十七史百將傳卷七 梁王僧辨

出自と登用

  • 王僧辨、字は君才。学は広く該博で、とくに『左氏春秋』に明るかった。射は札を穿つほどではなかったが、凌雲の気概を持っていた。当時、安城の望族に劉躬という者がいて田で白蛆を得たがそれが金龜に化けたため、これを溶かそうとすると龜が光を発して室を照らした。躬はこれを神とし祈願すると多くが験を得たため、ついに謀反を企て遠近が呼応した。元帝は曹子郢に討伐を命じ、僧辨に安城を襲わせた。子郢がその軍を破ると躬は安城に逃げ、僧辨がこれを捕えた。これにより勇略の名を得た。

侯景討伐緒戦

  • 侯景が反し長江を西へ下って寇すると、軍は夏首に次った。僧辨は大都督として巴陵に次った。景が郢城を陥すと荊州に進もうとしたので、沿江の屯戍は風を望んで服従した。僧辨は公私の船をことごとく水に沈め、諸軍に城を分けて固く守らせ、旗を伏せ鼓を止めて、人がいないかのように装った。翌日、賊衆が長江を渡り軽騎で城下に至ると城中に「梁王の軍が来ている、なぜ早く降らぬのか」と言ったが、僧辨は「大軍はただ荊州へ向かうのみ、この城は障りにはならない、僧辨の一族百口は人の掌中にある、どうして安々と降れようか」と答えさせた。
  • まもなく景の軍が攻めてくると、城内は一斉に鼓譟し矢石が雨のように降ったため、賊は退いた。賊は城を攻め落とせず、また火艦で柵を焼こうとしたが風向きが悪く自らの船を焼いて退いた。流星が賊の営中に落ちると、賊徒は大いに驚き顔色を失った。賊帥任約もまた陸法和に捕えられ、景はついに営を焼いて夜に逃げた。
  • 元帝は僧辨を征東將軍・開府儀同三司とし、巴陵の諸軍を率いて長江を下り景を討伐させた。魯山を攻め拔き、続けて郢を攻めて羅城に入った。また大星が車輪のように賊の営中に落ち、地から十丈のところで火となって一時に破散し、龍が城から出て五色の光を放ちながら鸚鵡洲の水中に入った。景はこれを聞き道を倍にして建鄴へ帰った。賊帥宋子仙らは追い詰められ郢城を返し自ら景のもとへ帰ることを求めたので、僧辨は偽ってこれを許した。子仙はこれを真に受け船で発とうとしたが、僧辨は杜龕に鼓譟して不意を襲わせ大破し、子仙・丁和らを捕えて江陵に送った。

郢州・尋陽攻略と建鄴進撃

  • 郢州平定後、僧辨は尋陽に進軍した。軍人の多くが周・何二廟の神が「私は天子を助けて賊を討つ」と語る夢を見た。僧辨は自ら征討大將軍と称し朱航に乗ったが、まもなく「すでに景を殺した」という夢を見る者が数十百人に及んだ。元帝は僧辨に侍中尚書令・征東大將軍を加えた。僧辨はしばしば表を上げて即位を勧め、いずれも厚い返答を受けた。
  • 江州を発ち建鄴へ直進するにあたり、先に南兗州刺史侯瑱に南陸・鵲頭などの戍を襲わせ、みなこれを克した。鵲頭を発って江中に至ると風浪が起こり、軍人は皆懼れた。僧辨は再拝して天に「僧辨は忠臣として辞を奉じ罪を伐つ、社稷が中興するなら順風がまさに凪ぐはず、もし天命がここに尽きるならこのまま逝きます」と告げると、言い終えて風は止み、以後は安らかな流れとなり、群魚が水を躍り空を飛んで先導するかのようであった。賊は官軍の上に五色の雲があり双龍が艦を挟んで甚だ迅速に行くのを望み見た。
  • 景は自ら石頭城の北で出て戦ったが、僧辨らは大いにこれを破った。盧暉略は景の敗戦を聞き石頭城を降し、僧辨は軍を進めてこれに拠った。景は朱方へ逃げ、僧辨は諸將に台城への進入を命じた。その夜、軍に失火があり太極殿と東西堂を焼いた。僧辨は賊を滅ぼす功はあったが、部下を御することに法度がなく、軍人は掠奪を働き居民を駆り立てたため、都下の百姓は淮に沿って号泣し、かえって景の時代を懐かしむほどであった。元帝が即位すると鎮衛將軍を授けられた。

