十七史百將傳卷八 周韋孝寬

韋叔裕、字は孝寛、京兆杜陵の人。北周の名将で、東魏の神武帝(高歓)が攻め寄せた玉壁の攻防を離間策と守城の工夫で退けたことで知られる。晩年は隋の文帝(楊堅)の輔政期に元帥として尉遅迥の乱を平定した。

出自と若年の軍功

  • 韋叔裕、字は孝寛、京兆杜陵の人で、字で通行した。沈敏で正しく、経史を渉猟した。弱冠のとき蕭宝寅が関右で乱を起こすと関に赴き軍前の先駆けとなることを願い出た。朝廷はこれを嘉し統軍を拝命した。長孫承業の西征に随行して戦うごとに功があり国子博士を拝した。
  • 周文帝が原州から雍州に赴く際、孝寛は随軍し潼関を克つと弘農郡守を授けられた。竇泰を捕らえる戦に従い左丞を兼ね宜陽の兵馬事を節度した。また河橋の戦いに従ったが、大軍が不利になり辺境が騒然としたため、孝寛に宜陽郡事を行わせた。まもなく南兗州刺史に遷った。

段琛・牛道恆への離間策

  • この年、東魏の将段琛・堯傑が再び宜陽に拠り、その揚州刺史牛道恆に辺境の人を扇動させた。孝寛はこれを深く憂え、諜者に道恆の筆跡を探させ、書に巧みな者に道恆から孝寛への降服の意を示す偽書を作らせた。さらに火で燃やした跡を付け、火の下から拾った書のように見せかけ、諜者に琛の営へ送らせた。琛はこの書を得ると果たして道恆を疑い、経略しようとしたことはことごとく用いられなくなった。孝寛は両者が離反したのを知ると奇兵を出して掩襲し、道恆と琛らを捕らえ、崤・澠の地はついに清まった。
  • まもなく玉壁に移鎮し南汾州事を兼摂した。先に山胡が険を頼みしばしば劫盗を働いていたが、孝寛は威信を示し州境は粛然となった。大都督に進んだ。

玉壁の攻防

  • 斉の神武帝(高歓)が山東の衆を挙げて西入を図り、玉壁が要衝であるとしてまずこれを攻めさせた。連営数十里に及び城下に至ると城南に土山を築き乗り越えて入ろうとした。土山に面する所には元来二つの高楼があり、孝寛はさらに木を縛ってこれに接ぎ極めて高峻にし多くの戦具を積んで防いだ。神武は城中に「たとえ天まで楼を縛り上げても、我は城を穿ってお前たちを取る」と告げさせた。そこで城南に地道を掘り、城北にも土山と攻具を作らせ昼夜休まなかった。
  • 孝寛はさらに長い塹を掘って地道を要撃し、戦士を選んで塹に屯させた。城外から地道が塹に穿ち至るたびに戦士がこれを捕殺した。また塹の外に柴を積んで火を貯え、地道内にいる敵を柴火で下から皮の吹子で煽って攻めた。火気が一気に押し寄せると彼らはことごとく焼け爛れた。城外にはまた攻車が作られ、車の及ぶところ摧毀されぬものはなく、盾も抗しきれなかったが、孝寛は布を縫って幔とし、車の向かう方向にこれを張り巡らせた。布は空中に垂れ、車はついに壊すことができなかった。城外はまた松を竿に縛り油を灌いで火を加え布を焼き楼をも焚こうとしたが、孝寛は長い鉄鈎を作りその刃を鋭くし、火竿が来ると鈎で遠く割き松や麻もろとも落とした。
  • 城外はさらに城の四面に穴を穿ち二十一の道を作り四路に分け、その中にそれぞれ梁柱を施し完成すると油を灌いで火を放ち、柱が折れると城壁は崩れ落ちた。孝寛はその崩れた箇所に木柵を立てて防ぎ、敵は入れなかった。城外はあらゆる攻撃の術を尽くしたが、孝寛はことごとく拒み破った。神武はどうしようもなく倉曹参軍祖孝徴を遣わし「救兵の来ることは聞かない、なぜ降らないのか」と言わせた。孝寛は「わが城池は厳固で兵糧は余りある、攻める者は自ら疲れ守る者は常に安逸だ。旬日の間で救援を要するような状況ではない、かえってお前たちの軍が反せぬことを心配すべきだ。孝寛は関西の男子、決して降将にはならぬ」と答えた。
  • まもなく孝徴は再び城中の人々に「韋城主は彼から栄禄を受けているからそれもよかろうが、その他の軍士たちよ、なぜ湯火の中に随わねばならぬのか」と言い、城中に募格を射込んで「城主を斬って降る者には太尉を拝し、開国郡公に封じ邑万戸、帛万疋を賜う」と告げた。孝寛は自らその書の背に文字を書き城外へ射返し「もし高歓を斬る者あれば、同じくこの賞に依る」と示した。孝寛の甥(弟の子)遷は先に山東におり、鎖に繋がれ城下に引き出され白刃を突きつけられ早く降らねば大戮に処すると脅されたが、孝寛は慷慨激昂し顧みる様子は少しもなかった。士卒はみな感激奮励し死を厭わぬ心を持つに至った。神武は六旬にわたり苦戦し傷病者は十のうち四五に及び、智力ともに尽き病を発し、その夜逃げ去った。後にこれを恥じ憤り、ついに薨じた。

