十七史百將傳卷七 梁韋叡
梁の将軍韋叡(字は懐文、京兆杜陵の人、?–520年)。梁の武帝の挙兵に応じて登用され、小峴・合肥を攻略し、鍾離の戦いでは魏の中山王元英の大軍を大破して国難を救った名将。士卒を仁愛し、常に緩やかな服のまま輿に乗って戦陣を指揮した。
出自と登用
- 韋叡、字は懐文、京兆杜陵の人。自ら梁の武帝に結んだ。挙兵の檄が至ると叡は郡人を率いて竹を伐って筏とし、道を倍にして駆けつけ、衆二千・馬二百匹を得た。帝はこれを見て甚だ悦び、机を撫でて「今日、君の顔を見て初めて君の心を見た、私の事は成ったも同然」と語った。大軍が郢を発つとき、留守の將を誰にするか帝は迷い、しばらくして叡を顧み「騏驥(駿馬)を棄てて乗らず、なぜあわてて他を求めようか」と言い、その日のうちに江夏太守とした。天監二年(503年)、豫州刺史に遷り歴陽太守を兼ねた。魏が兵を送って伐つと叡は州兵を率いて撃退した。
小峴・合肥攻略
- 天監四年(505年)、魏を侵すにあたり叡に諸軍の都督を命じた。叡は長史王超宗・梁郡太守馮道根を遣わし魏の小峴城を攻めさせたがまだ抜けなかった。叡が囲柵を巡視していると魏城中から突然数百人が出て門外に陣を布いた。叡がこれを撃とうとすると、諸將は「もとより軽装で来た、まず戻って甲冑を授かってから戦うべき」と言ったが、叡は「魏城中には二千余人がいて門を閉じて堅守すれば自らを保つに足る、今わけもなく人を外に出したのは必ず驍勇の者、これを挫けば城は自ずと落ちる」と述べ、なお躊躇う諸將に持節を指して「朝廷がこれを授けたのは飾りではない、韋叡の法は犯すべからざるものだ」と言い、進軍させた。魏軍は敗れ、これに乗じて急攻すると一夜のうちに城は抜けた。
- そのまま合肥を討った。先に右軍司馬胡景略が合肥に至ったが久しく落とせずにいた。叡は山川を視察して「私は汾水が平陽を灌漑できると聞いたことがある、まさにここもそうだ」と述べ、淝水を堰き止め、しばらくして堰の水が城に通じ舟艦が続々至った。魏は初め淝の両岸に東西の小城を分けて築いていたので、叡は先にこの二城を攻めた。まもなく魏の援將楊靈嗣が五万の軍で不意に至り、衆は敵しがたいと懼れて増兵の上表を求めた。叡は「賊はすでに城下に至っている、今さら援軍を求めても遅い、それに我が援軍を求めれば彼もまた衆を召すだろう、師は和を得てこそ克つ、これは古人の義だ」と述べ、戦ってこれを破り、軍人はやや安んじた。
- 初め淝水の堰が立つと軍主王懷にこれを守らせるべく岸に城を築かせたが、魏はこの城を陥し勝ちに乗じて叡の城下に至った。軍監潘靈祐は叡に巣湖への退却を勧め、諸將もまた三丈への退避を求めたが、叡は怒って「將軍は死しても綏(後退)せず、進むあって退くなし」と述べ、傘扇や麾幢を堤の下に立てさせ動く気のないことを示した。叡はもとより体が弱く、戦うときも馬に乗らず板輿に乗って軍を督励した。魏兵が堤を鑿ると叡は自らこれを争い、魏軍は退いた。そこで堤に塁を築いて固め、闘艦を起こして合肥城と等しい高さにし四面から臨ませた。城はついに潰え、俘虜は一万余に及んだ。得た軍実は私することがなかった。
- 初め、胡景略と前軍趙祖悅は同じ軍にありながら仲が悪く互いに陥れようとしていた。景略が一度怒って自らの歯を齧り血を流したこともあった。叡は將帥の不和が禍を招くと考え、酒を酌んで自ら景略に勧め「どうか両虎(両将)とも私闘をなさらぬよう」と諭した。それゆえこの役の間、害を被ることはなかった。叡は昼は客と会い夜は軍書を算じ、三更に起きて灯をともし夜明けまで軍を撫循し、いつも間に合わぬかのように努めたため、募る士は争って叡のもとに集まった。至る所の陣所は整然と建てられ、館宇・藩籬・墉壁はみな規律に適っていた。
- 合肥平定後、詔により班師することとなった。魏軍が近くにあり追撃を懼れたので、叡は輜重をすべて前に置き自らは小輿に乗って殿(しんがり)を務めた。魏人は叡の威名に服し望んで近づけず、全軍で帰還した。これにより豫州の治を合肥に遷した。
鍾離の戦い
