十七史百將傳卷九 唐·蘇定方
蘇烈、字は定方(冀州武邑の人)。隋末より武勇で知られ、李靖に従って突厥の頡利を破り、のち賀魯・都曼・百済を相次いで討って三国の王をいずれも生け捕りにした唐の名将。
年表(1件)
- 乾封二年667年没する
出自と若年の武功
- 蘇烈、字は定方、字で通行した。冀州武邑の人。父の邕は隋末、里中の数千人を率いて本郡のために賊を討った。定方は驍悍で気迫と決断力があり、十五歳のとき父に従って戦い、しばしば先登して敵陣を陥れた。邕が没すると代わってその衆を領し、大賊の張金稱・楊公卿を破り数十里追撃した。これより賊は境を侵さなくなり、郷党はこれに頼った。
突厥頡利の討伐(貞観初)
- 貞観の初め、李靖に従って突厥の頡利を磧口に襲い、彀馬二百を率いて前鋒となった。霧に乗じて進み賊まで一里ほどに迫ったとき霧が晴れ、牙帳を見出すと馳せて数十百人を殺した。頡利および隋の公主は狼狽して各々逃げ、李靖もまもなく到着し、残党はことごとく降った。
賀魯討伐と王文度の妨害
- 蔥嶺道大総管の程知節に従い賀魯を討った。鷹娑川に至ると賀魯は二万騎を率いて拒み、総管の蘇海政は連戦して決着がつかず、鼠尼施らはさらに二万騎を援けに引き連れて来た。定方は兵を休ませていたが塵の立つのを見ると精騎五百を率いて嶺を越え敵営に馳せ突いた。賊衆は大潰し千余人を殺し、遺棄された鎧仗・牛馬は山野に数え切れぬほどであった。
- 副総管の王文度はその功を妬み、知節に偽って「賊は走ったが我が軍にも死傷が多い。今は輜重で陣を結び甲を着けて進み、賊が来れば戦うのが万全というものだ」と述べ、さらに詔と偽って軍を収め深入りさせなかった。このため馬は痩せ兵は疲れ、闘志を失った。定方は知節に「天子は賊を討てと詔したのに、今かえって自ら守るとは何の功があろうか。大将たる公が外事を専断できず副将が専断するとは。なぜ文度を退け天子の命を待たないのか」と説いたが、聞き入れられなかった。恆篤城に至ると胡人が降ったが、文度は「軍が還ってから降るのは賊も同然、殺してその財を取るべきだ」と述べた。定方は「それでは自ら賊となるも同じ、討伐と言えようか」と述べ、財を分ける際も一切受け取らなかった。太宗はこの経緯を知ると、知節らが還るに及んでみな法官に下し死罪相当としたが、庶民に落として許した。
曳咥河の戦いと賀魯の平定
- 定方を伊麗道行軍大総管に抜擢し、再び賀魯を討たせ、任雅相・回紇の婆潤を副とした。金山の北に出て処木昆部を先に撃破すると、俟斤の嬾独禄が衆一万帳を率いて降った。定方はこれを撫し、その千騎と回紇一万を発して曳咥河に進んだ。賀魯は十姓の兵十万を率いて拒戦し、定方の兵が少ないと侮り左右両翼で包囲した。定方は歩卒を高地に拠らせ槊を外に向けて構えさせ、自らは勁騎を率いて陣の北原に構え、賊が三度歩陣に突入するも入れなかったところをその乱に乗じて撃ち、三十里にわたり鏖戦して数万級を斬り、賊は大いに敗走した。翌日、五弩失畢の衆が挙って降り、賀魯は独り処木昆の屈律啜と数百騎で西走した。定方は副将の蕭嗣業・婆潤に雑虜の兵で邪羅斯川を追わせ、自らは雅相と共に新附の兵でその退路を絶った。大雪に会い、兵吏が小休止を求めたが、定方は「虜は雪を頼みに止まり、我らが進めぬと侮っている。今遠くへ逃がせば捕らえられなくなる」と述べ、双河まで進んで彌射・歩真の軍と合流し、賀魯の陣まで百里に迫って金牙山に迫った。賀魯が狩りをしていた隙を突いて撃ち、その麾下数万を破りことごとく帰順させた。賀魯は石国に逃げたが、彌射の子の元爽が蕭嗣業の軍と合流してこれを縛り連れ帰った。これにより亭障を修め道を整え疆界を定め、唐の州県は西海にまで及んだ。
- 高宗が臨軒すると、定方は戎服のまま賀魯を献じた。功を策せられ左驍衛大将軍・邢国公を拝した。
都曼の乱鎮圧
- 思結の闕俟斤の都曼が先に諸胡を鎮していたが、その配下および疏勒・朱俱波・偈般陀の三国を劫して再び叛いたため、定方を安撫大使として遣わした。葉葉水に至ると賊は馬頭川に拠っていたので、定方は精卒一万・騎三千を選び昼夜三百里を馳せてこれを襲った。都曼は驚き備えなく大敗し馬頭城に走った。軍が進んで攻めると都曼は計窮まり自ら面縛して降った。乾陽殿に俘虜として献じられると有司は法の通り処断せよと請うたが、定方は頓首して「臣は先に陛下の意として死罪にしないと諭しており、その命を助けたい」と請い、帝は「朕は卿のために信を全うしよう」と述べて赦した。蔥嶺以西はついに定まった。左武衛大将軍に遷った。
百済征討
- 神丘道大総管として出征し、百済を討った。成山より海を渡り熊津口に至ると、賊は江に沿って陣を敷いていたが、定方は左岸に出て山に拠って陣し、これと戦って数千を敗死させた。王師は潮に乗り艦を連ねて進み、鼓を鳴らして進撃し、定方は歩騎を分けて挟撃し、直ちにその都城に迫った。賊は国を挙げて来たが酣戦の末これを破り、万人を殺虜にして城郭に乗じて入ると、王義慈と太子の隆は北へ逃げた。定方が進んでその城を囲むと、義慈の子の泰が自ら王を称して衆を率いて固守した。義慈の孫の文思は「王と太子が出たのに、叔父がなぜ勝手に王となれようか。もし王師が退けば我ら父子はどうして無事でいられよう」と述べ、左右を率いて城を縋り降り、多くの者がこれに従ったため泰は止められなかった。定方は兵に城に登らせ唐の旗を立てさせた。ここで泰は門を開いて命を請い、その将の祢植と義慈は降り、隆や諸城も款を送り、百済は平定された。義慈・隆・泰らを俘虜として東都に献じた。定方が滅ぼした三国はいずれもその王を生け捕りにし、賞賜の珍宝は数え切れなかった。
- 乾封二年(667年)に没した。
史論
- 孫子は「微なるかな微なるかな、無形に至る」というが、定方が霧に乗じて進み頡利を破ったのがこれに当たる。また「速やかに人の及ばぬに乗ずる」というが、定方が塵の起こるのを見て敵営に馳せ突いたのがこれである。また「その意表を突く」というが、定方が虜の雪を頼みとするのを知って追撃したのがこれに当たる。