十七史百將傳卷三 前漢陳湯

陳湯、字は子公。西域副校尉として甘延壽とともに西域に赴任し、郅支単于討伐を独断で敢行して成功させた智勇の将。矯制の罪に問われつつも功により関内侯に封じられ、のちの西域情勢についても的確な見通しを示した。

年表(2件)
  • 初元四年郅支単于が漢の使者谷吉らを殺害し、漢に叛く
  • 建昭二年甘延壽とともに矯制発兵し、郅支単于の城を攻略してその首を斬る

出自と西域副校尉への抜擢

  • 陳湯、字は子公、山陽瑕丘の人。若くして書を好み博学で文に長じたが、家貧しく借財に節度なく州里に評判が悪かった。推薦されて郎となり、たびたび外国への使いを求め、やがて西域副校尉に遷り甘延壽と共に出発した。
  • かつて宣帝の時、匈奴で五単于が争い立ち、呼韓邪単于・郅支単于がともに子を漢に人質として送ったが、後に呼韓邪単于が自ら入朝すると、郅支単于は呼韓邪が弱って漢に降ったと見て西へ右地を収め、漢が呼韓邪を送る兵を出したことに乗じ、呼偈・堅昆・丁令を破って三国を併せその地を都とした。郅支は漢が呼韓邪のみを助け自分を助けぬことを恨み、漢使者江乃らを困辱した。初元四年に献上と侍子・内附を求める使いを漢が送ったが、郅支単于は谷吉らを殺害し、漢を裏切ったことを知り呼韓邪の強大化を恐れて西の康居に奔った。漢は三度使者を送り谷吉らの死を問うたが、郅支は使者を困辱しつつ「強漢に帰計したく子を入侍させたい」と上書した。

矯制発兵と郅支城攻略

  • 建昭二年、陳湯は甘延壽とともに西域に出た。沈勇で大略あり策謀に富み奇功を好んだ陳湯は、外国を統轄する立場から「郅支単于の地は絶遠だが蛮夷に金城強弩の守りはない、屯田の吏士を発し烏孫の衆兵を従えて城下に直進すれば、彼は逃げるも守るも成り立たず千載の功が一朝で成る」と甘延壽に謀った。延壽が朝廷に奏請しようとすると湯は「国家の議に諮れば通常は却下される」と諫めたが延壽は躊躇した。延壽が病に伏す間に湯は独断で矯制し城郭諸国兵・車師戊己校尉・屯田吏士を発兵、驚いた延壽が止めようとすると湯は剣を按じ「大衆は既に集まった、お前は衆を挫くつもりか」と叱り、延壽もこれに従った。漢兵・胡兵合わせ四万余人を集め、二人は矯制の罪を自劾する上疏をした上で出兵の事情を陳べた。
  • 軍は六校に分かれ、三校は南道から蔥嶺を越え大宛を経、三校は都護自ら率いて温宿国を発し北道から赤谷に入り烏孫を経て康居東界に入った。貴人屠墨を諭して威信を示し盟を結び去らせ、単于城の六十里手前で貴人貝色子男開牟を捕えて導きとし、郅支の情勢を知った。城三十里の地で単于の使者に問われ「単于が上書で入朝を願ったため天子が都護将軍を迎えに遣わした」と応じ、単于の非礼を責めた。城三里の地に至ると単于城は五彩の幡幟を立て数百人が甲を被って城に登り、百余騎が往来し歩兵も陣を敷いて用兵を講習していた。
  • 漢軍は鼓音で城を四面より囲み塹を穿ち門戸を塞ぎ、鹵盾を前に戟弩を後ろに配して城楼を射た。土城外の木城からも射られ死傷が出たが、外人が木城を薪で焼き、夜半に単于が城を出ようとするも再び守りに戻った。単于自ら楼上で甲を着け閼氏夫人数十人も弓を射たが、単于は鼻に矢を受け夫人の多くが死んだ。単于は大内に籠もり、康居の万余騎も四面から呼応したが漢軍は動じず、平明に火を放ち鉦鼓と共に攻め入り、康居兵は退いた。土城に突入し単于・男女百余人は大内へ逃げ込むも漢兵は放火して斬り込み単于の首を斬った。谷吉らの帛書も回収し、閼氏・太子・名王以下千五百十八級を斬獲、生虜百四十五人、降虜千余人を得て城郭諸国十五王に鹵獲を分与した。

