西夏書事卷二十九 宋哲宗(遼大安八年) 元祐七年(乾順天祐民安三年) 1092年

綏徳侵攻と没烟峡の築塁

  • 春正月、遼が援軍で声援する中、梁乙逋は綏徳城を攻め、五十余日にわたり涇原を掠めて撤退した。
  • 二月、乙逋は没烟峡に砦壁を築いた。宋側では要害を固める複数の献策があったが議論がまとまらぬうちに築塁が完成した。

韋州出兵の失敗

  • 三月、乙逋は韋州に三万の兵を集め環慶侵攻を図ったが、経略使章楶の策により折可適が急襲し大敗した。

西蕃勢力の去就

  • 夏四月、西蕃の厮那・心牟らの部族が阿里骨への不満から夏に投じ、梁乙逋はこれを受け入れた。阿里骨は一公城に兵を備えた。

尾丁磑急襲と遼への再度の援兵要請

  • 六月、宋の涇原官軍(折可適)が尾丁磑を急襲し破った。夏兵は追撃に転じたがまた敗れた。
  • 秋七月、韋州敗戦を憤った梁氏(乾順母)が再び遼へ援兵を求めたが、遼主は許さなかった。

邈川図の献上と使者の拘束

  • 八月、西蕃阿里骨が邈川の地図を献じ夏への出兵協力を求めたが、梁乙逋は阿里骨の裏切りを警戒しその使者を捕えて出兵しなかった。

梁氏自らの環州侵攻と敗走

  • 冬十月、梁氏自ら十万の兵を率い環州を包囲したが、七日攻めて落とせず、退却の途上、章楶の伏兵により洪徳砦付近で大敗し、変装して逃げ帰った。
  • 同月、西蕃の阿敏(温溪心の弟)が阿里骨による温溪心拘束を機に夏へ投じ、革羅城の守備を任された。

遼への援兵要請と綏州鈐轄の内附

  • 十一月、夏は重ねて遼へ援兵を求めたが、遼は夏の頻繁な出兵に疲弊した部族の実情を見て派兵を見送った。
  • 綏州の鈐轄𠼪浪心訛が宋に内附した。