十七史百將傳卷三 後漢鄧禹

光武帝との出会い

  • 鄧禹、字は仲華、南陽新野の人。更始帝が立つと豪傑の多くが鄧禹を推薦したが従わなかった。光武帝が河北を安集していると聞くや杖策して北へ渡り、鄴で追いついた。光武は大いに喜び「私は自由に官位を授けられる、遠来のそなたは仕官を望むか」と問うと、禹は「望みません」と答え、「では何を望むのか」との問いに「ただ明公の威徳が四海に加わり、私が微力を尽くして功名を竹帛に垂れることを願うのみ」と答えた。光武は大いに喜び留宿させた。
  • 禹は「諸将は皆凡庸の徒で財幣に志を置き威力を争うのみで深慮遠図なく、真に主を尊び民を安んじようとしていません。明公には元々盛徳大功あり天下に慕われ軍政も厳粛、賞罰も明信です。今は英雄を招き民心を悦ばせ高祖の業を立て万民の命を救うべき時、公が天下を慮れば天下平定は難事ではありません」と進言、光武は大いに悦び鄧将軍と号させ、常に側近く留めて計議に与らせた。将の任用も鄧禹に諮ることが多く、その挙げる人材は皆その才に適い、光武は禹を知人の明ありとした。

河東平定

  • 赤眉が西の関中に入ると更始帝は王匡・成丹・劉均に防がせたが、光武は赤眉が長安を破ることを見越し関中に乗じようと図りつつ山東の事に忙殺されており、沈深大度の鄧禹に西討の任を託した。前将軍として節を持たせ麾下の精兵二万を分け西へ入関させ、随行する偏裨は禹自身に選ばせた。
  • 建武元年、禹は箕関から河東に入ろうとしたが河東都尉が関を開かず十日攻めてこれを破り輜重千余乗を得た。安邑を包囲したが数月落とせぬ中、更始の大将軍樊参が数万で大陽を渡り禹を攻めようとしたため、禹は諸将を解南で迎撃させ大破しその首を斬った。王匡・成丹・劉均らが十余万で合軍し再び禹を攻め、禹軍は不利となり日暮れに戦を止めた際、諸将は兵勢の摧かれたのを見て夜のうちに退くよう勧めたが禹は聞かなかった。翌日は六甲窮日で敵が出てこなかったため禹は兵を立て直し、明くる朝、匡らが総攻撃をかけると禹は軍中に妄動を禁じ、敵が陣に迫ってから諸将に鼓を発し並進させて大破した。匡らは軍を捨てて逃げ、禹は軽騎で急追し劉均を捕らえ河東を平定した。

関中への進軍と赤眉との対峙

  • 光武の即位に伴い禹は大司徒に拝され酇侯に封じられた。時に禹は二十四歳。三輔がたびたび敗れ赤眉の残賊が過ぎる地は荒れ果て、百姓は帰るべき所を知らぬ中、禹が勝ちを重ね軍紀正しいと聞き、風を望んで携え負われて迎える者が日に千を数え、衆は号して百万といわれた。禹はその至る所で車を停め節を駐めて民を労い、老幼が車下に満ち感涙にむせぶ様に関西でその名は震えた。帝も度々書を賜り褒めた。
  • 諸将豪傑は長安への直進を勧めたが、禹は「今我が衆は多いが戦える者は少なく、前に頼るべき備蓄なく後に転漕の資もない。赤眉は長安を得たばかりで財富充実し鋭鋒は当たり難い。盗賊の群れに終日の計はなく財谷多くとも変事は尽きぬだろう。上郡・北地・安定の三郡は土地広く人少なく穀多く畜多い、しばらく北道で兵を休め糧を得て士を養い敵の疲弊を待ってから図るべき」と述べ、枸邑まで軍を引いた。禹の到る所で赤眉の別将の営塁を破り、郡邑は次々に帰順した。
  • 帝は関中未定のまま禹が久しく進まぬのを見て「司徒は堯、賊は桀、長安の吏人は帰る所を知らず彷徨っている、時を移さず進討し西京を鎮め百姓の心をつなぐべし」と勅を下したが、禹は前の考えを崩さず馮愔・宗歆に枸邑を守らせた。二人は権を争い攻め合い、馮愔は宗歆を殺しさらに禹を襲った。禹の報告に帝は「愔の親愛の者は誰か」と問い、「護軍黄防」との答えに「愔と防はいずれ相争うはず、馮愔を縛るのは必ず黄防だろう」と読み、尚書宗広を節を持たせて降させに送った。月余り後、果たして防が愔を捕らえ帰順した。
  • 赤眉が扶風に西走した頃、禹は南へ長安に至り昆明池に軍を留め大いに士卒を饗し、諸将と斎戒し吉日を選んで高廟に謁し十一帝の神主を収め洛陽に送り、園陵を巡行して吏士を置き守らせた。禹は延岑と藍田で戦ったが勝てず谷雲陽に留まった。馮愔の反乱後、禹の威は損なわれ食も乏しくなり帰附の者は離散した。赤眉が再び長安に戻ると禹は戦って敗れ高陵まで退き、飢えた士卒は棗や野菜を食んだ。帝は禹を召還し「赤眉は糧なく自ずと東に来る、私が打ち破るだけのこと、諸将の憂いではない、妄りに進兵するな」と命じた。
  • 禹は任を受けながら功を遂げられぬことを恥じ、飢えた兵で檄戦を重ねるも利あらず、車騎将軍鄧洪と共に赤眉を撃って敗れ、衆はみな死散し禹はわずか二十四騎で宜陽に帰った。延岑・秦豊が順陽の間を寇すると、禹は復漢将軍鄧曄を護らせて鄧で延岑を破り武当まで追ってさらに破った。延岑は漢中へ逃げ残党は悉く降った。建武十三年、天下平定し禹は高密侯に封じられ、後に薨じた。

史論

  • 孫子は「利に雑えてその務めを伸ばすべし」というが、禹が賊の出て来ぬ隙に兵を整え直したのがこれに当たる。また「道を修めて法を保つ」というが、禹の軍が紀律正しく降者が日々増えたのがこれである。また「軍に撃たざる所あり」というが、禹が長安を攻めず鋭鋒を避けたのがこれに当たる。