西夏書事卷二十九 宋哲宗(遼大安七年) 元祐六年(乾順天祐民安二年) 1091年
疆域交渉の停滞
- 春三月、梁乙逋が首領嵬名麻胡を鄜延に遣わし疆域を議したが、双方の主張が噛み合わず決裂した。
熙河・涇原侵攻と俘虜の返還
- 夏四月、梁乙逋が十万の兵で熙河の通遠軍を攻め、境界の七堡を破壊し住民を殺掠した。
- 五月、乙逋はさらに涇原に転じて開遠堡などを掠めたが、熙河・岷州の援兵の集結を聞き撤退した。
- 六月、宋は捕えた夏の首領らを釈放し、境界紛争のさなかの侵犯を戒める詔を発した。
- 乙逋は熙河出兵に備えて遼へ援兵を求めたが、遼主は宋遼の長い友好を理由に拒んだ。
使者往来と鎮戎軍方面の攻防
- 秋七月、坤成節(皇太后誕生日)を賀う使者を送った。哲宗は乙逋の無礼な返牒に怒ったが、使者が既に境に達していたため事を収めた。
- 梁乙逋は鎮戎軍の境界の見張り台(封堠)を破壊させた。
- 八月、鄜延の土門堡を破壊し、都監李儀を夜襲で殺した。
- その勢いで懐遠砦を攻めたが、守将李遜が城を固守し五日で囲みを解いた。
麟・府侵攻と塔坦の牽制
- 九月、乙逋は境内でおよそ五十日にわたり兵を集め、十五万の兵で麟・府二州を攻め、神木等の砦を包囲し民家・作物を焼き尽くした。
- 国主(乾順)の誕生日に際し、宋は使者派遣を病と称して見合わせた。梁乙逋の返牒が高圧的であったためである。
- 塔坦国が乙逋出兵の隙を衝いて賀蘭山を襲い人畜を掠めた。乙逋は軍を返して救援に向かったが間に合わなかった。
環慶官軍の反撃
- 冬十一月、宋は歳賜を絶ったことを受け、環慶経略使章楶の策により韋州の安州川・霄柏川などを攻め、蕃部千余人を殺した。