学問と忠信
- 賈復、字は君文、南陽冠軍の人。若くして学を好み『尚書』を学んだ。師の李生は「賈君の容貌志気に加え学に勤める姿は将相の器」と評した。王莽末、県掾として塩を運ぶ際、同輩が皆塩を放棄する中で独り完全に持ち帰り信を称えられた。
光武帝への従軍と勇戦
- 光武の下で鄧禹の推薦により召見され、破虜将軍として盗賊討伐を督した。馬が羸弱と見て光武は自らの左驂を与えた。青犢討伐で兵が飢えても「先に破ってから食おう」と羽を被って先登し賊を敗走させた。真定の五校討伐で重傷を負うと、光武は「賈復を別将にしなかったのは軽敵を恐れたからだ、果たして名将を失うところだった」と嘆いた。回復後は薊で光武に合流し鄴の賊を破った。
執金吾としての功績と謙譲
- 光武即位後、執金吾として冠軍侯に封じられた。郾の尹尊討伐を諸将が躊躇う中で復が自ら志願し、光武は「執金吾が郾を撃つなら憂いなし」と笑い、宛は大司馬に委ねた。復は連戦連勝で尹尊を降し、従軍で敗れたことがなく十二か所の傷を負った。光武は復の深入りを惜しんで遠征を控えさせ、諸将が功を誇る中でも復は語らず、光武は「賈君の功は私が知っている」と評した。膠東侯に定封され、光武が武を偃せ文治を修めようとするのを察して鄧禹と共に兵権を返上し儒学に励んだ。朱祐らは復を宰相に推したが光武は功臣を要職に用いず、復は高密・固始と共に三侯として国政に参与する厚遇を受け、建武二十一年に卒した。
史論
- 孫子は「慮り無くして敵を易んずる者は必ず人に禽にせらる」というが、復が常に軽敵で光武が別将を許さなかったのがこれに当たる。また「人を択びてこれに任す」というが、復が郾攻めを願い出て光武が「憂いなし」と評したのがこれである。