十七史百將傳卷十 唐李愬

出自と赴任の経緯

  • 李愬、字は元直、籌略があり騎射を善くした。憲宗が吳元濟を討伐した際、唐鄧節度使高霞寓が敗れ袁滋に代えたが功が無かった。愬は自ら試みることを求め、宰相李逢吉も愬が用いるに足ると考え、検校左散騎常侍・随唐鄧節度使となった。
  • 愬はその軍が初め損傷を受け士気が整っていないため、斥候・部伍を立てなかった。ある者が異を唱えると、愬は「賊はまさに袁公の寛大さに安んじている、私は彼らを震え上がらせて我に備えさせたくない」と言った。軍中に令して「天子は愬が恥を忍べることを知り、それゆえ撫養を委ねた。戦うことは私の仕事ではない」と述べると、衆は信じて安んじた。優人を退け嬉遊しなかった。傷病の士は自ら看護した。
  • 蔡人はかつて霞寓らを敗辱させたことがあり、また愬の名は以前から畏れられていなかったため、これを侮り備えをしなかった。愬は沈着で誠意をもって士を待ち、その卑弱さを利用した。賊が降れば便に任せ、父母や孤児が未葬の者には粟帛を与えて帰し「お前は王の民、親戚を捨てるな」と労った。衆は愬のために死ぬことを願い、山川の険易と賊の実情はことごとく明らかになった。
  • 半年後、士が用いるに足ると知り増援を請い、河中・鄜坊の二千騎を得た。

蔡州攻略の緒戦

  • 鎧兵を修め、馬鞍山を攻め落とし、道口柵を抜き、嵖岈山で戦い虜冶城を取り、白狗・波港柵に入り、楚城を披き、郎山を襲い、守将を二度捕らえた。青陵城を平定し驍将丁士良を捕らえたが、その才を惜しんで殺さず捉生将とした。士良は「呉秀琳は陳光洽の謀によって破れない、私が彼を捕らえて献上できる」と述べ、秀琳を捕らえて献じた。秀琳は文城柵を挙げて降った。
  • その衆で呉房を攻め外垣を破った。出撃の日が「往亡日」に当たり避けるべきとの進言に、愬は「彼は我が来ないと思っている、これが撃つべき時だ」と述べた。引き返す途中、賊の精騎に追撃されたが、愬は馬を下り胡床に拠り「退く者は斬る」と命じ、衆は決死で戦い賊将を射殺して賊は敗走した。呉房を取ることを勧める者があったが、愬は「呉房を抜けば賊の力が集中する、留めて力を分散させるべきだ」と述べた。

李佑の獲得と間諜の運用

  • はじめ秀琳が降った際、愬は単騎で柵下に赴き自ら縄を解いて将とした。秀琳は「必ず賊を破るには李佑を得るしかない」と進言した。佑は賊の勇将で興橋柵を守り官軍を苦しめていた。愬は史用誠に壮騎三百を伏せさせ、佑を誘い出して捕らえた。諸将は佑を殺すよう求めたが、愬は聞かず客とした。夜まで語り合い、忠義(李憲)とともに厚遇した。
  • 死士三千を募って突将とし自ら教練した。五月から七月まで雨が続き、軍中は佑を殺さぬ罰と噂したが、愬は佑を械(かせ)につけ朝廷に送り必ず殺すよう表を上げた。詔で釈放され愬のもとに戻された。愬は佩刀での出入りを許し六院兵馬使とし、佑は感激して従い、これより蔡州襲撃の謀が定まった。
  • 旧令では諜者を匿う者は族滅とされていたが、愬はこれを改め諜者を撫し、諜者は真情を持って応じ、賊の虚実をますます知った。

蔡州奇襲

  • 李光顔がしばしば戦勝し、元済は精鋭を洄曲に集めて対抗させていた。愬はその隙を見て裴度に師期を告げた。元和十一年十月己卯、夜に軍を発し、佑を先鋒、忠義を副とし、愬自ら中軍三千を率い、田進誠が殿を務めた。文城柵を出て東へ六十里進み張柴を襲いその戍を殲滅した。大雪の中、士は凍死する者十一二に及んだ。
  • 出発時、行き先を問われた愬は「蔡州に入り呉元済を取る」と答えた。士は色を失い、監軍使は「果たして佑の計に落ちた」と泣いた。しかし従うほかなく、七十里を進み夜半に懸瓠城に至った。雪の中、鵝鴨池を撃たせて軍の物音を紛らせた。賊は呉房・郎山の戍を頼み油断していた。佑らは塁を先登し門を殺し関を開き、夜番の柝の音もそのままにした。
  • 黎明、雪が止み愬は元済の外宅に駐まった。蔡吏は驚いたが、元済はなお「洄曲の子弟が褚衣を求めに来たのだろう」と信じなかった。号令が「常侍が伝える」と聞き初めて驚いた。牙城に登ったが田進誠の兵に迫られた。愬は元済が董重質に救いを求めることを見越し、その家を訪ねて安心させ書を送って重質を招くと、重質は単騎白衣で降った。愬は礼を持って遇した。進誠が南門に火を放つと元済は罪を請い、梯で下り檻車で京師に送られた。申・光の諸屯二万の兵も降り、愬は一人も殺さなかった。賊のために働いていた者もそのまま用い疑わなかった。
  • 裴度を鞠場で迎え、愬は櫜鞬(弓矢を負う礼装)で謁見した。度が避けようとすると、愬は「この地は上下の分がすでに久しく廃れている、この機に示すべきだ」と述べ、度は宰相の礼で愬の謁見を受け、蔡人はこれを見て驚いた。

淮西平定後と晩年

  • 検校尚書左僕射・山南東道節度使、涼国公に封じられた。李師道が反すると、愬に代えて武寧軍を帥いさせる詔が下り、旬日で父兄両鎮を踏襲し世の栄とされた。愬は金郷で賊と戦い破り、十一戦して隊帥五十を捕らえ俘馘は万を数えた。淄青平定後、同中書門下平章事に進んだ。
  • 田弘正が鎮州を守るようになると、愬は魏博を帥いた。長慶初、幽・鎮が乱れ弘正が殺されると、愬は素服で軍に令し「魏人が富庶で大いなる教化に通じているのは田公の力だ」と述べ、衆は皆哭いた。玉帯・宝剣を牛元翼に贈り、鎮人を討つよう促した。元翼は感動しこれに従うと誓い、軍を勒して待った。
  • 愬は病が重くなり軍を率いることができず、詔により田布が代わった。太子少保として東都に還り卒した。かつて李晟が京師を克復した際、市が肆を改めなかったが、愬が蔡を平定した時も同様であった。その功名の奇なることは近世に無いものであった。

史論

  • 孫子は「用いても用いないように見せる」というが、愬が卑弱さを示して馬鞍山の勝を得たのがこれに当たる。また「その不意に出づ」というが、愬が往亡日をもって賊を撃ったのがこれである。また「我は専にして敵は分かる」というが、愬が呉房を取らずその力を分散させたのがこれに当たる。また「卒を善くしてこれを養う」というが、愬が降将を殺さずすべて用いたのがこれである。また「虞れざるの道により、その戒めざる所を攻む」というが、愬が塁を登って元済を捕らえたのがこれに当たる。また「国を全うするを上と為す」というが、愬が蔡を平定して一人も殺さなかったのがこれである。