出自と兗州奪取
- 劉鄩、密州安丘県の人。幼くして大志を抱き兵略を好み史伝を渉猟し、青州王師範に仕えた。唐昭宗が鳳翔に幸すると太祖は師を率いて岐下に迎えたが、師範は腹心を遣わし太祖の管内州郡を虚に乗じて襲わせた。鄩は偏裨として兗州に入り城を占拠した。
- 先に鄩は細作を油売りに扮させ城内の虚実と出入りの場所を探らせ、羅城下の水竇(水路の穴)から兵を引き入れられることを知り目印とした。師範に告げ歩兵五百を請い夜に水竇から銜枚(口に枚を含んで音を立てず)して入り一夜で城を定めた。軍城は静穏で市民に擾乱はなかった。太祖は大将葛従周にこれを攻めさせたが、従周の家族は城中におり、鄩はその家族を篤く保護し従周の母に堂で拝礼した。従周が城を攻めると鄩は母を板輿に乗せ城上に至らせ、従周に「劉将軍は私を厚く遇し新婦以下皆無事です、お確かめください」と告げさせ、従周は歔欷して退いた。
籠城戦
- 鄩は城中を選別し敵に対抗できない者はことごとく城外に出した。将士と甘苦を共にし衣食を分けて外軍に抗した。兵を戢め暴を禁じ居民は安泰であった。従周の包囲が長引き鄩に外援が無くなると、副使王彦温が城を越えて逃げ守備の兵もこれに従おうとしたが鄩は禁じられなかった。そこで人を遣わし彦温に「少数の者だけ連れて出よ、素より遣わされていない者を連れて行くな」と伝えさせ、また衆に「素より副使に従うよう命じられた者は禁じないが、勝手に去る者は族滅する」と揚言させると、逃亡しようとした守民は止まった。外軍は彦温を疑い城下で誅殺し、これより軍城は固まった。
- 師範が力尽きると従周は禍福を説いて鄩を諭した。鄩は「青州の本使が帰降するのを待って城を返還する」と答え、師範が降ると鄩も城を出て命に従った。太祖はその節概を嘉し李勣(英国公)の風があるとして都押牙を授けた。太祖の牙下の諸将は皆四鎮の旧人であったが、鄩は一朝にして彼らの上に立ち、諸将と会う時も階庭の礼を用い太祖はますます重んじた。
対晋戦争
- 晋王が魏州に入ると鄩は精兵一万を率い洹水から魏県に移った。晋王が偵察に来ると鄩は河曲の叢木間に伏兵を置き、王が至ると大声を挙げて包囲し多くを殺獲、晋王はかろうじて身一つで免れた。
- 後に鄩は密かに黄澤の西から太原に趣こうとした。晋軍に追撃されることを恐れ芻(わら)で人形を作り旗を結び驢馬に負わせ堞を巡らせた。数日して晋人がようやく気づいた。長雨が続き晋軍が進めない間に鄩は軍を整えて還った。
- 魏の臨清の積粟の地を知ると鄩は軍を率いてこれを取ろうとしたが、晋将周陽五が幽州から兵を率いて至り、鄩は貝州に趣き堂邑で晋軍と遇い要撃してこれを退けた。莘県に軍し城壘を増し池隍を浚え莘から河まで甬道を築いて糧道を通した。
末帝との対立
- 末帝が出戦を詔すると鄩は「臣は深溝高塁を築き士を養い訓練し日夜警戒して機を待っている、みだりに動いて患難を招くわけにはいかない」と奏した。帝が破敵の策を問うと鄩は「奇術は無い、ただ人ごとに糧十斛を給し、糧が尽きれば敵を破る」と答えた。帝は怒り「将軍は米を蓄えて飢えを癒すつもりか、賊を破るつもりか」と誚り中使を遣わして督戦させた。
- 鄩は諸将を集めて「主上は宮禁に深く居られ兵家のことを知らず、白面の若者と謀って事を誤らせるだろう。大将が出征すれば君命も受けぬことがある、機に臨んで変を制するのにあらかじめ謀れようか。今敵はまだ軽々しく動けぬ、諸君はさらに考えよ」と述べた。諸将は戦を望んだが鄩は黙っていた。後日、諸将を軍門に列座させ河水を一器ずつ配り飲ませようとすると、ある者は飲みある者は辞退した。鄩は「一器でさえ難しいのに、滔々たる河の流れをどうして飲み尽くせようか」と述べ、衆は色を失った。
- 数日後、鄩は一万余で鎮定の塞を攻め多く殺獲したが晋軍が至ると退いた。鄩は莘から軍を進め魏州を襲い、晋王と故元城で戦い王師は敗れ、鄩は身一つで南へ逃れた。洛陽に帰ると張宗の承旨により酒を強いられ卒した。
史論
- 孫子は「虞れざるの道による」というが、鄩が水竇から兗州を攻め入ったのがこれに当たる。また「間を用いざる所無し」というが、鄩が外軍をして王彦温を殺させたのがこれである。また「衆草の障多き者は疑いなり」というが、鄩が芻で人形を作り驢馬に負わせたのがこれに当たる。