出自と幼少期
- 王忠嗣、華州鄭の人。父海賓は太子右衛率であった。吐蕃が隴右を侵すと詔により隴右防禦使薛訥がこれを防ぎ、海賓は先鋒として武階で戦い壕口まで追撃し敵を殺した。長城堡でも戦ったが諸将がその功を妬んで兵を進めず海賓は戦死した。大軍が乗じて一万七千の首級を斬り馬七万・牛羊十四万を得た。玄宗はその忠を憐れみ左金吾大将軍を贈った。
- 忠嗣は九歳、まだ訓と名乗っていたが帝に謁見し地に伏して号泣すると、帝は「これは霍去病の孤児だ、成長したら将たらしめよう」と述べ改名し禁中で養った。粛宗が忠王であった頃に共に遊ばせた。成長すると雄毅で口数少なく武略を持ち、帝と兵を論じ即座に応答したため帝はこれを重用した。
河西・朔方での初期の軍功
- 蕭嵩が河西に出征する際しばしば麾下に加えたが、帝は忠嗣が若く復讐の志を持つことを案じ特に将とすることを禁じた。嵩が入朝する際、忠嗣は「公に三年従ったが天子に報いるものが無い」と述べ、精鋭数百を率いて虜を襲うことを願った。贊普の大酋が郁標川で閲兵している隙に部下が反対したが従わず刀を提げて陣を略し数千を斬り羊馬万を獲た。嵩がこの功を上奏すると帝は大いに悦んだ。
- 左威衛将軍・代北都督に累遷し、天宝元年に北方の奚・怒皆を討ち桑乾河で三戦三勝、漠北に武威を輝かせて凱旋した。
突厥・河東経略
- 突厥に新たに難が起きると忠嗣は磧口に進軍し経略した。烏蘇米施可汗が降を請うたが、忠嗣はまだ強勢と見て木剌・蘭山に営を築き虚実を探った。平戍十八策を上奏し拔悉密・葛邏禄・回紇の三部に反間を放ち多羅斯城を攻め昆水を渉り米施可汗を斬った。大同・静辺の二城を築き清塞・横野軍を移して充実させ、受降・振武を一城に合わせた。これにより虜は塞を犯さなくなった。河東節度使を兼ねた。
- 忠嗣は本来勇敢であったが将となると持重し辺境を安んじて事を起こさず、「平時の将は兵を撫するのみ、中国の力を尽くして功名を求めたくない」と述べ、士馬を訓練し欠けを繕った。百五十斤の漆弓を持ちながら常に弢(弓袋)に納め用いない姿を示した。軍中は戦いを望んだが、忠嗣は詭計と間諜で虜の隙を伺い時に奇兵を出し向かうところ勝たぬことなく、士も喜んで用いられた。軍を出す際は属将に兵を授け、弓矢にも姓名を記させ、還る際に弦や鏃を失えば名を按じて罪を問うたため、器甲は充実した。朔方から雲中まで数千里の要害に城を築き、張仁亶以来四十余年ぶりの功を継いだ。
- 河西・隴右節度使を兼ね朔方・河東の節度権も握り、四つの将印を佩び万里を制するのは近世に無いことであった。
石堡城をめぐる李林甫との確執
- 帝が石堡城の攻略を諮ると、忠嗣は「吐蕃は国を挙げて守っている、堅城の下に兵を頓すれば数万を費やす、得るところは失うところを補えない、時機を待つべきだ」と奏したが帝の意に沿わなかった。李林甫はその功を妬み日々過咎を探した。董延光が石堡城攻略を建言すると忠嗣はやむなく出軍したが士に賞格を与えず延光は不満を持った。
- 河西兵馬使李光弼が「大夫は士卒を惜しみ延光を拒む心があるが、詔を受けた以上重賞を立てねば士は奮わない、賜を惜しめば讒言を招き、もし勝てなければ罪を大夫に帰す」と説くと、忠嗣は「一城を得ても敵を制するに足らず、失っても国に害はない、数万の命と一官を交換できるものか。責められても金吾・羽林将軍への左遷か黔中の上佐にとどまるだけだ」と答えた。光弼は「大夫はまさに古人の行いをなさっている」と感嘆した。延光は期限を過ぎても落とせず忠嗣が兵を沮んだと訴えた。
- 安禄山が雄武城を築き飛狐塞を扼して謀反を企て忠嗣に助役を求め兵を留めようとしたが、忠嗣は先に至って禄山に会わず還った。しばしば禄山の謀反を上言したため林甫はますます憎み、「忠嗣は宮中で養われた、太子を奉じたいと言った」と誣告させた。帝は怒り三司に付し死罪とされたが、哥舒翰が官爵を差し出して忠嗣の罪を贖うことを願い出たため帝の怒りは解け漢陽太守に貶された。まもなく卒した。
- 後に哥舒翰が石堡城を攻め落としたが死傷は甚だ多く忠嗣の言葉のとおりであったため世は忠嗣を名将と称えた。朔方にあった頃、互市で馬の値を高く償ったため諸蕃が争って市に来て蕃馬は減り唐軍の馬は精良になった。河・隴を鎮すると朔方・河東の九千騎を移して軍を充実させ、天宝末まで益々繁栄した。
史論
- 孫子は「進んで名を求めず」というが、忠嗣が中国の力を尽くして功名を求めなかったのがこれに当たる。また「退いて罪を避けず」というが、忠嗣が数万の命を惜しんで一官と交換しなかったのがこれである。また「城には攻めざる所あり」というが、忠嗣が石堡城を得ても敵を制するに足らず失っても国に害はないと述べたのがこれに当たる。