十七史百將傳卷八 周宇文憲

出自と若年の識見

  • 宇文憲は性格が通達鋭敏で度量があった。文帝がかつて諸子に良馬を色ごとに賜い自由に選ばせたところ、憲だけが毛色の純な馬を選んだ。理由を問うと「馬の色が種々ですと駿逸なものも多くなります。もし従軍征伐する際、牧圉(放牧の管理)が分かりやすくなります」と答え、帝は喜び「この子の智識は凡ならず、重器となるべきだ」と言った。
  • 明帝が即位すると益州総管を授けられた。先に蜀を平定した後、その地が要害の地であるため宿将を置きたくないと考え、諸子の中から選ぼうとした。武帝以下すべてに誰が行きたいか問うたが誰も答えぬ中、憲だけが先に願い出た。文帝は「刺史は民を撫し人に臨むもの、お前の及ぶところではない。年齢順であればお前の兄が継ぐべきだ」と言ったが、憲は「才用の違いは年齢の大小に関わりません。試して効がなければ甘んじて面と向かって欺いたと言われましょう」と答えた。文帝は憲がまだ幼いとして遣わさなかったが、明帝は先帝の意を継いでこの任を授けた。

蜀・晋州方面での対斉戦

  • 憲は時に十六歳であったが撫綏に長け政術に心を留め、訴訟が集まってきても聞くことに疲れず、蜀人はこれを喜んだ。斉の将独孤永業が来寇すると、詔により憲は柱国李穆とともに宜陽に出て崇徳等の城を築き、その糧道を絶った。
  • 斉の将斛律明月が洛南に塁を築くと、憲は洛水を渡ってこれを邀撃し、明月は逃走した。明月がまた汾北から西の龍門まで城を築くと、晋公宇文護は憲に計を問い、憲は「兄君はしばらく同州に出て威容を示してください、私は精兵を率いて先鋒となり機に応じて攻め取ります」と答えた。憲は龍門から出兵し、斉軍は夜に逃げたため、憲は河を渡ってその伏龍等四城を攻め二日でことごとく抜いた。
  • 汾州が長く包囲されていたため、憲は柱国宇文盛に糧を運ばせ、自らは両乳谷に入って斉の伯杜城を襲い克ち、柱国譚公会に石殿城を築かせて汾州の援とした。斉の段孝先・高長恭が大軍で至り、大将軍韓歓が斉人に押され退いたが、憲は自ら督戦し斉軍はしだいに退いた。日暮れとなり両軍は兵を収めた。後に爵を進めて斉王となった。憲はかつて兵書が繁多であるとして自ら刊定し表を陳べたところ、帝は覧て称賛した。

武帝の東征を助ける

  • 武帝が病臥中、衛王直が京師で挙兵した。帝は憲を召して「昭(招)はお前を前軍とせよ、朕もまた続いて発する」と言い、直はまもなく敗走した。帝が京師に至ると、憲は趙王とともに拝謁し謝した。帝は「管・蔡は誅戮され周公は輔佐となった、人心はそれぞれ異なりまさに顔がそれぞれ違うようなものだ。ただ兄弟が親しく干戈を交えたのは、朕の不徳ゆえだ」と語った。
  • 帝が東討しようとし独り内史王誼と謀り他の者は知らなかったが、諸弟の中で才略は憲に及ぶ者がないとして後に告げると、憲はただちにこれを賛成した。大軍が発する際、憲は金宝等十六件を表上して軍資を助けようとしたが詔は受け取らず、憲の表を公卿に示して「人臣たる者はこうあるべきだ、朕はその心を貴ぶのであり物を求めるのではない」と述べた。憲は前軍に任じられ黎陽に趨いた。帝は自ら河陰を囲んだが克てず、憲は武済を攻め抜き洛口を進んで囲み東西二城を抜いた。帝の病により班師した。
  • 上柱国の官が初めて置かれ憲がこれに任じられた。大挙して再び東討する際も憲は再び前鋒となり鼠谷を守った。帝は自ら晋州を囲み、憲は進んで洪洞・永安の二城を克ち、さらに進取を図った。斉主が晋州の包囲を聞き自ら援けに来ると、陳王純は千里径に、大将軍永昌公椿は雞棲原に屯し、大将軍宇文盛は汾水を守り、いずれも憲の節度を受けた。憲は密かに椿に「兵とは詭道である。今営を作るのに幕を張らず柏を伐って庵とし、拠点があるように見せかけよ。兵を去らせた後も賊はなお疑うだろう」と語った。斉主は軍を分けて一万を千里径に向かわせ、また汾水の関から出させ、自らは大軍を率いて椿と対峙した。宇文盛が急を馳せ告げると憲が自ら救い斉人は急ぎ退いた。盛と柱国侯莫陳芮はこれを追撃し多くを斬獲した。まもなく椿から斉軍が迫っていると告げられると憲はまた救援した。折しも勅命により召し還され、夜に兵を率いて反した。斉人は果たして柏の庵を幕と思い込み軍の撤退を疑わず、翌日になってようやく気づいた。

