西夏書事卷三十三 宋徽宗(遼大慶九年) 宣和元年(乾順元德元年) 1119年

統安城の大敗と震武軍・蕭関の攻防

  • 春三月、熙河経略使の劉法の軍を統安城で破り、これを殺した。童貫は統安の地を得れば夏を制圧できると考え、劉法に朔方進取を強いた。劉法は乾順配下の晋王察哥の三陣に前軍を阻まれ、別動の精騎に背後を突かれて大敗し、夜に逃れる途中崖から落ちて足を折り、追兵に斬られた。察哥は劉法の首を見て、恃勝軽出を戒める言葉を残したという。続いて震武軍を再び包囲した。震武はたびたび攻撃を受け熙・秦両路は疲弊していたが、察哥は「この城は南朝の病巣として残すべし」と述べて囲みを解いて引き上げた。
  • 夏四月、蕭関で戦って敗れ、永和など三城を放棄した。震武の囲みが解けた後、童貫は种師道・劉仲武・劉延慶に蕭関への出兵を命じたが夏兵に阻まれ、永和砦は破られ、割沓城の囲みも敗退し、鳴沙まで追撃したが夏兵はすでに城を放棄していた。
  • 五月、再び震武軍を包囲したが陥落させられなかった。察哥は童貫軍が鳴沙に進んだ隙に再度震武を攻めたが、童貫軍が引き返して救援したため退いた。
  • 六月、遼の国書をもって鄜延に和を請うた。乾順は茶山の塩鉄の利と横山諸族の勁勇に頼って宋に抗していたが、童貫の進築によって山界の部州を失い頼みを失ったうえ、永和・震武での敗戦で疆域も兵勢も衰え、遼の国書を鄜延帥劉韐に届けて帰順を請うた。劉韐は夏の衰弱を見抜きつつ許可を上奏し、徽宗の詔で許された。
  • 秋八月、使者を送って誓表を上げ、宋から下賜された誓詔を持ち帰らず道に棄てて帰った。童貫は太傅として誓詔を使者に強いて授けたが、使者は帰途これを棄てた。
  • 冬十月、天寧節を賀う使者を送った。棄てられた誓詔を鄜延帥の賈炎が拾って上奏し、童貫は激怒して出兵を図ったが、賀節使が到着したため中止した。