出自と孫策との交わり
- 周瑜、字は公瑾、廬江舒の人。孫堅が義兵を挙げ舒に家を移した縁で、堅の子孫策と同年で親しく交わり、南の大宅を策に貸して母への拝礼を受けさせるなど有無を通じ合った。策の没後、孫権が事を統べると瑜は張昭と共に政務を支えた。
赤壁の戦い
- 曹操が荊州に入り劉琮が降伏すると水軍数十万を得たとして群臣は恐れ、多くは迎降を勧めたが、瑜は「曹操は名目上漢の丞相だが実は漢賊、北方はまだ安定せず馬超・韓遂の憂いもあり、寒さで疾病も出よう、精兵三万で必ず破れる」と説き、権は決断した。
- 劉備が曹操に敗れて南へ逃れ魯粛と会い、共に計を図った。権は瑜・程普らを送り劉備と力を合わせ赤壁で曹操を迎撃させた。曹操軍は疾病が出ていた上、部将黄蓋の献策で連結した船に火を放つ計を用い、偽装降伏で近づいて火を放つと大火となり、曹操軍の多くが焼死・溺死して敗走した(赤壁の戦い)。
- 曹操が江陵に曹仁を残して北帰すると、瑜と程普が南郡で対陣、甘寧が夷陵で包囲された際は呂蒙の献策で救援し、瑜自らも矢傷を負いながら仁を退けさせた。
荊州経営と劉備への警戒
- 権は瑜を偏将軍・南郡太守とした。瑜は劉備を「梟雄で関羽・張飛という猛将を抱え、いずれ人の下に留まらぬ」と警戒し、劉備を呉に留め置き関羽・張飛と分断する策を献じたが、権は曹操への備えと劉備制御の困難から採らなかった。
- 益州の劉璋が張魯の侵攻を受けていると知ると、瑜は蜀を取り張魯を併せ、馬超と結んで襄陽から曹操を圧す策を献じ、権はこれを許可したが、江陵への帰途、巴丘で病没した。
史論
- 孫子の「天地を得るか」の通り、瑜は寒中に中国の兵を長江・湖沼に赴かせる曹操の不利を見抜いた。「親しい者を離間する」の通り、瑜の威名は遠く聞こえ曹操・劉備が共にこれを疑い謗ったのがこれに当たる。