晋州の戦いと斉の平定

  • 帝がすでに晋州を離れ憲を殿後(後衛)として残していた際、憲は水を阻んで陣を敷いた。斉の領軍段暢が橋に至ると憲は水を隔てて姓名を問い、暢は「領軍段暢だ、公は誰か」と問うと憲は「私は虞侯大都督にすぎぬ」と答えた。暢が「言葉を見るに凡人ではない、なぜ名位を隠すのか」と言うと、憲は「私は斉王だ」と告げ、陳王純以下の名も明かした。暢は馬に鞭打って去り、憲は軍を還すよう命じた。斉人は急ぎ追い、戈甲鋭く迫ったが、憲は開府宇文欣とともに殿となってこれを拒ぎ、その驍将を斬り斉軍はようやく退いた。
  • 帝が再び憲に晋州攻撃を命じると、諸軍が総集しじりじりと城下に迫った。斉人が営の南に大陣を敷くと、帝は憲を馳せ行かせて見させた。憲は還って「これを破ってから食事をいたします」と復命し、帝は喜んだ。まもなく諸軍がともに進むと敵は瞬時に大潰し、斉王は逃走した。斉人は高壁と洛女に再び拠ったが、帝は憲に洛女を攻めさせこれを破った。斉主は鄴へ逃げ、安徳王延宗を留めて并州に拠らせた。帝が進んでその城を囲むと、憲はその西面を攻めこれを克ち、延宗は逃げたが追われて捕らえられた。帝は憲に鄴に趨くよう詔し、憲は進んで鄴城を克した。
  • 憲は兵謀に長け撫馭に巧みで、鋒を摧き陣を陥すには常に士卒の先頭に立ち、斉人はその名を聞くだけでその勇略を畏れた。斉の任城王湝・広寧王孝珩らが信都を守ると、帝は再び憲に討伐を詔し、斉主に自ら書を書かせて湝を招かせたが湝は受け入れなかった。憲の軍が趙州を過ぎると湝は間諜二人にこれを偵察させたが、斥候がこれを捕らえて憲に報告した。憲は斉の旧将を集めてこれを遍く示し「私が争うところは大きく、お前たちにはない」と言って解き放ち使者に立てて湝への書を持たせた。憲は信都に至り湝および孝珩らを捕らえた。

史論

  • 孫子は「草が多く隠れやすい所は疑わせるためである」というが、憲が柏を伐って庵としたことで斉人がその撤退を知らなかったのがこれに当たる。また「将軍はその心を奪うことができる」というが、憲が名位を敵に告げると段暢がそのまま去ったのがこれである。また「反間とは敵の間者を用いることである」というが、憲が斉の間者を捕らえてかえって使者に立てたのがこれに当たる。