十七史百將傳卷八 隋長孫晟
隋の将軍長孫晟(字は季晟)。弾射に長け、突厥可汗摂図のもとへ使者として赴き山川・部族の内情を探った。可汗一族を離間して分断する策を上書し隋の対突厥政策を主導、啓民可汗(染干)を擁立して北方を安定させ、達頭討伐に従軍したのち病没した。
出自と突厥への使者
- 長孫晟、字は季晟。性格は通達鋭敏で書物を少し渉猟し、弾(弾丸)を善くし射に工み、身のこなしは人並外れて敏捷であった。初めは知られていなかったが、高祖だけが一目見て「長孫郎の武芸は群を抜き、先ほど言葉を交わすと多くの奇略があった。後の名将はこの人ではないか」と人に語った。
- 宣帝の時、突厥の摂図が周に婚を請い趙王招の娘をこれに嫁がせた。晟は千金公主を送りその牙帳に至った。前後の使者は数十人に及んだが摂図は多く礼を尽くさなかったところ、晟だけを愛し常に共に遊猟し一年を過ごさせた。かつて二羽の雕が肉を争って飛んできた時、二矢を晟に与えて「射て取れ」と言い、晟は弓を彎いて馳せ雕が相攫む所を狙い一発で二羽を貫いた。摂図は喜び諸子弟や貴人にみな親しく交わらせ、晟に近づいて弾射を学ばせようとした。
- 摂図の弟処羅侯(号は突利設)はことに衆心を得ていたが摂図に忌まれており、密かに心腹を託し晟と密盟した。晟は彼と遊猟しながら山川の形勢や部衆の強弱をことごとく知った。時に高祖が丞相であったため、晟はその状を高祖に報告し、高祖は大いに喜んだ。
突厥分断策の上書
- 開皇元年、摂図は「我は周家の親であるのに、今隋公が自立してこれを制することができぬとは、いったいどんな顔で可賀敦(皇后)に会えようか」と言い、臨渝鎮を攻め陥し諸方の部落と約して共に南侵を謀った。高祖は新たに即位したばかりでこれを大いに懼れ、長城を修築し兵を発して北境に屯し備えとした。
- 晟は先に摂図・玷厥・阿波・突利ら叔姪兄弟がそれぞれ強兵を統べ、みな可汗と号し四方に分居し内は猜忌を抱きながら外は和同を装っており、力で征するのは難しく離間しやすいことを知っていた。そこで上書して「諸夏は安泰といえども戎場(辺境)はなお梗(さまた)げられています。師を興して討伐するにはまだその時ではなく、度外に棄て置けばまた侵擾されます。ゆえに密かに策を運らし漸次これを攘うべきです。臣は周末に外使を忝くし、匈奴の倚伏(内情)は実によく知っております。玷厥は摂図に対し兵は強いが位は下、外は相属していても内には隙がすでに顕れています、その情を鼓動すれば必ず自ずと戦うでしょう。また処羅侯は摂図の弟で奸智は多いが勢いは弱く、衆心を曲げて取り国人にこれを愛されているため摂図に忌まれ、その心はことのほか自ら安んじられずにおり、跡は取り繕っていても実は疑懼を抱いています。また阿波は首鼠両端でその間に介在し摂図をかなり畏れ牽制を受けており、ただ強い者に与するだけで定心がありません。今こそ遠きと交わり近きを攻め、強きを離して弱きを合わせるべきです。玷厥に使いを通じ阿波を説き合わせれば摂図は兵を回して右地を自防することになります。また処羅を引き奚・霫と連ねさせれば摂図は衆を分けて左方を守ることになります。首尾が猜嫌し合い腹心が離阻すれば、十数年の後、その隙に乗じて討てば必ず一挙にしてその国を空しくできましょう」と述べた。
反間の実行
- 上(帝)は表を見て大いに悦び晟を召して語らせた。晟はさらに形勢を口で述べ手で山川を描き、その虚実を写すことすべて掌を指すがごとくであった。帝は深く嗟嘆しみなこれを採用した。太僕元暉を伊吾道に遣わし玷厥のもとに詣らせ、狼頭纛を賜い偽って恭しく振る舞わせ礼数を甚だ厚くした。玷厥の使者が来ると摂図の使者の上座に引き入れさせた。反間はすでに行われ、両者は果たして相猜疑するようになった。
- 晟は車騎将軍を授けられ黄龍道から出て奚・霫・契丹などに幣を齎し彼らを郷導として処羅侯のもとに至らせ、深く心腹を布いて内附するよう誘った。二年、摂図が四十万騎で蘭州から入り周盤に至り達奚長儒の軍を破り、さらに南入しようとしたが玷厥は従わず兵を引いて去った。時に晟はまた染干(後の啓民可汗)に、摂図に「鉄勒などが反し摂図の牙帳を襲おうとしている」と詐って告げさせた。摂図は懼れ兵を回して塞外に出た。
