西夏書事卷三十三 宋徽宗(遼保大四年、金天會二年) 宣和六年(乾順元德六年) 1124年

金への臣従と誓表の交換

  • 春正月、金に臣従を表し藩を称した。金は遼の西北地を賜った。乾順は御史中丞の芭里公亮を遣わして金主に上表し、遼に事えた礼をもって金に事えることを請い、下塞以北・陰山以南・乙室耶剌部吐淥濼西の地を賜った。この地はもと拓跋氏の故地で遼が奪っていたものであった。
  • 三月、金に誓表を上げた。乾順は賜地への謝礼として使者を送り、遼に事えた旧例に倣い今後の朝賀・貢進・使者往来を金に対して行うこと、逃亡した遼主を匿わず捕らえて献上すること、金の徴兵に応じることなどを誓った。
  • 閏三月、金の使者が誓詔を賜りに来て、乾順は遼に対する礼を改めて金使を迎えた。金は先皇帝以来の恩義に応え、割譲地・使者礼節・相互援助を先朝の詔のまま定めるとした。旧例では遼使を臣礼で迎えていたが、金使の王阿海は「遼と夏は甥舅の間柄だったが、金と夏は君臣である」として対等でない礼を求め、数日争った末に乾順は起立して詔を受けた。
  • 秋七月、兵をもって武・朔の二州を侵した。両州はもと遼の山後の地で、金が武州を取って宋に返し、朔州の守将韓正も宋に帰属したため、乾順はたびたび攻めたが、宣撫使譚稹の部将李嗣本に阻まれ数日対陣したまま決着しなかった。
  • 九月、子の仁孝が生まれた。曹妃の所生で、成安公主に寵愛され「仁孝」と名付けられた。
  • 冬十月、金への謝表を送り、あわせて宋が賜地を侵したことを訴えた。金主は西南・北両路都統府に処理を委ねる旨を答えた。
  • 金の天清節を賀う使者を送った。夏使は宋使・高麗使の後に列せられ、同様に宴を賜った。
  • 十一月、金人が遼の戸口の返還を求め、これに応じた。乾順は遼の混乱に乗じて沿辺の戸口を掠めていたが、金の要求に抗しきれずすべて返還した。
  • 十二月、使者を送り入貢した。