- 天監五年(506年)、魏の中山王元英が北徐州を攻め、刺史昌義之を鍾離に囲むと、兵百万、連なる城四十余に及んだ。武帝は征北將軍曹景宗を遣わし拒がせたが、邵陽洲に次って塁を築いて相守り進めなかった。帝は怒り叡を召し合流させ龍環御刀を賜り「諸將に命に従わぬ者あらば斬れ」と告げた。叡は合肥から陰陵の大澤を経て澗谷を過ぐるたびに橋を飛ばして渡った。軍人は魏軍を畏れ緩行を勧める者が多かったが、叡は「鍾離は今、穴を鑿って身を潜め戸を負って水を汲む有様、車馬を馳せてなお遅れを恐れるのに、まして緩めてよいものか」と述べ、旬日で邵陽に至った。
- 初め帝は景宗に「韋叡は卿の郷里の名望ある人、よく仕えよ」と勅していたので、景宗は叡に甚だ謹んだ。帝はこれを聞き「二將が和すれば、事は必ず成る」と言った。叡は景宗の営前二十里の地で夜に長い塹を掘り鹿角を立て、洲を截って城とし、明け方までに営を立てた。元英はこれを見て大いに驚き杖で地を叩いて「これは何と神業か」と叫んだ。
- 景宗は城中の危懼を案じ、募った軍士言文達・洪騏麟らに勅書を持たせて城に入らせ、固守するよう命じた。彼らは水底を潜って東城に達した。城中は日ごと苦しい攻防を続けていたが、援軍があると知ってようやく人々は百倍の勇を得た。魏の將楊大眼が一万余の騎兵で挑んできた。大眼の勇は三軍に冠たるもので向かう所を靡かせていたが、叡は車を結んで陣とし、大眼が騎兵で囲むと強弩二千を一斉に放ち、甲を貫き中るごとに殺傷者が多く出た。矢は大眼の右腕を貫き、大眼は魂消えて逃げた。
- 翌朝、元英みずから軍を率いて戦いを挑んだ。叡は素木の輿に乗り白角の如意を執って軍を麾き、一日に数合、元英はその強さを甚だ憚った。魏軍は夜にも城を攻め、矢が雨のように集まった。叡の子黯が下城して矢を避けるよう請うたが叡は許さなかった。軍中が動揺すると叡は城上から厲声で叱り、事は定まった。
- 魏軍は先に邵陽洲の両岸に二つの橋を作り数百歩の柵を立て淮を跨いで通道としていた。叡は大艦を装い、梁郡太守馮道根・廬江太守裴邃・秦郡太守李文釗らに水軍を担わせた。折しも淮水が暴漲すると叡はただちにこれを遣り、闘艦は競い発って賊の塁に迫り、小船に草を積んで膏を灌ぎ橋を焼いた。風が怒り火が盛んになり、敢死の士が柵を抜き橋を斫ると水はますます急に流れ、あっという間に橋柵はことごとく壊れた。道根らは皆自ら白兵戦を交え、軍人は奮い立ち喊声は天地を動かし、一人が百人に当たらぬ者はなかった。魏人は大潰し、元英は身一つで逃れた。魏軍は水に趨って死する者十余万、斬首もまた同数に及び、残る者は甲を釈いて頭を垂れ囚奴となることを乞う者なお数十万に及んだ。叡は昌義之に報せを送ると、義之は悲喜こもごも答える暇もなく、ただ「更生!更生!」と叫んだ。この功により侯に進爵した。
晩年
- 司州刺史馬仙理がこの地から軍を還す際、魏人に追われ三関が動揺したため、詔により叡に諸軍を督させこれを援けさせた。叡は安陸に至り城を二丈余り増築し、さらに大きな塹を開き高楼を起こしたので、人々はその示す弱さをやや譏った。叡は「そうではない、將たる者は時に怯を装うこともある」と述べた。この時、元英は再び仙理を追い邵陽の恥をそそごうとしていたが、叡が至ったと聞くと退いた。帝もまた軍を罷めさせた。
- 普通元年(520年)、侍中・車騎將軍に遷ったが拝命前に家で卒した。叡はもとより世を超えた度量があり、人に接するには愛惠を本とし、居る所に必ず政績を残した。兵を率いては士卒を仁愛し、営幕がまだ立たぬうちは決して舎に就かず、井竈がまだ整わぬうちは自らも先に食べなかった。服は儒者のようにし、陣に臨んで敵と交える時も常に緩やかな服のまま輿に乗り、竹の如意を執って進退を麾いた。
史論
- 孫子は「兵の情は速を主とす」というが、叡の軍が旬日で邵陽に至ったのがこれに当たる。また「神なるかな神なるかな、無声に至る」というが、叡が夜明けまでに営を立て元英を大いに驚かせたのがこれである。また「若かざれば則ちよくこれを避く」というが、叡が「將たる者は怯を装う時もある」と述べたのがこれに当たる。また「卒を視ること愛子の如し」というが、叡が営幕が立たぬうちは舎に就かなかったのがこれである。