玉壁鎮守と離間の術

  • 周文帝は孝寛の功を嘉し、殿中尚書長孫紹遠を玉壁に遣わし労わせ、驃騎大将軍・開府儀同三司を授け宇文氏の姓を賜った。周文帝が北巡すると孝寛に玉壁への帰鎮を命じた。孝寛は撫御に長け人心をよく得た。派遣した間諜で斉に入った者はみな力を尽くし、また斉人で孝寛の金貨を得て遠く書を通じる者もあった。それゆえ斉人の動静は朝廷がみな先に知ることができた。
  • ある時主帥許盆が心腹として孝寛に信任され城を守らせたが、盆は城を挙げて反した。孝寛は怒り諜者を遣わしてこれを討たせ、まもなく首を斬って還した。その人心を得る様はこのようであった。
  • 汾州の北、離石の南は生胡の地ですべて居人を掠め河路を阻んでいたが、地が斉に属していたため誅すべきすべもなかった。孝寛はその要処に大城を一つ置こうと考え、河西に十万の徒役を徴し甲士百人を添え開府姚岳にこれを監築させた。岳は兵が少ないと恐れて難色を示したが、孝寛は「城を成すには十日で終わる見込みだ。晋州から四百余里離れているので、一日で着工しても偽の境(敵地)が知るのは二日目、晋州から兵を召すには三日かかる、謀議の間に自ずと三日を要する。その進軍を計るに二日では届かない。わが城塁はそれまでに完成する」と述べ築かせた。斉人は果たして南端まで来て大軍がいると疑い進まなかった。その夜、汾水南岸の介山・稷山の諸村で方々に火を放たせ、斉人はこれを軍営と思い兵を収めて自ら守った。版築(城壁の建設)は成就し、すべて孝寛の言葉通りとなった。柱国に進んだ。

