出自と孝行
- 吳明徹、字は通昭、秦郡の人。幼くして父を亡くし、性は至孝であった。十四歳のとき先祖の墳墓が荒れているのを憂え、家が貧しく修める費えもなかったため懸命に耕作した。折しも天下は日照りで苗は枯れ果てていたが、明徹は哀しみ憤り、毎日田に行って号泣し天に訴えた。数日後、田から戻った者が「苗はもう生き返っていた」と言ったが、明徹は自分を慰めるための偽りだと疑い、行ってみると本当にそのとおりで、秋には大いに収穫でき葬儀の費用を賄うに足りた。
- 当時、墓相を善くする伊氏という者があり、その兄に「あなたの父君の葬る日には必ず白馬に乗り鹿を追う者が墳を過ぎるでしょう、これは末子が大貴となる兆です」と告げたところ、果たしてその通りになった。侯景が郡を侵したとき、明徹は粟麦三千余斛を蓄えていたが、近隣が飢えているのを見て兄たちに「今、人はもはや長く保てない、なぜ隣里と共にこれを分かち合わないのか」と説き、口数に応じて均等に分け、豊凶を共にした。群盗はこれを聞いて避けたので、この恩恵で生き延びた者は甚だ多かった。
陳武帝への出仕
- 陳の武帝が京口に鎮したとき明徹と深く結ぼうとし、明徹は武帝を訪ね、帝は階を降りて手を執り席を共にした。明徹はまた書史・経伝にも通じ、汝南の周弘正に天文・孤虛・遁甲を学び、その術をおおよそ会得しており、英雄をもって自ら任ずるところがあった。武帝もまたこれを甚だ奇とした。禅譲を受けると安南將軍を授かった。文帝が即位すると明徹を江州刺史・領豫章太守とし、諸軍を総じて周迪を討たせた。明徹は性が剛直で統下との折り合いがあまり良くなかったため、文帝はこれを聞き安成王頊に代えさせ、明徹は朝に還った。
寿陽攻略
- 宣帝の初め、朝議で北征が論じられ公卿の意見は分かれたが、明徹は決断して自ら行くことを願い出た。詔により侍中を加え征討諸軍事の都督となり、十余万の軍を総じて都を発つと、長江沿いの城鎮は相次いで降伏した。寿陽に迫ると、齊は王琳を遣わして拒がせた。明徹は夜のうちに攻めると、王琳の軍は夜半にして潰え、齊兵は相国城と金城に退いて拠った。明徹は軍中に攻具を修めさせ、また淝水を遏き止めて城に灌がせた。城中は湿気に苦しみ多くが病に罹り、手足が腫れて死者は十のうち六七に及んだ。
- 折しも齊は大將皮景和を遣わし数十万の兵で援けさせたが、寿春まで三十里の地に軍を止めて進まなかった。諸將が「どうすべきか」と問うと、明徹は「兵は速さを貴ぶもの、それなのに彼は陣を結んで進まない、自ら鋭気を挫いているのだ、彼が敢えて戦わぬのは明らかだ」と述べ、自ら甲冑を着けて四面から急攻すると、城中は震え恐れ、一鼓のうちに王琳らを捕え建鄴に送った。皮景和は懼れて逃げ去った。詔により車騎大將軍・豫州刺史とされ、謁者蕭淳を寿陽に遣わし策を授けさせた。城南に壇を設け士卒二十万、旗鼓戈甲を陳ね、明徹は壇に登り拝受し、儀式を終えて退いた。
呂梁の敗北と最期
- 周が齊を滅ぼすと、宣帝は徐・兗を図ろうとし、明徹に北侵を命じた。軍は呂梁に至り、周の徐州総管梁士彦が軍を率いて拒戦したが、明徹はしばしばこれを破り、さらに清水を遏き止めて城に灌がせ、猛攻を加え、舟艦を城下に環らせた。周は大將軍王軌を遣わして救援させた。軌は軽装で清水から淮口に入り、流れを横切って木を立て、鉄鎖で車輪を貫いて船の通路を遮った。
- 諸將はこれを聞いて甚だ懼れ、堰を破って軍を退かせ、船に馬を乗せようと議した。裴子烈は「もし堰を決して船を下せば船は必ず傾き倒れる、そんなことができようか。むしろ先に馬を出させるべき」と言った。折しも明徹は病篤く、事すでに成らぬと知りこれに従い、蕭摩訶に馬軍数千を率いて先に帰らせた。明徹は自ら堰を決し、水力に乗じて軍を退かせようとしたが、清口に至ると水勢は弱まり、舟艦はいずれも渡れず、諸軍はみな潰えた。明徹は窮まって捕えられ、周は懐徳郡公に封じたが、憂いから病を得て卒した。
史論
- 孫子は「上下、欲を同じくする者は勝つ」というが、明徹の統下が不和であったため文帝がすぐに代えさせたのがこれに当たる。また「その意ならざるに出づ」というが、明徹が夜のうちに王琳を攻めたのがこれである。また「兵の情は速を主とす」というが、明徹が敵が陣を結んで進まぬ隙に一鼓のうちに捕えたのがこれに当たる。