悪化し、初めて使者を川陝に送って通好を求めた。金が陝西元帥府を立てて夏に北鄙の地を渡そうとせず、粘沒喝が雲中に兵を集めて川陝を狙う動きを見せたため、乾順は国を挙げて境上に屯兵させ、あわせて呉玠・関師古の軍に通好を求める使者を送った。
  • 九月、金からの降人耶律余覩が投降してきたが、受け入れなかった。余覩は遼の宗室で金に降り西軍の大監軍となったが、粘沒喝に疑われ妻子を人質に取られたため叛意を抱き、燕京統軍槁里と結んで女真人誅殺を謀ったが露見し、父子で夏に逃れた。乾順は兵力の乏しさを理由に受け入れず、余覩父子は塔坦で殺された。
  • 冬十月、金の天清節を賀う使者を送った。金主は乾順が余覩を受け入れなかったことを知り、使者を一層厚く遇した。
  • 十二月、契丹の降戸を受け入れ、監軍司を立ててこれを統轄させた。余覩の死後、金が契丹降人の皆殺しを命じたため、河東八館や諸契丹の首領らが蜂起して夏に逃げ込み、乾順は北鄙にこれを配置して監軍司を新設した。