出自と若年の武勇
- 斛律光、字は明月、斛律金の子。馬面彪身、神爽雄傑で寡黙、騎射に長じた。文襄(高澄)に庫直として仕え、野に出た際に双雁が飛来するのを見て射るよう命じられ、二矢でともに射落とした。
- 後に文帝の西征に従い、行間にいた魏の長史莫孝暉を、光は齢十七ながら馳馬して射中て陣中で捕らえた。神武はただちに都督に抜擢した。また文襄に従い洹橋で校猟した際、雲間に大鳥を見つけて射ると頸に命中、車輪のように旋回して落ちてきたのは雕であった。丞相属の邢子高は「これぞ射鵰の手」と嘆じ、当時「落雕都督」と号された。
齊受禅後の対周戦
- 斉が受禅(高洋の建国)すると、光は爵を進めて鉅鹿郡公となった。
- 周の大司馬尉遅迥・斉公憲・庸公王雄らが十万の衆で洛陽を攻めると、光は五万騎を率いて馳せ向かい邙山で戦い、迥らを大破した。光は自ら王雄を射殺し、迥・憲はかろうじて逃れた。
- 文宣帝の時代、周人は常に斉兵の西渡を懼れ冬に氷を割って備えていたが、帝の即位後は朝政がしだいに乱れ、斉人が氷を割るのを見ると逆に周兵の迫るのを懼れるようになった。光は「国家にはかつて関隴を呑む志があったのに、今は声色を弄ぶばかりだ」と憂えた。
- 周軍が洛陽を囲み糧道を絶つと、光は歩騎三万を率いて防ぎ、詔により右丞相を加えられた。光はさらに衆を率いて平隴など十三の鎮戍を築いた。韋孝寛らが平隴に迫ると光は汾水で戦いこれを大破した。
- 周が宜陽を囲むと、光は歩騎五万を率いて赴き城下で戦い、周の建安など四つの戍を奪って千余人を捕らえて還った。
- 軍が鄴に至らぬうちに勅で兵を放って解散させよと命じられたが、光は功ある者への慰労がまだなのに恩沢が施されなければ人心が離れると考え、密かに上表して使者の派遣を求め、軍を進め続けた。朝廷の使者派遣が遅れ、軍が紫陌に至ると光は営を駐めて使者を待った。帝は光の軍がすでに迫っていると聞き内心これを嫌い、急ぎ舎人を遣わして光だけを呼び入れて謁見させ、その後で兵を労い解散させた。光は左丞相を拝した。
祖珽・穆提婆との軋轢
- 光が朝堂で簾を垂らして座っていたところ、祖珽はそれと知らず馬で前を通り過ぎた。光は怒って「この者よくもそのような真似を」と言った。後に珽が内省で声高に驕り高ぶった物言いをするのを光が漏れ聞き、また怒った。
- 褚士達が夢で人が戸に寄りかかり詩を授ける夢を見た話(「九升八合の粟、角斗はまさに真ならず、その津中の水を堰き止めれば、いずこの人を留めるべきか」)を珽に告げると、珽は「角斗は斛の字、津却水・何留人を合わせれば律の字、非真とは斛律氏が我に不実ということだ」と占った。士達がさらに夢の姿がその亡父の形であったと語ると、珽はこれを深く懼れた。
- また穆提婆が光の庶女を娶ろうとしたが、光は許さなかった。帝が提婆に晋陽の田を賜うと、光は朝廷で「この田は神武帝の代以来禾を植え馬を飼って寇難に備えてきた地です。これを賜えば軍務に支障が出はしませんか」と述べた。帝がまた鄴の清風園を提婆に賃貸として賜うと、官には菜が無くなり人から高値で買う羽目になり、その民が訴え出た。光は「この菜園を提婆に賜えば提婆一家が足り、賜わなければ百官が足ります」と言い、これにより祖珽・穆提婆の恨みが積もった。
讒言と誅殺
- 周の将韋孝寛は光を恐れ、童謡を作らせ間諜に鄴で伝えさせた。「百升は天に飛び上がり、明月は長安を照らす」「高山は推さずして自ら崩れ、槲木は支えずして自ら挙がる」というものであった。珽はこれに「盲いた老公が背に大斧を負い、饒舌な老母は語ることができぬ」と続け、童子に路上で歌わせた。提婆はこれを聞いて母の陸令萱に告げ、萱は「饒舌」を自分への当てつけ、「盲老公」を祖珽への当てつけと解し、両者は共謀してこの謡言を帝に啓上した。
- 珽はさらに顔元に光が謀反を企てていると告げさせ、曹魏祖には「上将の星が盛んです、誅さねば災禍があるでしょう」と奏させ、丞相府佐の封士遜には「光は先に西討から還る際、勅で兵を放って解散させよと命じられたのに軍を帝京に迫らせ不軌を図ろうとし、果たさずに止まりました。早く図らねば事態は測り難くなります」と密かに啓上させた。
- 帝はついに光を殺し、血が地に流れ、その跡は削っても終に消えなかった。
人となりと死後
- 光は家では厳粛で、子弟を見ることは君臣に対するようであった。財利を営まず、贈答を杜絶し、門に賓客がなく、朝士とほとんど言葉を交わさず、政事にはあずからなかった。会議では常に最後に発言し、その言は必ず理に適っていた。上表を作るときは人に筆を執らせ口述し、簡潔実質を旨とした。用兵には匈奴の卜法を用い、吉凶ことごとく的中した。軍営がまだ定まらぬうちは決して幕舎に入らず、終日座らぬこともあり、甲冑を脱がず常に士卒の先頭に立った。罪ある者は大杖で背を打つのみでみだりに人を殺さず、兵はみな争ってこれに死力を尽くそうとした。拓いた地は五百里に及びながら功を誇ったことはなく、髪を結って従軍して以来一度も軍律を失わず、隣国の敵から深く畏憚された。
- 罪も明らかでないまま一朝にして誅滅され、朝野はこれを惜しんだ。周の武帝は光の死を聞くと境内に大赦を行い、後に鄴に入ると光を上柱国に追贈し、詔書を指して「この人がもし生きていたら、朕がどうして鄴に至れようか」と言った。
史論
- 孫子は「天とは陰陽・寒暑・時制なり」というが、光が匈奴の卜法を用いて吉凶ことごとく的中させたのがこれに当たる。また「卒を視ること愛子の如し」というが、光の軍営が未定であれば終に幕舎に入らなかったのがこれである。また「隙を輔(たす)ければ国は必ず弱し」というが、光が誅殺されたことで周の武帝がついに鄴に至り得たのがこれに当たる。