十七史百將傳卷二 前漢韓信

貧窮の時代と忍耐

  • 韓信は淮陰の人。貧しく素行も定まらず、下郷の南昌亭長に幾月も食を寄せていたが亭長の妻に疎まれて絶交、城下で釣りをしていた折には漂母に何十日も食を恵まれ、「必ず厚く報いる」と言うと漂母は「王孫を哀れんで食を進めただけ、報いなど望まぬ」と答えた。淮陰の屠者の若者に「臆病者なら剣で私を刺せ、できねば股をくぐれ」と辱められると、韓信は黙って股をくぐり、市人に笑われた。

楚から漢への転仕と拝将

  • 項梁・項羽に仕えたが用いられず、漢に投じてからも無名のまま、法により斬られる列にあったところ、滕公に見出されて助命され、粟都尉に任じられた。蕭何がその才を見抜いて重んじたが、韓信は用いられぬことに絶望して出奔しかけ、蕭何が自ら追いかけて連れ戻した「国士無双」の逸話が生まれた。蕭何の強い推挙により、劉邦は儀礼を整えて韓信を大将軍に拝した。

項羽・劉邦の器量比較と三秦攻略

  • 拝礼の後、韓信は劉邦に「項羽は匹夫の勇と婦人の仁に過ぎず、諸侯を虐げて人心を失っている、大王が逆の道を行けば天下は従う」と説き、劉邦は大いに喜んだ。この策に従い、陳倉から出て三秦を平定、以後、魏・代・趙・燕・斉を次々に攻略していく。

魏・代の平定と井陘の戦い

  • 魏王豹が漢に叛くと、韓信は疑兵を張って渡河を装いながら伏兵で安邑を急襲し魏王豹を捕らえて河東郡とした。趙を攻めるにあたり、趙の広武君李左車は成安君陳餘に「韓信軍の糧道を奇兵で断つべし」と進言したが容れられず、韓信はこれを見抜いて背水の陣を敷き、赤旗を用いた奇襲で趙軍を大破、成安君を斬り趙王歇を捕らえた。「兵法は死地に陥れてこそ生き、亡地に置いてこそ存する」との韓信の説明に諸将は服した。捕らえた広武君を師と仰ぎ、その献策に従って燕を服させた。

斉平定と龍且の敗死

  • 酈食其が既に斉を説き降した後も、蒯通の勧めで韓信は斉を攻め、油断していた斉を破った。斉王広に烹殺された酈食其の恨みをよそに、楚の援軍龍且が斉と結んで韓信を迎え撃つと、韓信は潍水を土嚢で堰き止め、半渡の敵を急襲して堰を切り、龍且を討ち取って斉を平定した。

仮王への冊立と項羽・蒯通の誘い

  • 韓信は「斉は変じやすい国、仮王として鎮めたい」と請い、劉邦は当初怒ったが張良・陳平の進言で「真の王とせよ」と態度を変え、斉王に封じた。楚の武渉、斉の蒯通は共に韓信へ天下三分の計を説いたが、韓信は「漢王の厚遇に背けない」として応じなかった。

楚滅亡後の失脚と最期

  • 項羽滅亡後、劉邦は韓信の軍を奪って楚王に移封、後に謀反の疑いをかけて捕らえ、淮陰侯に格下げした。韓信は絳侯・灌嬰らと同列に置かれることを恥じ、劉邦との対話で「陛下は十万しか率いられぬが、私は多々益弁ず」と答えつつ「陛下は兵を率いる才ではなく将を御する才によって私を捕らえた」と述べた。後に陳豨の反乱に呼応しようと家臣と謀ったが、密告により呂后と蕭何の計略にかかり、宮中に呼び出されて斬られた。

史論

  • 孫子は「これを計るに校べてその情を索める」と説くが、韓信が楚漢の得失を比較したのはこれに当たる。また「遠くしてこれに近きを示す」というが、臨晋に兵を示しつつ夏陽から渡ったのもこれ、「深く入れば則ち専らにす」というが、趙を急襲したその鋭鋒は防ぎ難かったこと、「これを死地に置きて後に生く」というが背水の陣がこれ、「戦わずして人の兵を屈す」というが燕がその威に靡いたこと、「半ば渡るを撃つは利あり」というが潍水で龍且を斬ったこともいずれもこれに当たる。