出自と登用
- 王鎮惡、北海劇の人。祖父は王猛で苻堅に仕え将相を兼ねた。鎮惡は五月生まれで、家人は俗の忌みにより疎宗へ出継させようとしたが、猛は「この子はただの子ではない、昔、孟嘗君は悪月生まれでありながら斉の相となった、この子もまた我が家を興すだろう」と言い、鎮惡と名づけた。諸子・兵書をよく読み、軍国の大事を論じることを好み、騎射に優れ果断であった。
- 宋の武帝が広固を伐つとき、ある人が鎮惡を推挙した。武帝は召して語り合うと異才と認め、そのまま宿泊させた。翌朝、諸佐に「鎮惡は王猛の孫、いわゆる将門に将ありというものだ」と語った。武帝が劉毅の討伐を謀ると、鎮惡は「公が西楚に事あらば、百舸(船)を前駆として与えてください」と願い出た。西伐に際し、鎮惡は参軍事に転じ、龍驤將軍蒯恩を率いて百舸で先発させた。鎮惡は命を受けると昼夜兼行し、兗州へ向かうと揚言させたので劉毅はこれを信じ、襲われることを知らなかった。
劉毅討伐
- 鎮惡は江陵城まで二十里の地点で船を捨てて陸行し、蒯恩の軍を前に鎮惡はこれに次いだ。舸には三人を残し、対岸に旗を立て鼓を安置させ、留めた者に「私が城に至る頃合いを見て長く鼓を鳴らせ、後方に大軍がいるように見せかけよ」と言い、また別隊を後方に配して江津の船を焼かせた。鎮惡はまっすぐ城を襲い、津戍や百姓は皆、劉藩(劉毅の弟)が本当に来たと思い疑わなかった。城に近づくと毅の要将朱顯之に会い、馳せて藩の所在を問われると軍人は「後にいる」と答えた。顯之が軍の後方まで行っても藩を見出せず、江津の船艦が焼かれ鼓声が甚だ盛んなのを望み見て、藩ではないと悟り馬を躍らせて毅に告げ城門を閉じさせようとした。しかし鎮惡もまた馳せ進んで城に入り、風に乗じて放火し大城の南門と東門を焼いた。さらに人を遣り詔書・赦文・武帝の手書き三通を毅に示したが、毅はみな焼いて見なかった。金城内もまた帝が自ら来たことをまだ信じていなかった。
- 白兵戦になると鎮惡の軍人と毅配下の将には父兄子弟や姻戚が混じっており、戦いつつ語り合ううちに武帝が後方にいると知れ人心は離れた。毅は大城の東門から出て牛牧の仏寺へ逃れ自縊した。鎮惡は身に五本の矢を受け、手に執った槊は途中で折れた。江陵の平定から二十日後にようやく大軍が到着した。
長安攻略
- 武帝の北伐に際し、鎮惡は諮議・行龍驤將軍として前鋒を領した。出発に先立ち前將軍劉穆之は「昔、晉の文王(司馬昭)は蜀の攻略を鄧艾に委ねた、今もまた関中を卿に委ねる、努めよ」と告げた。鎮惡は「我らは風雲に託されて抜擢を受けた、今、咸陽を克さずしては誓って江を渡らぬ。三秦を定めても公(劉裕)に九錫が至らねば、それも卿の責である」と答えた。鎮惡は賊境に入ると戦って勝たぬことなく、大軍は潼関に次って進取の計を謀った。
- 鎮惡は水軍を率いて黄河から渭水に入り渭橋へ直行することを求めた。鎮惡の乗った船はみな蒙沖の小艦で、漕ぐ者はみな艦内に隠れ渭水を遡上したので、艦外からは漕ぎ手が見えなかった。北の地はもともと舟楫を知らず、人々は皆神だと驚いた。鎮惡は着くと将士に食事を終えさせ船を捨てて上陸させた。渭水の流れは急で、諸艦はみな流れ去ってしまった。鎮惡は士卒を慰め「ここは長安城の北門外、家までは万里の道、それなのに衣糧を積んだ船はすでに流れ去った、ただ死戦あるのみ、大功を立てられる」と述べ、自ら士卒に先んじて城を陥した。
- 城内には六万余戸があり、鎮惡は初めて帰順した人々を慰撫し号令は厳粛であった。灞上で武帝を出迎えると、武帝はこれを労って「私の覇業を成したのは貞に卿だ」と称え、鎮惡は「これは明公の威と諸将の力によるものです」と答えた。帝は笑って「卿は馮異を学ぼうというのか」と述べた。帝は次子義真を安西將軍として留め、鎮惡は征虜將軍として安西司馬を領し防御の任を委ねられた。王猛が苻堅の相であったことから北人は鎮惡を諸葛亮になぞらえ、関中攻略の功も鎮惡が第一であったため、時の論者はこれを深く憚った。
沈田子との確執と死
- 沈田子は鎮惡と功を争った。武帝が帰ろうとするとき田子と鎮惡を留め、密かに田子に「鍾会がその乱を遂げられなかったのは衛瓘らがいたためだ。諺に『猛獣は群狐に及ばず』という。お前たち十余人がいて、なぜ鎮惡を恐れることがあろうか」と告げた。それゆえ二人は常に互いに疑いの心を懐いていた。ある時、鎮惡と田子はともに傅弘之の塁で会したが、田子は人払いを求めて鎮惡を斬った。弘之は義真のもとに走ってこれを告げると、義真は王修とともに甲を着けて橫門に登りその変を伺った。まもなく田子が至り鎮惡が反したと述べたが、修は田子を捕らえ、専断で人を殺した罪で斬った。
史論
- 孫子は「兵は詐を以て立つ」というが、鎮惡が劉藩が来ると揚言して劉毅を欺いたのがこれに当たる。また「死地にはこれを示すに活きざるを以てす」というが、鎮惡が衣糧を棄てて士卒を励ましたのがこれである。