論功と晩年

  • 延壽・湯は「郅支単于は民に惨毒を行い天に大悪を通じた、陛下の神霊により陰陽ともに応じ単于及び名王以下を斬った、その首を槁街の蛮夷邸間に懸けて強漢を犯す者は遠くとも必ず誅せられることを示すべき」と上疏した。しかし湯は素より貪欲で鹵獲した財物の持ち帰りに不法な点があり司隸校尉に問われた。湯は「郅支討伐の吏士を出迎えるべきなのに司隸に検分されるのは郅支に代わって仇を討たれるようなものだ」と上訴し天子は吏士を出させた。
  • 石顕は「延壽・湯は矯制で挙兵したのだから誅せられぬだけで十分、爵土を加えれば後の使者が危険を冒して事を起こすようになる」と反対、議論は長く決しなかった。宗正劉向は「郅支は百を数える漢使を殺し外国にその暴を晒し、陛下は激しく誅を欲した、延壽・湯は聖旨を受け百死を出て絶域に入り郅支の首を斬り谷吉の恥をすすいだ。呼韓邪単于は喜びかつ恐れ北藩を守ることを願い出た。かつて周の方叔・吉甫が獫狁を誅して蛮荊が服した故事、また貳師将軍李広利は五万の師と億万の費用で四年を費やし駿馬三十匹しか得なかったのに宛王母鼓の首を斬った功で罪を問われなかった例を思えば、康居は大宛より強く郅支の号は宛王より重く殺害の罪も馬留めより甚だしいのに延壽・湯は漢の士も糧も煩わせず貳師に比べ功徳は百倍」と論じ、延壽を義成侯に封じ湯には関内侯の爵を賜った。
  • 後に湯は康居王の侍子が実は王子でないと上言したが検証の結果実は王子であったため、湯は下獄し死罪に問われた。大中大夫谷永は「戦克の将は国の爪牙、重んじねばならぬ。関内侯陳湯は郅支の無道を憤り王が誅されぬのを憫れみ三重の城を屠り郅支の首を斬り十年の逋誅を報い辺吏の宿恥をすすいだ、その功は漢元以来の将にも例がない」と訟え、天子は湯を出獄させたが爵は奪い士伍に落とした。
  • 数年後、西域都護段会宗が烏孫兵に囲まれ救援を求める上書が届いた際、丞相王商・大将軍王鳳らの議が数日決せぬ中、鳳が「湯は籌策に富み外国事に通じている」と推薦し、天子は湯に会宗の奏を示した。湯は「胡兵五が漢兵一に当たるのは兵器が拙く弓弩も利かぬからだが、今は胡も漢の技を得てなお三対一、しかも兵法に客は倍して主人は半ばにして敵すとある、会宗を囲む敵は会宗に勝つには足りぬ」と述べ、「兵は軽装で五十里、重装で三十里進む、会宗が敦煌の兵を発しても救援には間に合わぬ、これは報仇の兵で救急ではない」と分析、「不出五日、吉報が届く」と告げた。四日後、囲みが解けたとの軍書が届いた。湯は長安で没した。

史論

  • 孫子は「将よく君御せざれば勝つ」というが、湯が矯制して発兵したのに漢帝が誅さなかったのがこれに当たる。また「敵の利を取る者は貨なり」というが、湯が虜獲を諸国に分け与えたのがこれである。また「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」というが、湯が胡兵五が漢兵一に当たると説いたのがこれに当たる。また「戦の地を知り戦の日を知る」というが、湯が烏孫の囲みが五日で解けると読んだのがこれである。