- 数年後、突厥が大挙して入寇すると八道の元帥を発して分かれてこれを拒いだ。阿波は涼州に至り竇栄定と戦ったが賊軍はしばしば敗れた。時に晟は偏将として阿波に「摂図は来て戦うたびに大勝しているのに、阿波はやっと入ってすぐに敗れてしまった、これは突厥の恥ではないか、心の中で愧じないのか。まして摂図と阿波の兵勢はもともと拮抗している。今摂図が日に勝ち衆に崇められ、阿波は不利で国に辱を生じさせている、摂図は必ずこれを口実に阿波に罪を帰し、かねての宿計を成し北牙を滅ぼすだろう。自らの力量をよく計ってこれに抗せるかどうか」と伝えさせた。阿波の使者が来ると晟はさらに「今達頭は隋と連和しているのに摂図はこれを制することができない。可汗(阿波)はなぜ天子に依附し達頭と結んで互いに強め合わないのか。これこそ万全の計であろう、兵を失い罪を負うて摂図のもとに帰り戮辱を受けるのとどちらがよいか」と告げた。阿波はこれを容れ塞上に留まり、人を晟に随わせて入朝させた。
突厥可汗の擁立と対達頭戦
- 摂図が死ぬと晟は節を持ちその弟処羅侯を莫何可汗に、その子雍閭を葉護可汗に拝させた。染干は処羅侯の子で婚を請い、これを許して宗女を安義公主に封じて妻とした。晟は染干に衆を率いて南に徙らせ度斤の旧鎮に居らせた。雍閭はこれを疾み、しばしば来て抄略した。染干は動静を伺い知るとその都度奏聞したため、賊が来るたびに先んじて備えがあった。晟は降虜を遣わして雍閭を偵察させ、その牙帳の内でしばしば災変があり夜に赤紅の光が数百里を照らし、天狗(隕石)が墜ち、三日にわたり血の雨が降り、流星がその営内に墜ちて雷のような音がしたことを知った。雍閭は毎夜自ら驚き、隋の軍がまもなく至ると口にしていた。これらをすべて奏上し、突厥討伐を出撃するよう請うた。都速らが染干に帰順し、前後して至った男女は一万余人に及び、晟はこれを安置した。これにより突厥は悦んで附いた。まもなく染干は啓民可汗となり、武安殿で射を賜った。射の巧みな者十二人を選び二組に分けた。啓民は「臣は長孫大使のおかげで天子にお目にかかることができました、今日賜る射ではその組に加わりたい」と言い、許された。晟に弓矢六具が与えられ発つごとに鹿に命中し、啓民の組がついに勝った。
- 時に鳶(とんび)の群れが飛んでいたので、上は「公は弾を善くする、朕のためにこれを取れ」と言い、十発すべて命中しみな丸に応じて落ちた。この日百官はみな賜物を得たが晟だけがことに多かった。まもなく五万人を率いさせ朔州に大利城を築かせ、染干をここに置いた。晟に降人を率いさせ秦川行軍総管とし、晋王の節度を受けて達頭を討たせた。晟は「突厥は泉水を飲む、毒を行うにたやすい」と策を進め、諸薬を上流に投じさせると達頭の人馬はこれを飲んで多く死んだ。彼らは大いに驚き「天が悪水を降らせた、我らを滅ぼそうとしているのか」と言い、夜に逃げた。晟はこれを追い千余級を斬った。王は大いに喜び晟を内に引き入れ共に宴を極めて楽しんだ。
- 突厥の達官で降った者が同席にあり、突厥の内では長孫総管を大いに畏れ、その弓の音を聞くと霹靂と呼び、その馬の走るのを見ると閃電と称すると語った。王は笑って「将軍の震怒は域外に威を行き渡らせ、ついに雷霆と比べられるほどとは、なんと壮んなことか」と言った。晟は再び大利城に還され新附の者を安撫した。
- 仁寿元年、晟は「臣は夜城楼に登り、磧北に赤気が長さ百余里に及び、みな両足が地に垂れ下がるような形をしているのを見ました。謹んで兵書を検めましたところ、これは灑血(血をそそぐ)と名づけられ、その下の国は必ず破亡するとあります。匈奴を滅ぼすなら今日がその時です」と表奏した。詔により楊素が行軍元帥、晟は受降使者とされ染干を送って北伐させた。達頭の衆は大潰し西の吐谷渾へ奔った。晟は病により卒した。後に突厥が雁門を囲んだ際、帝は「もし長孫晟がいたなら、匈奴をここまで至らせなかったろうに」と嘆いた。
史論
- 孫子は「親しんでこれを離す」というが、晟が摂図を離間しこれによって破ったのがこれに当たる。また「餌兵は食らうなかれ」というが、晟が毒薬を上流に置き達頭がこれを飲んで多く死んだのがこれである。