西夏書事卷十三 宋仁宗(契丹重熙八年) 寶元二年(元昊天授禮法延祚二年) 1039年

称帝の通告と対宋関係の悪化

  • 春正月、称帝を宋へ通告する使者を送った。上表には遠祖思恭以来の来歴と、独自の文字・服制・礼楽を整えた経緯、称帝への正当性が述べられていた。宋は献上品を却下したが使者は厚遇された。
  • 二月、白豹砦都指揮使裴永昌が内奔した。
  • 夏四月、宋の宮人を金で買い求め、宮中の内情を知る手段とした。
  • 五月、朝儀を定めた。唐宋の典式に倣いつつ独自の朝賀儀礼を整備した。
  • 蕃学を建てた。野利仁栄が主管し、『孝経』『爾雅』等を蕃語に訳して教材とした。
  • 西蕃の唃厮囉が涼州を攻めたが果たせなかった。
  • 諜者を送って蕃・漢の民を誘い、六月、宋は元昊の賜姓・官爵を削り、討伐懸賞を布告した。
  • 秋七月、延州人劉重信を環州刺史に任じたが、後に捕らえられ処刑された。
  • 八月、延州への榷場設置を求めたが許されなかった。
  • 九月、尚書令を置き十六司を設けた。
  • 冬十一月、保安軍を攻めたが克てなかった。狄青の奮戦により撃退された。
  • 承平砦を再び包囲したが、十二月、環慶の官軍の反撃を受け撤退した。
  • 閏十二月、賀永年を遣わし帰娘族の境に「嫚書(不遜な書簡)」を置かせた。宋への恫喝的な文書であった。
  • 鄜延都監李士彬を誘ったが、士彬は使者を斬った。
  • 鄜延へ和議を求める使者を送ったが、辞は無礼で宋は応じなかった。
  • 蕃族の吹同乞砂等の家を殺した。乞砂兄弟が宋へ内奔したことへの報復であった。