十七史百將傳卷五 蜀張飛

出自と長阪の奮戦

  • 張飛、字は翼徳、涿郡の人。若くして関羽と共に劉備に仕え、羽より年少のため羽を兄と仰いだ。劉備が曹操に従い呂布を破ると中郎将となった。
  • 劉備が曹操に背き袁紹・劉表に依った後、劉表の死去に伴い曹操が荊州に入ると劉備は江南へ逃れた。曹操が一昼夜追撃し当陽の長阪に迫ると、飛は二十騎で殿を務め、橋を落として川を挟み「身はこれ張翼徳なり、来たりて共に死を決せよ」と叫んで敵を近づけさせなかった(長阪の橋)。

益州平定と巴西の攻防

  • 劉備が江南を平定すると飛は宜都太守となり、益州入りの際は諸葛亮らと川を遡って郡県を平定、江州で劉璋の将厳顔を捕らえた。厳顔が降伏を拒み「わが州には断頭将軍あるも降将軍なし」と答えると、飛はその気概に感じ入って釈放し賓客とした。
  • 益州平定後は巴西太守となった。曹操配下の張郃が巴西の民を漢中へ移そうとして侵攻すると、五十余日対陣した末、精兵一万余で間道から挟撃して大破し、郃はわずかな供回りで山伝いに逃げた。

人物と最期

  • 飛は関羽に次ぐ勇猛の将だったが、羽が兵卒に優しく士大夫に驕るのに対し、飛は君子を敬い小人を顧みなかった。劉備は「刑罰が過ぎ、健児を日々鞭打ちながらそれを側に置くのは禍のもと」と戒めたが、飛は改めなかった。
  • 劉備の呉討伐に際し兵一万を率いて閬中から江州へ向かう予定だったが、出発前に配下の張達・范強に殺され、首を持って孫権の下へ逃げられた。劉備は都督(張飛の陣営)からの上表のみが届いたことを知り「飛は死んだのだな」と悟った。

史論

  • 孫子の「思いがけない道による」の通り、飛は間道から張郃を迎え撃った。「兵卒を愛児のように見よ」の通り、飛はかえって小人を顧みず配下に殺されたのがこれに当たる。