十七史百將傳卷三 前漢馮奉世

馮奉世、字は子明。莎車の反乱平定で名を挙げたが矯制を理由に封侯されず、のち永光二年の隴西羌反乱では速戦即決を説いて討伐を主導した。功は大きかったが、生前も死後も『春秋』の義を理由に十分な恩賞を得られなかった。

年表(1件)
  • 永光二年隴西の羌の反乱に対し即時討伐を主張し、右将軍として出征する

出自と莎車討伐

  • 馮奉世、字は子明、上党潞の人。良家の子として郎に選ばれ、昭帝の時武安長を補し、官を失った三十余歳の頃から『春秋』の大義を学び兵法を読んだ。前将軍韓増が軍司空令に推挙し従軍して匈奴を撃った。当時、漢はしばしば西域に使いを出したが辱命や貪汚が多く外国に苦しめられていたため、烏孫が匈奴撃退の大功を立て西域諸国が新たに服したこの時期、善遇して安んじる使者を求めていた。韓増は奉世を衛侯として推し、大宛諸国への客を送る任に就かせた。
  • 伊城に至り、都尉宋将から莎車が旁国と共に漢の置いた莎車王万年を殺し漢の使者奚充国も殺したとの報を受けた。匈奴も車師城を攻めたが落とせず退いていた。莎車は北道諸国が匈奴に属したと揚言して南道を攻め歃血して漢に叛き、鄯善以西は往来が絶えた。都護鄭吉・校尉司馬意は北道諸国にあった。奉世は副の厳昌と謀り、急ぎ撃たねば莎車が日増しに強くなり西域全体が危ういと判断、節を以て諸国王に諭告し兵を発させ、南北道合わせ一万五千人で莎車を攻めその城を抜いた。莎車王は自殺し首は長安に送られた。諸国は平定され威は西域を震わせた。奉世は兵を罷めてこれを報告、宣帝は韓増に「賀すべき将軍の推挙は人を得た」と述べた。奉世は西の大宛に至り、莎車王を斬った功で他の使者と異なる礼遇を受け、名馬象龍を得て帰った。
  • 上は喜び奉世の封を議した。丞相・将軍らは「『春秋』の義では大夫が国境を出て国家を安んじられれば専断できる、奉世の功は著しく爵土の賞を加えるべき」としたが、少府蕭望之は「奉世は使命の趣旨を超えて矯制し諸国の兵を発した、功があっても後の法とすべきでない、封じれば後の使者が奉世を先例に発兵し要功を図り夷狄で事を起こす恐れがある」として反対した。上は望之の議を善しとし、奉世を光禄大夫・水衡都尉とした。常恵の薨後、奉世は右将軍典属国となった。

隴西羌の反乱と献策

  • 永光二年秋、隴西の羌多姐旁種が反した。丞相韋玄成・御史大夫鄭洪・大司馬車騎将軍王接・左将軍許嘉・右将軍奉世が召集され議論したが、当時は不作続きで四方が饑饉に苦しむ中、玄成らは対応に窮した。奉世は「羌虜は境内で背いており速やかに誅さねば遠夷への威が保てない、私が師を率いて討ちたい」と申し出た。上が兵数を問うと、奉世は「善く兵を用いる者は役を再興せず糧を三度運ばぬ、往時は敵を見誤り師を損なうか、あるいは何度も発兵して日を曠しくし威武を損なった。今の反虜はおよそ三万、法では倍の六万を要するが羌戎は弓矛の兵に過ぎず器も鋭くない、四万人で一月あれば決着する」と答えた。
  • 丞相・御史・両将軍は農繁期であるとして多くを発せず一万人の屯守で足りるとしたが、奉世は「饑饉で士馬は疲弊し守戦の備えも久しく廃れ、夷狄は皆漢の辺吏を侮る心があり羌が先に難を起こした。一万を分屯すれば兵少なきを見て虜は恐れず、戦えば兵を挫き師を病ませ、守れば百姓を救えない。こうして怯弱の形が見えれば羌人はこれに乗じ諸種が呼応し中国の役は四万に収まらぬだろう。少数を発して日を長引かせるより一挙に速やかに決するほうが利害は雲泥の差」と固く争ったが認められず、二千人の増員のみが認められた。
  • 奉世は一万二千騎を率い将屯と称して出陣、典属国任立・護軍都尉韓昌を偏裨とし隴西に至り三処に分屯(典属国は右軍で白石、護軍都尉は前軍で臨洮、奉世は中軍で首陽西極上)した。前軍が降同阪に至り先発隊が羌と地の利を争い、また別の校尉隊が広陽谷の民を救おうとしたが羌虜の勢盛んで両校尉ともに討たれた。奉世は地形と敵の兵力を上奏し三万六千人の増員を求め、天子は六万余人を発兵し大常戈陽侯任千秋を奮武将軍として補佐させた。奉世は「この兵さえあれば大将は不要」と煩雑を避けたい旨を述べ、輸送費についても陳べた。
  • 上は璽書で奉世を労いつつも「羌虜が漢の辺境を侵し天道に逆らったため誅を命じたのに、逆に敵に畔かれたとの名を負い中国の恥となった、将軍の材と精兵で誅すればたやすいはずが、閑習の不足か、恩厚の不明かと怪しむ、兵法に大将軍出でては必ず偏裨あり威武を揚げ計策に参ずというが、なぜ疑うのか」と譴責しつつ、奮武将軍の兵の到着を待って合撃するよう命じた。十月に諸軍が隴西に集結、十一月に並進し羌虜を大破、数千級を斬り残兵は塞外へ逃げた。上は「羌虜は破散創痍、亡逃出塞したので吏士を罷め要害の地に屯田を留めよ」と命じた。翌年二月、奉世は帰京し左将軍に転じ、後に功により関内侯の爵を賜った。奉世は病を得て一年余り後に卒し、爪牙官として前後十年、折衝の宿将として名声は趙充国に次いだ。

死後の評価

  • 奉世の死後二年、西域都護甘延壽が郅支単于誅殺の功で列侯に封じられた。杜欽は上疏し奉世の前功を追訟して「莎車王が漢使を殺し諸国を叛かせた際、奉世は衛候として便宜発兵し莎車王を誅し城郭を安定させたが、『春秋』の義に基づき矯制を理由に侯を得られなかった。今匈奴郅支単于を延壽が誅した際も四万余人の兵で発兵し封侯された。罪の軽重では郅支は莎車より薄く、敵の規模では莎車が郅支より衆く、用いた兵は奉世が寡なく、勝算は奉世が国境の安寧に功があり、失敗すれば延壽の方が国家に禍が深かったはずだった。命令を超えて事を起こした点は同じなのに延壽は封じられ奉世だけ録されない、功が同じで賞が異なれば功臣は疑い、罪が同じで刑が異なれば百姓は惑う」と論じたが、上は先帝の時代の事として再考しなかった。

史論

  • 孫子は「将よく君御せざれば勝つ」というが、奉世が矯制して発兵し漢帝がこれを封じようとしたのがこれに当たる。また「兵は拙速を聞くも巧の久しきを睹ざるなり」というが、奉世が少数を発して日を長引かせるより一挙に速決する方が利害雲泥だと述べたのがこれである。また「三軍の権を知らずして三軍の任を同じくすれば軍士惑う」というが、奉世が大将は不要と述べたのがこれに当たる。