湘州陸納討伐と最期

  • 天監年間に沙門釈寶志が讖を為して「太歳の龍将は理なく、蕭は霜草の如く経て応に死すべし、余人は散じて十八子となる」と述べ、当時、蕭氏はいずれ滅び李氏が代わって興ると言われた。湘州の賊陸納らが衡州刺史丁道貴を攻め破り、李洪雅もまた零陵から自ら討伐を助けると称した。朝廷はその真意を計りかねたまま、詔で僧辨を宜豐侯循に従わせ東上諸軍事の都督とし、陳武(陳霸先)を西下諸軍事の都督に充てた。先に陳武が僧辨に都督を辟召しようとしたが僧辨は受けなかったため、元帝は東西の都督を分け、両者ともに南討させることとなった。
  • まもなく洪雅は納に降り、納は洪雅を天の応符とみなし、共に洪雅を大將軍とし主として奉じることを議した。洪雅は平肩の大輿に乗り繖蓋・鼓吹・羽儀をすべて備え、長沙城へ翼従して入った。納らは車輪に拠り両岸に城を挟み築いた、士卒はみな百戦を経た残兵で器甲は精嚴、徒党は勇銳、蒙沖闘艦は水陵山にまで至った。この時、天は晴れて雲霧一つなかったのに、軍が出発すると突然風雨があり、時人はこれを「泣軍」と呼んだ。百姓はひそかにこれを敗北の兆と語った。二匹の龍が城西の江中から天へ躍り昇り、五色鮮やかに江水に映え、百姓はみな仰ぎ見て、父老は集まって悲しみ「地龍がすでに去った、国はもう滅びるのではないか」とささやいた。
  • 初め、納は「三王艦」と名づけた大艦を一隻造った。邵陵王・河東王・桂陽嗣王の三人はみな元帝に殺されていたため、その像を艦に立て太牢を供えて祭り、戦うたびに祭って福を求めた。さらに青龍艦・白虎艦の二艦を造り、いずれも牛皮を覆い高さ十五丈、最も勇健な者を選んで乗せた。僧辨はこれを憚り、連城を築いて次第に迫った。賊は戦を交えることを恐れ、みな懈怠の色を見せた。僧辨はその備えのない隙をついて自ら旗鼓を執って進退を戒めると、賊衆は大敗し長沙に退いて守った。僧辨はさらに多くの塁を築いて包囲し、自ら出てこれを臨視した。
  • 賊は僧辨の備えのないことを知り、その党吳藏・李賢明らが盾を持って直進したが、僧辨はなお胡床に据わったまま動じず、勇敢な者を指麾させ、賢明を斬らせると賊は退き帰った。
  • 初め、陸納の反乱では「王琳を放てば自ら服する」と言っていた。当時諸軍はまだ許さなかったが、武陵王紀が上流に軍勢を擁し内外が驚き懼れたため、元帝は琳を遣わして和解させ、湘州はようやく平定された。詔により僧辨は諸軍とともに西討することとなったが、まもなく武陵王が敗績した。僧辨は後に陳武帝に殺された。

史論

  • 孫子は「天地は孰れが得たる」というが、僧辨が星の墜ち龍の去る異変に乗じて成功を収めたのがこれに当たる。また「法令は孰れか行わる」というが、僧辨は賊を滅ぼす力がありながらも部下を御することに法がなかったのがこれである。また「軍の擾るるは將の重からざるなり」というが、僧辨が胡床に拠ったまま動じなかったのがこれに当たる。