宜陽・汾北をめぐる駆け引き

  • 晋公宇文護が東討しようとした際、孝寛は長史辛道献に啓を送って不可を陳べさせたが護は聞かず、果たして大軍は不利となった。その後孔城が陥り宜陽が囲まれると、孝寛はその将帥に「宜陽一城の地は損益にはあまり関わらない。しかし両国がこれを争えば軍を疲れさせること数年に及ぶ。彼にも君子は多く、はかりごとに乏しいはずがない。もし崤東を棄てて汾北を囲みに来れば、わが疆界は必ず侵擾される。今こそ華谷及び長秋に速やかに城を築いて賊の志を阻むべきだ。彼が先んじれば実に図りがたくなる」と述べ、地形を描いてその状を具に陳べたが、この事は実行されなかった。斉人は果たして宜陽の囲みを解いて汾北を経略し、城を築いて守った。
  • その丞相斛律明月が汾東に至り孝寛と会見を求めた。明月は「宜陽の小城で久しく争戦を労してきたが、今すでにこれを得たので汾北で償いを得ようと思う、怪しまれぬように」と言った。孝寛は「宜陽は彼の要衝、汾北はわが方が棄てた地。わが棄てた地を彼が図って償いとするとはどういうことか。まして君は幼主を輔翼し位も望みも重い、陰陽を調え百姓を撫すべきなのに、なぜ武を極め兵を窮め、怨みを構え禍を連ねるのか。ただ尋常の地を貪り疲弊した人を塗炭に陥れるのは、私が思うに君の取るべき道ではない」と答えた。
  • 孝寛の参軍曲厳は卜筮によく通じ、孝寛に「来年、東朝は必ず大いに殺戮し合うでしょう」と語った。孝寛は厳に謡歌を作らせた。「百升は天に飛び上がり、明月は長安を照らす」(百升とは斛である)、また「高山は推さずして自ら崩れ、槲木は支えずして自ら挙がる」というものであった。諜者に多くこの文を伝えさせ鄴に流した。祖孝徴はこれを聞くとさらに潤色し、明月はついにこれによって誅された。

平斉三策と晩年

  • 建徳の後、武帝は斉の平定を志し、孝寛は上疏して三策を陳べた。第一策は「臣は辺境に年を重ね、隙をかなり見てきました。機会に乗じなければ功を成しがたいものです。今大軍が軹関から出て方陣で進み、陳氏と掎角を為すとともに、広州の義旅を三鵶から出させ、山南の驍鋭を募って河沿いに下らせ、さらに北山の稽胡に并・晋の路を絶たせるべきです。これらの諸軍にそれぞれ関・河の外の勁勇の士を募らせ厚く爵賞を与え前駆とすれば、山川が動き雷電のごとく百道が並び進み、みな虜庭に趨きます。必ず旗を望んで奔潰し向かう所ことごとく摧殄されましょう。一戎で天下を定める好機はまさにここにあります」というものであった。
  • 第二策は「もし国家がなお後図を期し即座に大挙しないのであれば、陳人とその兵勢を分かつべきです。三鵶以北、万春以南に広く屯田を行い予め貯積し、勇悍な者を募って部伍を立てます。彼が東南に敵を持ち戎馬相持する隙に、我は奇兵を出して疆場を破ります。彼が興師して援けに赴けば我は堅壁清野し、去るのを待って再び出師します。常に辺外の軍で腹心の衆を引き寄せれば、我には宿舂(長期駐屯)の費えなく、彼には奔命の労があります。一二年のうちに必ず自ずと離散し、隙に乗じて掃討すれば枯木を摧くがごとくでしょう」というものであった。
  • 第三策は「昔勾践が呉を滅ぼすにもなお十年を期し、武王が乱を取るにもなお再挙を要しました。今なお時を待つのであれば、隣好を崇め盟約を申し、人を安んじ衆を和し、商を通じ工を恵み、鋭気を蓄え威を養い、隙を観て動くべきです。これこそ長策遠馭、坐して兼併を成す道です」というものであった。
  • 上奏を受け武帝は淮南公元衛・開府伊婁謙らを重幣とともに斉に聘した。その後大挙し再挙して山東を平定するに至り、すべて孝寛の策の通りとなった。

