西夏書事卷十二 宋仁宗(契丹重熙七年) 寶元元年(元昊大慶二年) 1038年
賀蘭山の盟約と山遇の悲劇
- 春正月朔、日食があった。元昊の僭越の企ては益々急を告げた。
- 五台山への供仏を名目に使者を派遣した。実際は河東への進軍路の偵察であったとされる。
- 夏四月、興平公主が没した。元昊とは不仲であったが、病を契丹に告げなかったため契丹主が詰問した。これが契丹と西夏の不和の始まりとなった。
- 秋七月、賀蘭山で諸蕃と盟い、鄜延攻撃を謀った。準備不足で一時中止となった。
- 九月、左廂監軍の山遇(元昊の従父)が延州へ内奔したが捕らえられた。山遇は元昊の対宋強硬策を諫めたことで疎まれ、母を残して脱出したが延州の官吏に疑われ、夏州へ送り返された。
- 山遇は宥州で殺された。元昊は山遇父子を自ら討ち取り、国人はその死を悼んだ。
- 冬十月、元昊が皇帝を称し、国号を「大夏」と定め、「天授礼法延祚」と改元した。興慶府南に築いた祭壇で即位の礼を行い、中書・枢密など官制を整備した。
- 祖父保吉・父徳明に諡号を追贈した。
- 十一月、西涼府で祭祀を行い、以後郊祀の賀使を送らなくなった。宋は互市を禁じた。