西夏書事卷二十五 宋神宗(遼太康七年) 元豐四年(秉常大安七年) 1081年

秉常の幽閉と宋の五路討伐

  • 春二月、鄜延将劉紹能を離間の計で陥れようとしたが失敗した。神宗は紹能の功績を評価する詔を発した。
  • 三月、月が東井を犯した。
  • 将軍李清が河南の地を宋に帰そうと謀り、梁氏に殺された。李清は秉常の漢礼志向に応じて宋への帰属を説いたが、梁氏一派に露見し酒宴で誘殺された。
  • 梁氏がその主秉常を幽閉し、自ら国事を執った。李清事件を機に秉常を興州の木砦に幽閉し、乙埋・罔萌訛らが軍権を握り国中は大いに乱れた。
  • 夏四月、環州が叛蕃の引き渡しを求め、返還され処刑された。
  • 五月、統軍禹蔵花麻が熙州へ梁氏討伐を求める文書を送った。花麻は日頃から梁氏を快く思わず、秉常幽閉を機に宋への内応を示唆した。
  • 六月、保安軍が事情を詰問する牒を送った。种諤の進言により神宗は西夏討伐を決意し、李憲・高遵裕・劉昌祚・王中正・种諤の五路から進軍させることとした。
  • 秋七月、太白が昼間に見えた。兵乱の兆しとされた。
  • 西蕃の西囉谷を襲った。国内の混乱に乗じた西蕃の動きを封じるためであったが、董氈の養子阿里骨に撃退された。
  • 八月、綏徳へ使者を送り投降者の引き渡しを求めたが、种諤が投降者を保護し夏軍を撃退した。
  • 臨川堡を侵した。
  • 豊州を再び掠めた。神宗は交渉を打ち切り討伐を布告する檄文を発した。
  • 禹蔵花麻が興慶府へ逃れ、部酋訛勃哆らが西使城を挙げて熙河経制使李憲に降った。
  • 李憲軍が龕谷を破り、九月、蘭州に入った。蘭州に築城し帥府を建てた。
  • 梁永能が米脂砦の救援に向かい敗績した。冬十月、米脂守将令介訛遇が城を挙げて降り、石州も陥落した。种諤の攻勢により夏軍は大敗した。
  • 清遠軍守将嵬名訛𠮾が環慶経畧使高遵裕に降り、遵裕は韋州を取った。
  • 梁永能が徳靖砦を攻めたが撃退された。
  • 夏州知州索九思が逃げ、种諤がこれを占拠し、さらに銀州を破った。
  • 宥州が潰え、河東の兵が入って屠った。
  • 李憲軍を防ぐ兵が高川・石峡で敗れ、李憲は天都山に至り南牟の宮殿を焼いた。
  • 遼へ援軍を求めた。
  • 順寧を再び襲ったが克てず、浮図城・呉堡・義合等の砦を放棄した。
  • 都統軍梁乙埋が磨𠼪の隘路を扼したが、涇原副総管劉昌祚と戦い敗績した。十一月、霊州が包囲された。夏側は防戦しつつも兵站を断つ策で対抗した。
  • 涇原軍が殿軍として戦い、韋州まで追撃して退いた。宋の五路討伐は多大な犠牲を払いながらも最終的な戦果は限定的に終わった。