晩年と隋建国後の対尉遅迥戦

  • 孝寛は年老いて致仕(引退)をたびたび求めたが、帝は天下がまだ平定していないとして許さなかった。帝が東伐に赴く途中玉壁に立ち寄り防御の場を見て深く嘆美し、しばし去らなかった。孝寛は自ら斉人の虚実を熟知しているとして先駆けを願ったが、帝は玉壁が要衝であり孝寛でなければ鎮められないとして許さなかった。趙王招が兵を率いて稽胡から出て大軍と掎角した際、帝は孝寛を行軍総管とし華谷を囲み守らせて呼応させ、孝寛はその四城を克した。武帝が晋州を平定すると孝寛に再び旧鎮に還るよう命じた。
  • 帝の凱旋の途上再び玉壁に立ち寄り、孝寛に「世に老人は智に富み軍謀を善くすると言うが、朕はただ若い者たちと共に一挙に賊を平定した。公はどう思うか」と問うと、孝寛は「臣は今すでに衰え耄け、ただ誠心があるのみです。しかし昔壮年の頃には先朝に力を尽くし関右を定めたこともあります」と答えた。帝は大いに笑い「実にその通りだ」と言い、孝寛を伴い京に還り上柱国に進めた。
  • 大業元年(開皇初の意か)、行軍元帥として淮南を経略し、至るところで密かに誠款を送ってきた。彼の五門は特に険要で、陳人が塘を開いて水を放てば渡河の道が絶たれる恐れがあったため、孝寛は急ぎ兵を分けて守らせた。陳の刺史呉文立は果たして堰を決しようとしたが間に合わなかった。これにより陳人は退走し、江北はことごとく平定された。
  • 宣帝が崩じ隋の文帝が輔政すると、時に尉遅迥は先に相州総管であったが、詔により孝寛がこれに代わった。また小司徒叱列長文を相州刺史とし先に鄴へ赴かせた。孝寛が続いて進み朝歌に至ると、迥はその大都督賀蘭貴に書を持たせ孝寛の様子をうかがわせた。孝寛は貴を留めて語らせその様子を観察し、変事があるのではと疑いをかけ、病と称してゆっくり進んだ。また人を相州へ遣わし医薬を求めさせ密かにこれを探らせた。湯陰に至ると長文が逃げ帰るのに出会い、孝寛は事の真相を知ると馳せ帰った。経てきた橋や道はことごとく毀たせ、駅馬もすべて自分に随わせた。また駅将に「蜀公(尉遅迥に対抗する形容か。実際は孝寛自身を指す称)がまもなく至る、多く肴酒芻粟を備えて待つように」と言い含めた。迥は果たして儀同梁子康に数百騎を率いさせ孝寛を追わせたが、駅司の供設が豊かであったため経る所すべてで立ち止まり、これにより追いつけなかった。
  • 詔により関中の兵を発し孝寛を元帥として東伐させた。軍が河陽に次ぐと、迥の置いた儀同薛公礼らが懐州を囲み迫っていたため、孝寛は兵を遣わしてこれを撃破した。進んで懐県永橋城の東南に次ぐと、その城は要衝にあり雉堞も堅固で迥はすでに兵を遣わし拠らせていた。諸将は「この城は路に当たる、まずこれを攻め取るべき」と言ったが、孝寛は「城は小さいが堅固だ、攻めて抜けなければわが軍の威を損なう。彼の大軍さえ破れば、この城など何ほどのこともない」と述べ、軍を武陟に進め迥の子敦を撃破すると敦は軽騎で鄴へ奔った。軍が鄴の西門豹祠の南に次ぐと迥自ら出て戦い、これも破った。迥は窮迫し自殺し、関東はことごとく平定された。凱旋して京に還り、薨じた。
  • 孝寛は辺境に多年あって強敵に何度も抗した。その経略は布置のはじめには人々に理解されなかったが、事が成るのを見て初めて驚き服した。

史論

  • 孫子は「親しんでこれを離す」というが、孝寛が偽書で段琛を離間し、偽りの謡言で斛律明月を誅させたのがこれに当たる。また「守って必ず固し」というが、孝寛が玉壁を守り高歓が抜けなかったのがこれである。また「因間とは、その郷人に因ってこれを用いることである」というが、孝寛が金貨で斉人を懐柔しその動静を知ったのがこれに当たる。また「動くこと雷震の如し」というが、孝寛が雷駭電激・向かう所摧殄すと言ったのがこれである。また「佚してこれを労す」というが、孝寛が斉人に奔命の労を負わせようとしたのがこれに当たる。また「城には攻めざる所あり」というが、孝寛が永橋を攻めなかったのがこれである。