十七史百將傳卷四 後漢段紀明
段熲、字は紀明。護羌校尉・并州刺史として西羌・東羌との戦いに生涯を捧げ、皇甫規・張奐と並び「涼州三明」と称された。徹底討滅を主張し、通算百八十戦を戦って羌を平定したが、宦官陽球の獄に連座して獄死した。
出自と初期の戦功
- 段熲、字は紀明、武威姑臧の人。若くして弓馬に習熟し遊侠を好み財を軽んじたが、長じて学問に励んだ。孝廉に挙げられ憲陵園丞、のち遼東屬國都尉に遷った。鮮卑が塞を犯すと熲は自ら馳せ向かい、賊が驚いて逃げるのを恐れ驛騎に璽書を偽らせて熲を召還させたと見せかけ、道中で退くふりをして伏兵を設け、追ってきた敵を大いに破って皆殺しにした。延熹二年、護羌校尉に遷った。
護羌校尉としての羌撃破と一時の失脚
- 燒當・燒何・當煎・勒姐ら八種の羌が隴西・金城塞を寇すると、熲は湟中義從羌一万二千騎を率い湟谷から出撃してこれを破り、南に黄河を渡って追討、軍吏田晏・夏育に先登を募らせ羅亭で再戦し酋豪以下二千級を斬り生口一万余人を得た。
- 延熹四年冬、上郡沈氐・隴西牢姐・烏吾諸種の兵が并州・涼州を共に寇すると、熲は湟中義從を率いて討伐に向かったが、涼州刺史郭閎が功を貪って熲の軍を留め進ませなかったため義從の兵は久役に堪えかね反乱を起こした。郭閎はその罪を熲に着せ、熲は下獄され左校で服役させられた。羌はますます猖獗し営塢を覆没させ、吏民は千人単位で朝廷の門に訴え熲の無実を訴えた。朝廷は郭閎の誣告と知り事情を尋ねたが、熲はただ謝罪し冤罪を訴えなかったため、京師では長者と称された。のち議郎に復し并州刺史に遷った。
湟中での苦戦と西羌の平定
- 延熹八年夏、湟中で当煎種を攻めた際、熲は兵敗れ二日包囲されたが隠士樊志張の策を用い夜密かに軍を出し鳴鼓して戻り大破、首虜数千を得た。以後、春から秋まで一日も休まず追撃を続け、羌はついに飢え疲れて敗散した。熲はこの西羌討伐で通算首級二万三千、生口数万人、馬牛羊八百万頭を得、降る者は一万余落に及び、都郷侯に封じられた。永康元年、当煎諸種が再び四千余人で武威を攻めようとしたが、熲はこれを追撃し渠帥を殺し三千余級を斬り、西羌はここに平定された。
東羌討伐をめぐる上疏と皇甫規・張奐との対立
- 東羌の先零らは征西將軍馬賢の敗死以来朝廷に討伐されず、たびたび三輔を侵していた。度遼將軍皇甫規・中郎將張奐が招撫を続けたが、降っては再び叛くを繰り返した。桓帝が方策を問うと、熲は「皇甫規に降った先零東羌は既に三万落ほどで残る寇は僅か、張奐が進まぬのは招降を望むゆえだが狼子野心は恩義では靡かず、勢いが窮まれば服し兵が去れば再び動く。矛を頸に突きつける他ない」と上言し、五千の騎兵・一万の歩兵・三千両の車で三冬二夏あれば平定でき、費用は五十四億に及ぶが、これで郡県が本土に還れると論じた。帝はこれを許した。
建寧年間の東羌平定
- 建寧元年春、熲は一万余人を率い十五日分の糧を齎して彭陽から高平へ進み、逢義山で先零諸種と戦い大破して八千余級を斬り牛馬羊二十八万頭を獲た。破羌將軍を拝命した。夏、さらに橋門から走馬水上まで追撃し、一日一夜で二百余里を進んで奢延澤の賊を撃破。落川に集結した残賊には騎司馬田晏の五千人を東に、仮司馬夏育の二千人を西に分遣し、六七千の羌が晏らを攻めると潰走させ、令鮮水上で熲自らも合流して追撃、水を奪い合いながら霊武谷まで転戦、被甲して先登し三日三夜追撃した末に大破した。涇陽に至り残る四千落は漢陽の山谷に散った。
- 張奐が「東羌は破れたが余種は尽くしがたく恩を以て降すべき」と上言したのに対し、熲は「先零は趙充国が居を内に移し、煎当は馬援が三輔に遷したが、始めは服しても終には叛いた」と反駁し、討滅を主張した。建寧二年、謁者馮禅を遣わし漢陽の散羌を招降させたが、熲は春の農繁期に降っても後に再び盗賊化すると見て虚を突いて兵を出すことを主張、夏に凡亭山付近に営を進め田晏・夏育の五千人に山上を守らせると羌が総攻撃し軍中は動揺したが、晏らが激励し殊死の戦いで撃破した。羌は東の射虎谷に潰走し諸谷の上下門を分守したため、熲は西県に木柵(広さ二十歩、長さ四十里)を築いて退路を断ち、晏・育ら七千人を夜中西山に登らせ、司馬張愷ら三千人を東山に登らせて挟撃、汲水の道も奪って羌を撃破、渠帥以下一万九千級を斬り、牛馬驢騾・氈裘廬帳などの鹵獲は数え切れなかった。馮禅らの招降した四千人は安定・漢陽・隴西三郡に分置され、東羌はここに悉く平定された。熲は通算百八十戦を戦い、斬首三万八千六百余級、鹵獲牛馬羊驢騾駱駝四十二万七千五百余頭、費用四十四億、軍士の死者四百余人を数え、新豊県侯に改封された。
晩年
- 熲は行軍中も士卒を仁愛し、病者は自ら見舞い手ずから傷を包んだ。辺境に十余年在り一日も安眠せず将士と苦楽を共にしたため皆死戦を厭わなかった。光和二年、太尉となったが日食に伴い自ら弾劾され印綬を収められ廷尉に送られた。司隷校尉陽球が王甫を誅する上奏に熲も連座させ、獄中で詰責されて鴆を仰いで死んだ。かつて熲は皇甫威明(皇甫規)・張然明(張奐)とともに名を知られ、京師では「涼州三明」と称された。
史論
- 孫子は「用いてこれに不用を示す」というが、紀明が鮮卑を撃とうとしながら偽って召還されたと見せたのがこれに当たる。また「敵を料り勝を制す、上將の道なり」というが、紀明が三冬二夏で平定できると言ったのがこれである。また「死地には吾これに不活を示す」というが、紀明が士卒に進めば事成り走れば必ず死すと説いたのがこれに当たる。また「將能にして君御せざる者は勝つ」というが、紀明が詔書を奉じるたび軍を朝廷の統制外に置いたのがこれである。